Saturday, April 10, 2010

Louis Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック 2

Louis Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック2

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.of a free World State." -The New Palestine,November28,1942- Louis Adamic

a free Croatia, and a free Serbia in a free Balkan or southeast-European confederation in a free United Europe, which is part of

of a world organized upon the basis of an intense consciousness of all people's interdependence and also for a free Slovenia,

「A Free World State」"… I am for a free Jewish homeland in Palestine which is not anything exclusive and separate but a part of

アダミックは旧ユーゴの最も危機的な時代のスポークスマンであったし、彼ほど海外から祖国に貢献した人物はいなかったが、戦後なぜかピタリと黙して語られていなかった。HPに書いたように私の長年の疑問である。しかし少しずつその原因が分かりかけてきた。真実は、いや歴史事実を明らかにせねば!

アダミックと祖国ユーゴスラビア・スロヴェニアとの国家的関係を大まかに辿ってみたが、彼の先見性と、大局を捉えるジャーナリストとしての第一級のセンスを私は感じる。

「私はまた、自由な世界政府の一部である、自由なヨーロッパ連邦の、自由なバルカン連合あるいは南東欧連合の、自由なスロヴェニア、自由なクロアチア、自由なセルビアに賛成である。」  1940年代、アダミックの「世界の多様性による統一」は最終的には、「真の国際連合」の創造にあった。

☆1942年にアダミックはこう語っている。「私は、完全に排他的でも、完全に分離されたものでもない、あらゆる人間の強烈な独立意識を根底においた世界の一部でもある、パレスティナの自由なユダヤ人の国土に賛成である。

「世界政府シャドーキャビネット」を準備すべきときではないだろうか。ひょっとすると、唯一の被爆国、日本は政治や環境、文化などの面でそのリーダーシップをとれるチャンスがあるのでは、と夢想したりするのだが...。

*「世界の多様性の統一」-しかしそのフレームワークは、思いの外、早く実現するかもしれない。いまや世界はインターネットによる情報高速化時代を迎えている。そろそろ国連は、世界各国の有識者もしくは大学の研究機関と協同して、「世界の多様性による統一」のための

それは実現できたが、しかし世界の「多様性による統一」は、現状では見果てぬ夢となっている。"The future, ours and the world's, is in unity within diversity." Louis Adamic

⑧「世界の多様性の統一」アダミックは193、40年代アメリカの「多様性による統一」の最大の推進者であり、エスニック研究のパイオニアであった。Adamic is the pioneer spirit of ethnic studies in the United States 。

⑦2004年 EU(欧州連合)誕生。1941年11月8日アダミックはニューヨークでその詳細 を講演。アダミックのプロジェクトの一部「アメリカ復興使節団」としてヨーロッパ連邦を提言。郵便、貨幣、統一などEUに類似。スロヴェニアは2007年1月にEUに加盟。東欧諸国その他が続く。

⑥1991年にスロヴェニア独立宣言。  The native's Return 1934(邦訳タイトル『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』)で、「いつの日か...」と予見されている。

さらに500頁を超える引用、関連文、注など。*国際的にも冷戦をスタートさせる戦後史の最も重要な時期であり、アダミックがいかにそれに関わったか詳細は後で書く 。

⑤1948年-1951年1949年1月、17年ぶりに二度目の帰郷をし、新政権のトップの指導者らと政治、経済、歴史、文化について討議した新ユーゴスラヴィアのドキュメント。最後の本『鷲とそのルーツ』(1952年 死後出版)、未出版『激震の中のチェスゲーム』

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。

To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉会長となる。

「"Ed.Liberation. Death to Fascism! Liberty to the People! Picture Story of the Yugoslav People's Epic Struggle Against the Enemy-

④第二次世界大戦下。1941年-1945年 故郷がナチドイツに占領されると、戦局の悪化とともに、ファシストと闘うパルチザンをアメリカで初めて支持。ユーゴスラヴィア系アメリカ人統一委員会議長に選出され、同委員会の機関誌「ブルティン」を自ら編集し創刊する。

*Two-Way Passage 1941 の中で詳細に述べられている。ユーゴ、南東欧、欧州に対しての声明文は、民主主義体制に基づいた各民族の対等とか、市民権とか、自由、平和、人権、正義などに配慮されたもので、ユーゴ系移民の将来のために米国民の前でその「保障」の公言を求めている。

③1941年「新ユーゴスラヴィア」建国樹立のメンバー、Frano Petrinovic, Stoyan Pribichevich, Nicholas Mirkovich, Vaso Trivanovichに加わり、民主的な新しい国家案をロンドン亡命政府、ペータル国王のもとへ送付。

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。だが一方では、メディアやユーゴスラヴィア系アメリカ人から「コミュニスト」とレッテルを貼られ、さんざん叩かれる。アダミックが著書で主張していたものは、実に民主的なものであったが。

To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉会長となる。

②1932年に19年ぶりの帰郷。The native's Return 1934、Struggle 1934 を出版し、ユーゴ独裁政権崩壊へ導く。アレクサンダル独裁国王はマルセイユで暗殺され、独裁政権崩壊、王子はロンドンへ亡命。

①大戦前、1912年、オーストリア帝国主義に反対する革命的な「南スラヴ(ユーゴスラヴィア)国家主義運動」の学生デモに参加し、逮捕、拘留され、ギムナジウムを退学される。14才で単身アメリカへ移住。

アダミックと祖国ユーゴスラビア・スロヴェニアとの国家的関係を大まかに辿ってみると

地球規模で進展するボーダレス希求、多種多様な価値観の発見、世界の多様性を追求したスロヴェニア出身の著名なアメリカ移民作家を通して時代を読む、民族、国境、時代を越えて心に響く作品集(翻訳書)! http://bit.ly/a2kTrL

「ジャングルの中の笑い」を改訳中だが、H.Cの作品の読みの深さにただただ吃驚。以下の論文(解説)「ドライサーを超えて...」 "Beyond Dreiser: Louis Adamic's Laughing in the Jungle"  by prof.H.Christian

そして本文入る前頁に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for." -- Laurence Sterne 《A Sentimental Journey》 とある。

アダミックにとって、生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。あらゆる努力を試みたが、ビザを取ることができなかった。アダミックの遺著『鷲とそのルーツ』の一章の見出しに、"I really wanted to go to Russia first, but-”とある。

☆アダミックの死の原因ともなったといわれる『鷲とそのルーツ』だが、編集者が三分の一削除したと書いているそのタイプ原稿もまだ見つかっていない。ユーゴ政府による明らかな検閲。「チトーの役割」や最も肝心の論争が削除され、その原稿もまだ行方知れず。Zitnikの論文から読み解いてみる。

☆アダミックが、国家も、人種も、宗教も、イデオロギーも超えて、たった一人命尽きるまで闘った1947-1951年は、戦後世界史のターニングポイントであったのだろう。 IF。

ユーゴスラビア-ソビエト危機を背景に、討議は一方は、マルキストによるイデオロギーの立場から、他方は、政治的独立の見解に立つアメリカ作家、という形で闘われた。(prof.dr.Zitnik)

その中の大部分は、Marshal Tito, Vladimir Dedijer, Edvard Kardellj, Boris Kidric, Milovan Djiasその他、政治、経済、文化の代表者らとアダミックとの討議の要約である。

before the Committee on Un-American Activities....」  ☆新生ユーゴスラビアについて書かれた『鷲とそのルーツ』はアダミックの死の九ヶ月後、1952年に出版された。

If we don't try to avoid World War Ⅲ, it is ludicrous to worry about being called Red, a Communist, or whatever; or about being hauled up 

If we don't try to avoid it, it is vain to wonder about the kind of curtains you will hang up in the spring. ...

「Whether or not we can avoid World War Ⅲ, I don't know; but I feel that if we don't at least try to avoid it, nothing else is worth doing.

☆アメリカの広島・長崎の原爆投下により、アダミックは世界がすでに核時代に入ったことを明確に認識していた。「鉄のカーテン」が引かれ、世界は東西のイデオロギーの対決により、軍拡競争へまっしぐらに進む。1947年1月アダミックは、ニュージャージー州オレンジのユニタリアン教会で講演する。

did not think of as distinctive in those days." Adamic, Robinson Jeffers: A Portrait (Seattle: University of Washington 1929)

with an eye for significant detailes. Rereading the book, I am reminded of qualities my father had that I took for granted and

as a description of the man and the work he did up to the late twenties. Concise and unpretentious, it is perceptive and written

"Robinson Jeffers: A Portrait" 1982 forword by one of Jeffers' twin sons Garth Jeffers "but I think Adamic's short book is unexcelled

☆『ロビンソン・ジェフーズ-詩人の肖像』1929年にアダミックによって出版された、ジェファーズの初期の重要な作品。1982 年にジェファーズの息子の「前書き」を付けて復刻された豪華版。「他にまさるものはない」と評価している。

『わが祖国』1943年 / A Nation of Nations 『多民族国家』1945年 / Dinner at the White House 『ホワイトハウスの夕べ』1946年。 / The Eagle and the Roots 『鷲とそのルーツ』1952年

☆アダミックほど国外から祖国ユーゴスラヴィアに貢献した作家はいなかった! 第二次世界大戦に関するアダミック作品。Two-Way Passage『二つの道』1941年 / Inside Yugoslavia『インサイド・ユーゴスラヴィア』1942年 /My Native Lands

竜馬の脱藩に、私は条件反射的にアダミックのアメリカへの移住を想起する。14才のアダミックはギムナジウムを退学となり、フランスのルアーブル港からアメリカへ移民船で渡る。彼にとってアメリカしか道はなかった。

アダミックほど国外から祖国ユーゴスラヴィアに貢献した作家はいなかった! 第二次世界大戦に関するアダミック作品。『二つの道』1942年/『わが祖国』1943年/『ホワイトハウスの夕べ』1946年。/パンフレットは

週刊現代 賢者の知恵「男の夢 坂本龍馬の「脱藩」を論じよう」 http://bit.ly/d0kuMM

再読 アダミツクの「バルーカス族の王 ルーカス」。 副題は「不思議な王国の物語」。フィリッピンの1930年代の歴史を意識した物語。あるいは祖国スロヴェニアも...。解説はpro.dr.H.A. Christian 前書きはスロベニア語版訳者pro.dr.Tine Kurent

アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。

『ジャングルの中の笑い』(1932)がアダミックの1909~1928年までを描き、『私のアメリカ』(1938)が1928~1938年までを描いたアダミックの「自叙伝」である。

マッカーシーズムその他アメリカの国内政治問題、朝鮮動乱、スターリニズム、非同盟の道を歩み出したユーゴのとの関係、アダミックは朝鮮動乱を第三次世界大戦の始まりと見ていた。

アメリカ国内だけでなく国際的問題における闘いである。最後も闘いは、ひょっとすると戦後の世界史においても重要かもしれない。

アダミックのジャーナリストとしての本領を発揮するのは、1940年からの10年間だ。30年代から集大成としての人種、民族、マイノリィティらに対する偏見・差別との闘い、次に第二次世界大戦下のファシストとの闘い、そして1947年頃からアダミックの死までの

Harvard encyclopedia of American ethnic groups 著者: Stephan Thernstrom http://bit.ly/aomW9v

アダミックが『私のアメリカ』(1938年)の中で企画したが資金難でできなかった「エスニック百科事典」をハーバード大学陣がさせた。そのアダミックに対する献辞がIntroductionの最初に見られる。

Wanted sp ads Suponsabana  http://www.synapse.ne.jp/saitani/ http://immigrantebook.blogspot.com/

1930-50年にかけて、恐らくアダミックが成し遂げたこと、成し遂げようとしたことは、そのスケールの点で、又その凄まじい情熱の点で、同時代の作家とは比較にならないかもしれない。まだ殆んど知られていないが証明したいものだ。

JF.ケネディ著『A Nation of Immigrants』(1964)の第一章にウォルト・ホイットマンのタイトルを使用したのだ。 アメリカは「移民の国」である。

アダミックはホイットマンの"Here is not merely a nation but a teeming nation of nations."の示唆をうけて『A Nation Of Nations』(1945)を書き、J.F.ケネディは

☆アダミックはその年に出版した『多くの国々から』で「世界の人種関係において1940年度の最も重要な本」としてジョン・アニスフィールド賞を受賞している。

エレノア・ルーズベルト大統領夫人、アーチボールド・マクリーシュ、ヴァン・ワイク・ブルックス、パール・バックらが名を連ねていた。アダミックは、第二次世界大戦の緊急な問題に関わり、初代編集長として実質1年半携わったにすぎない。

その雑誌からはさまざまな人種のエスニック作家が巣立っていった。そのスポンサーは、主流リベラル組織、主としてカーネギー財団によって創設された「アメリカ統一委員会」(Common Council for Ameican Unity)によるもので、そのメンバーには

☆「COMMMON GROUND」(1940-49)は、「アメリカ・エスニィティ史のキーフィギュア(鍵となる人物)」ルイス・アダミックによって発案され刊行された、アメリカ初のエスニック季刊誌である。アメリカの「人種的-文化的状況」を探求することが目的で、

生前マスメディアに散々叩かれたアダミック。歴史的事実を歪まされるなら、その「修復」がいかに大変か、とPro.H.Christian。世の中、偏見、ステロタイプ、レッテル張りが跋扈して「事実」が軽視されるようになれば、検証=正統な評価には莫大な時間が要る。何よりも歴史と時間のムダ。

アダミックのアメリカの1930~4 0代のアメリカの文化的貢献は素晴らしい。ハーバート大学の編集陣は1981年に「エスニック民族辞典」を出版し、アダミックが1938年に『私のアメリカ』の中で企画したプロジェクト(資金難で実現しなかった)を実現させた。その献辞は

ギリシャ系、オラ ンダ系アメリカ人、そしてクロアチア、ボヘミア、ポーラ ンド、スロベニア、アルメニアなどの個々の民族集団の物 語を扱い、さらには黒人やアメリカン・インディアンの問 題にまで言及した。

1940年にアメリカの代表的な黒人作家リチャード・ライトは『アメリカの息子』Native Sonを出版し、L.アダミックは『多くの国々から』From Many Landsを出版した。アダミックはその中でドイツ系ユダヤ人の二世、日系アリカ人二世、フィンランド系、メキシコ系、

NIKOLA TESLA by L Adamic 天才ニコラ・テスラ 20世紀の人物世界遺産、誰も異論はないであろう、友人アダミックの渾身の追悼文。http://bit.ly/9Kwh33

その「自叙伝」の中で優れていると思われるのは第一次世界大戦の戦争物語。アダミックの実際の体験を物語っている。HLメンケンの「アメリカン・マーキュリー」に載せた無名のアダミックの物語をフィツジェラルドが「絶賛」したのもわかるような気がする。

目下アダミックの「自叙伝」『ジャングルの中の笑い』を改訳中。もう15、6年ほど前に訳したものだから、ちょっと恥ずかしいね。「自叙伝」といってもアダミック30歳までの体験を語ったもの。その後は『私のアメリカ 1928-38』に続く。

特にアメリカ、ユーゴスラビアから研究者が集まった。故Prof.H.A.Christian はアダミックの評伝 "Louis Adamic: A Checklist”1971を遺してくれた。いわばスターラインだね。

NHK「竜馬伝」も面白くなってきた。Ryouma Sakamoto. 弘松宣枝著『阪本龍馬』(坂でなく阪)の伝記が民友社から発行されたのが明治29年、坂本竜馬没後30年。Louis Adamic アダミック国際会議・シンポジウムが行われたのが、没後30年。1981年。

「In America everything was possible. There even the common people were "citizens," not "subjects,"...」 Louis Adamic  

しかし14才のアダミックは、オーストリアの「臣民(subject)」になるよりも、アメリカの「市民(citizen)」になるほうを選ぶ。そしてそれ以外に彼の道はなかった。

大金がアメリカから流れ込んでいることは確かだ」と演説した。「だが」と、プロパガンディストは訴えた。「それはその価値に値するのか? アメリカは移民たちの肉体をボロボロ、ズタズタにし、魂まで侮辱し、移民たちの素朴な精神的、美的な感受性を奪い、祖国の美しい方言や習慣をも腐敗させ、そして

「しばしば、秘密の集会でアメリカへの移民問題が持ち 上がった。運動の指導者は、「打倒、オーストリア! 打倒 、アメリカ! オーストリア政府は善良なスロヴェニア農民 たちをアメリカへ送り込み、アメリカ政府は彼らを食い物 にしている。

しょっちゅう、僕らは警察から尾行されていたので、すごいスリルを感じていた。」/「一般に僕らは、「自由の女神」のロマンチックでまぬけな信奉者だった。僕はその運動の背後にある考えをあまり信じていなかった。..僕らは面白半分で-それが危険でわくわくさせたので-その運動に参加していた。」

ハプスブルグ家の紋章を踏みつけたり、オーストリア国家についての口汚いパロディを歌ったりした。夜には市中を歩き、チョーク差し棒で武装し、そして官庁ビルの前や壁の歩道にオーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝の名前にちなんで、侮辱する言葉を落書きした。

「自叙伝」で、その熱狂的なリュブリャーナでの生活をこう語っている。「ヤンコと僕は、その組織の秘密の集会に参加し、オーストリア政府の憲兵から目を付けられていた、この運動の大人の指導者やアジテーターによる興奮した演説を聞いた。僕らはほかの少年たちにまじって、

そして学生デモの最中、友人はオーストリア兵に射殺され、アダミックは数箇所負傷、死者二人、重軽傷者4、5人、全員学生だった。

☆アダミックが退学となった運動とは、第一次世界大戦前にオーストリアの南スラブ地方で起きていた汎革命的な「南スラブ人国家統一運動」である。冒険心に富んだアダミックは、その秘密の学生政治クラブに加わる。

誌魂生まれる国スロヴェニアの国民詩人の映画化などで数々の賞を受けているようだ。私はアダミックの映画化で何度かメール交換をしただけで詳しくは知らないが、Slakの死は本当に残念だ。資金不足はいつの世もつきもの、私の翻訳物もそうだが、時間には限りがある。

アダミックの映画化はいずれ必ず実現されなければならぬ。小国スロヴェニアが国際的に評価される数少ない「人物遺産」だろう。Franci Slak, Slovenian Film Directorの死は本当に残念であった!人材はすぐにはなかなか準備できない。ある意味で時間との勝負だ。

「南スラブ人国家統一運動」を支援する革命的な学生デモに参加したために、入国できないかもしれないという不安があったのかもしれない。アダミックは一時拘置所にその後退学になっている。友人は実際にデモ行進の最中オーストリア兵に射殺されている。アダミックにとってアメリカしか道はなかった。

☆スロベニア出国記録に「生年1899年、13歳」としているのは一体どういうわけだろう。何かがありそうだ。そして米国入国の際は年齢を「16歳と8ヶ月」とごまかしている(実際は「14歳と9ヶ月」)。名前もアメリカに到着する前にすでに「Mr. Adamic-Louis」と準備していた。

12:35 AM Mar 23rd webから アダミックの生家の壁に彫られたレリーフも「1899-1951」となっている。しかし現在では「1898年」が正確とされている。それ以外の点でも私はアダミック研究者の故Prof.H.A.Christianの記述に従っている。

☆今日3月23日はアダミックの誕生日。アダミックは名前の表記や呼称、生年月日、米国入国年、米軍入隊年、など不明確な点が多い。例えば生年だが、これまで百科事典や新聞雑誌などでは1899年となっていた、今でもほとんどがそうなっている。アダミック自身も生前その年で通していた。

アダミックの全体像を知るには、古いが「評伝」、Louis Adamic:Achecklist 1971 by Henry A Christian -邦訳は私の訳で 「二つの世界に生きる」(上 No.57 p35-47)(下 No.64 p57-74)世界文学界会誌に掲載しました。

☆ブログ☆東欧移民「約束の土地」アメリカへ-スリリングな自伝的物語 http://emigrants-statue-of-liberty-promisedl.blogspot.com/

アメリカへの移民は1892年から1954年まで1,200万人。ピークは1892年から1924年の間の32年間で約120万人。アダミックもその時にやってきた。

電子書籍販売サイト:制限時間2分、立ち読み可(無料)。大手出版社も採用しているT-Time形式 ダウンロード版ルイス・アダミック作品集 Louis Adamic http://immigrantebook.blogspot.com/2010/02/blog-post.html

「小型のエリスアイランド号は白波をけたてて全速力でバッテリ公園へ向かっていた。 僕はニューヨークに、アメリカにいたのだ。」 大晦日、14歳のアダミックは新世界で丸一 日を過ごす。

検査官はでっかい机を背にして、高い壇上に ふてぶてしく座っていた。まるで故国の役人に そっくりだった。...長い取調べ、そしてよう やく2日目に解放される。

船から艀で「移民を洗濯する」エリス島へ運ばれ、そこで2日間入国検査をうける。  「エリス島で過ごした日は、長い一日のように思われた。...移民たちの間で、ある者はアメリカへの入国を許可されず、ヨーロッパへ送還されるという噂が飛び交っていた。僕は何時間も冷たい椅子に座っていた。」

色とりどりの民族衣装に身を包んだ移民たちは、背伸びして新しい国や街を一目見ようと車地やウィンチの間をぐるぐる回り、手すりに押し寄せ、また自由の女神像を見させようと子供や赤ん坊までも抱き上げ、女たちは歓喜でむせび、男たちは跪いて神へ感謝し、子供たちは歓声をあげ手をふり躍っていた。

僕は頷いた。あまりの凄い景色に目が眩んだ。ナイアガラ号が前方の船に通過する合図の汽笛を鳴らしたとき、不思議な、意気揚々としたものを感じた。僕は、汽笛同じくらい、大声で叫びたかった!

から いたが、僕は何ひとつ聞いていなかった。僕はもう、全身が震えんばかりだった。「あれがビルディングだ」と、ピーターが言った。「ほら、霧の中、ウールウォースタワーだ。見えるかい?」

1912年12月28日、-ニューヨークはからりと晴れて冷たかった。岸壁には雪が残っていた。船が自由の女神像の前を過ぎるとき、ピーターと僕は甲板に出ていた。女神像の大きさがいやに目に焼きついた。僕はローアー・マンハッタンのスカイラインのほうへ目を向けた。ピーターは何やら話しかけて

そのあと、スロベニア語でこう付け加えた。「君はこれからアメリカへ感動と冒険を求めて行くんだ。恐れちゃだめだよ。君なら絶望はしないだろう。どれもたっぷり味わうさ」

ニューヨーク港に到着する前日、小説上の人物がアダミックに英語でこう言う。-「君ならアメリカでうまくやっていけるよ、たとえそこがジャングルであってもな」それを僕は、彼のほんのちょっとの助けで理解した。

そしてオーストリア系イタリア人もまざっていた。みな一路、「約束の土地」を目指していた。

14才と6ヶ月のアダミック少年の旅立ち。1912年12月14日、ナイアガラ号はフランス、ルアーブル港から出航する。大半が移民たちを乗せていた。ポーランド人、スロヴェニア人、チェコ人、クロアチア人、スロヴァキア人、ボスニア人、さらにユダヤ人、ギリシャ人、トルコ人、ドイツ人、

/ 母は父ににこっと笑みを浮かべ、それから僕にも笑みを浮かべた。「そうだな」と、父も頷いた。「こいつはまだ大きくなるよ」...。

母は泣くのをやめ、父は祈りと呪文をやめた。それから、二人は雹でやられた作物を見ながら、畑の中を歩いていた。僕も一緒に歩いた。母のうれしそうな表情が、突然、晴れ晴れとなった。  / 「ほら、ここは雹の被害をほとんどうけていないわ。大目に見たんだね。まだ大きくなるわ」

や未成熟の玉蜀 黍が大部分駄目になったときと、まさに同じこ とだった。僕は雹の渦巻きに脅えている母の姿 を見ていた。母は涙を流しながら、戸口から聖 水をばら撒き、そして父は、母と呪文を唱えて いた。しかし、いつしか嵐は過ぎ、まるでうそ のように太陽が顔をのぞかせると、

「翌朝、何もかもがふたたびび静かになった。嵐は過ぎ去っていた。父と母には、純朴な人によくある子を思う親心ゆえの、いじらしさがただよっていた。僕が退学になったことと、その後の神学校へ入るのをためらっことの彼らに与えた影響は、あの初夏のすさまじい雹の嵐で、わずか一瞬のうちにジャガイモ

...多くの者は金持ちに這い上がるよりも根絶やしにされるんだ。」   / 農家の長男として、また多額の学費にもかかわらず、街の教育を受けさせたがっていたアダミックの父。そして「根っからの農民」父親に似ていたアダミック。

しかし、アダミックは成功した移民がごく僅かだと知る。アメリカ帰りの男は、移民たちは新世界におびき寄せられて使い捨てにさせられていると語る。「かつて移民たちはアメリカでは肥やしと呼ばれていた。連中は今だって肥やしさ。アメリカの偉大さの根っこは、相変わらず彼らの食客になっている。

へ行って、ブラト村の農民達が所有している全ての土地よりも遥かに広大な土地を購入していたのだ。アメリカはでっかい。本当にでっかい!」「アメリカではどんなこともできた。普通の人でさえ市民(シティズン)だった。オーストリアや他のヨーロッパ諸国のように臣民(サブジェクト)ではなかった。」

もちろんだが普段の日だって、白パンやスープや肉などを口にすることができた。...」「アメリカでは人は普通の労働者のままいる必要はなかった。...バルカン諸国からやってきた農民や労働者たちでさえ...の炭鉱や鉄鋼所でほんの数年働いてお金を貯め、ミネソタとかネブラスカとか呼ばれる土地



カルニオーラなどとは全く比較にならないほどはらはらさせる、今にも爆発せんばかりの所...」であった。「アメリカでは人は短期間で大金を稼ぎ、莫大な土地を手に入れ、単なる普通の賃金労働者でさえ、ゴスポド(上流階級)のように自分のブーツを磨き、真っ白い襟のついたものを着、そして日曜日は



アダミックの移民の「自叙伝」から。 20世紀初頭のヨーロッパの農民たちにとってアメリカは、「大西洋のはるか彼方数千マイルにある、想像もつかないほど巨大な、実に驚くべき幻想的な場所-黄金卿-いわば天国のような所-あらゆる点で「約束の土地」であり、そしてちっぽけで静かな美しい



地球規模で進展するボーダレス希求、多種多様な価値観の発見、世界の多様性を追求したスロヴェニア出身の著名なアメリカ移民作家を通して時代を読む、民族、国境、時代を越えて心に響く作品集(翻訳書)! http://bit.ly/a2kTrL

it has been important and necessary to understand Adamic's significance to the New Yugoslavia." Prof H.A.Christian *Joza Vilfan駐米ユーゴスラヴィア大使

"...at the 1981 Minesota Adamic Symposium I heard the late Joza Vilfan good for Yugoslavia. In the last forty years

アダミックの「自叙伝」は所謂それまでの移民の自叙伝などとは全く違っている。またスロベニアの翻訳者&編集者へ送った手紙の中でアダミックは興味深いことを語っている。

『ジャングルの中の笑い』(1932年)"Laughing in the Jungle"はAro Press and The New York Times社のThe American Immigration Collectionの第一巻に収められている。

カリフォルニアに住んでいた20代のアダミックは、ロサンゼルスを「巨大な村」と呼び、友人ケアリー・マックウィリアムズと共に、様々な政治的不正や、カルト教団の宗教ビジネス・ペテン性を痛烈に告発したものだった。

--奇妙な猛毒を持った植物、頽廃的な宗教、カルト教団、エセ科学、無謀な企業計画など--で溢れ、...それらはまた一気に利潤を狙いながら、多くの人々を堕落させ、おちぶれさせる運命にあった...ジャングル...。」1932年 

/同じことはロサンゼルス、つまりアメリカにも言えた。ハリウッドからの丘からの眺めは、様々に変化する色彩に包まれ素晴らしい。だが実際は、...ここちよい風が吹き渡っているにも拘らず、そこは老人や死にかかっている人々、疲れた開拓者を親に持つ若者やアメリカの餌食となったもの

アダミック『ジャングル』から-- 「パナマでは一度、山頂から巨大なジャングルを見たことがある。遠くから見ると美しかった、それを眺めていると、本当にそこが蚊帳や獣や大鉈で完全武装せずには踏み込めない、薄暗く、不健康で、危険なところだとはとても信じられなかった。 

岩や樹木やすべての草花と、大地そのものと、そして大地の恵みをうけている人たちと、またそういう人たちの日々の暮らしぶりにできかぎり親しむように。…詩人 オトン・ジュパンチッチ。」―「スロヴェニアの愛」

アダミックの『南スラブ人の心と情』から「…わが子よ、青白い顔になるな、猫背になるな、勉強に夢中になって試験のことなどくよくよ悩まないように。できるだけ自然と親しみなさい。戸外に出て、野原や村や山や森に入り、湖や川へ出かけ、鳥や蛙や昆虫、魚などありとあらゆる種類の生き物たちと、

彼ら移民たちのフロンティアスピリット、苦闘もよくわかる。しかしアダミックがたった一人で1930-40年代に成し遂げたこと、成し遂げようとしたこと、アメリカの文化に対する貢献は比較にならない。

フォトジャーナリストは凄い、世界各国からアメリカに自由を求めてやって来た移民たちの不安と期待、希望の表情を瞬時にして見事に写し撮っている。ケネディ空港でもそれを見た。「自由の女神像」地下にはまた、アダミックよりも古い著名な移民の写真が飾られている。

アメリカ。自由の女神像の地下は「移民博物館」になっている。そこにはフォトジャーナリストによる拡大された当時の移民たちのアメリカに到着した時の写真が飾られている。私はその凄さに圧倒されてあやうく最終便のニューヨークに帰る船に乗り遅れるところだった。最後の一人だった。

移民たちにとって「希望の国、涙の国」アメリカで、アダミックは波乱の生涯を送ることになる。そして「移民」としての誇りを生涯忘れることはなかった。

☆「自叙伝」で語っているように、アダミックは革命的な学生運動に参加しギムナジウムを退学させられていた送還されるのを最も恐れていた。旧世界から新世界へ、14才の少年が「理解の冒険」のために憧れの国 アメリカにようやく辿り着いた。

二等船室にアダミックは「スロヴェニア人はピーターモレクと私だけ」と書いていたが、モレクの名前はない。オハイオ州へ旅する二人の若者の名前が名簿に残っている。

身長「5-6」、肌色「white」/ 目の色「Brown-Chesnut」/ 生誕地「Austria-Krain. Blato」などなど。 二等船室にアダミックは「スヴェニア人はピーターモレクと私だけ」と書いていたが、モレクは名簿にない。オハイオ州へ旅する二人の若者の名前がある。

そこはスロヴェニア系新聞「Glas naroda」がありその編集者だった。のちにアダミックはそこで働くことになる。/ これまで刑務所または孤児院の経験は「no」/ 一夫多妻か「no」/ アナーキストか「no」/ 精神肉体の状態「good」/ 奇形もしくは不具者か「no」/

/ 最終目的地へのチケットは持 っているか「yes」。/ 渡航費用は誰が払ったのか「Self」/ 所持 金は「$50」。入国費用「$17」/ アメリカに友人親戚がいるか 「ニューヨーク市コートランド82に叔父Alois Skulj(実際は母方の 遠い親戚)」。

年齢は「16才と8ヶ月」と答えている。実際は「14才と9ヶ月」だった。出国時の写真からも十分にその歳に見える。リュブリャーナ出国届けでは「1899年生、13才」となっている。/ 職業「none Lab(labores)」/最終目的地は「ニューヨーク市/

名前はAdamic-Louisの手書きをヨーロッパで準備してきていた。すでにアメリカに到着する前から名前は決めていたのだ。/ 読み書きはできるか「yes-yes」/国籍は「オーストリア」/人種は「"スロバーク"(分類上)-スロヴェニア人」/

Edited by Mirko Jurak "RANDOM COMMENTS ABOUT BOOKS, ARTICLES, IMMIGRATION, HISTORY, TIME, AND IDEAS: AN ADAMIC MISCELLANEA"

アダミックの米国移民官との29項目の一問一答は面白い。いずれ映画になる時に使えるそうだ。詳細は、Henry A. Christian (Newark, Rutgers University) "Literature, Culture and Ethnicity"

1:03 AM Mar 19th webから S. S. Niagara sailing from HAVRE, DEC 16 1912, // Arriving at Port of NEW YORK, DEC 28 1912 163 Louis Adamic

航海しているが、乗船記録にはアダミックの名前は載っていなかった。そこで調べた結果、アメリカ公文書に米国入国が詳細に記されていることがわかった。移民局検査官による29項目の一問一答の形で。 アダミックがアメリカのニューヨーク港に到着したのは1912年12月28 日だった。

故クリスチャン教授は「アダミックの移民の「自叙伝」(「ジャングルの中の笑い」1932)を10回ほど読んだが、そのたびに事実とフィクションに惑わされた」と記している。アダミックのアメリカ到着は「自叙伝」では1913年12月28日となっている。フランスのルアーブル港からナイアガラ号で

1940~50年の10年間、アダミックが出した定期刊行物はビジネスではなく、主として読者の「啓蒙」が目的だった。

国連が「文化の多様性」を採用したのは確かほんの数年前だったか。まだ世界は色々な面においての「多様性」の意義や長所についての認識がまだ薄いのかも知れない。

Louis Adamic In Japan http://bit.ly/cgn2 No IMMIGRANT EBOOK for World Diversity! http://bit.ly/9aem77  ルイス・アダミック電子書籍 http://bit.ly/a2kTrL

and provocative figures of the American literary world during the first half of the twentieth century." H.A Christian

1940年以降のアダミックに関しては私はほんの一部しか語っていない。文学だけでなく、国内の文化、政治だけでなく、国際的な文化、外交..あまりにも規模が大きすぎて捉えきれない.. "Louis Adamic was one of the most complicated

アダミックの研究者Prof.Christianに私が日本の好きな人物は坂本竜馬と宮本武蔵と書いた。後でスロベニアのアダミック関係者から武蔵の「五輪の書」を英語版から翻訳したと手紙をもらった。

「ルイス・アダミック年譜」 だいぶ古い。いずれ書き直さなければいけないが。http://www.synapse.ne.jp/saitani/neupu.htm

同じローストジェネレーションの世代として自らの体験を重ねただろうとC氏。そこにフィッツジェラルドの性格も垣間見えた。またアダミックも忘れずに『ジャングルの中の笑い』の中でその喜びを語っている。

アダミックがメンケンの薦めで「アメリカンマーキュリー」誌に第一次世界大戦の物語を掲載したとき、名編集者の目には止まらなかったが、無名のアダミックを「絶賛」してくれたのは、あの『偉大なるギャツビー』の著者スコット・フィッツジェラルドだった。

1930年代独裁政権下のユーゴで、マラリアで荒廃した国土を撲滅に奮闘するクロアチア人医師「ドクター・ヘラクレス」なるアンドリア・スタンパーを紹介したが、解任後、中国南京にマラリア撲滅に派遣され、国連の...戦後の偉業はこのサイトから http://bit.ly/cvObek

☆ブログ☆  http://bit.ly/b3ebYU  日系二世の電子書籍-Best Nikkei Nisei Ebook by Noted Immigrant Writer 二つの祖国を持つ日系アメリカ人二世の苦悩 日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書

地球規模で進展するボーダレス希求、多種多様な価値観の発見、世界の多様性を追求したスロヴェニア出身の著名なアメリカ移民作家を通して時代を読む、民族、国境、時代を越えて心に響く作品集(翻訳書)! http://bit.ly/a2kTrL

ルーズベルト政権から学んだJFケネディ政権の「平和部隊」の考えは、アダミックから出ているが、しかしアダミックのもう一つの「撤退」の部分は使用しなかったとC氏。

と自伝的小説『ジャングルの中の笑い』(1932年)のあとがきに書いている。そして二度目に申請したグッゲンハイム奨学金を獲得し、故国ユーゴスラヴィアへ19年ぶり帰郷することになる。 ハーパーズ誌に掲載した帰郷物語がアメリカの読者に大反響となった。それはなぜなのかを、次回に。

アダミックは自らの力で、自分の能力を信じて人生を切り開いていくことになる。感動と冒険求めてやって来た国アメリカ、「この国に来て二日以上は飢えたことはなかった...これまでジャングルは面白かったし、今でも面白い所だ、面白すぎるくらいだ...これからもずっとこの国にどまるつもりだ」

『私のアメリカ』(1938年)の前書きでアダミックはこう書いている。 「基本的に私は思う。私は自分自身を教える立場にある生徒であり、物事の真実捉え、物事を理解しようと努力する探求者である。...私は何かをするために...私は何かのために自己を燃焼させる人間でありたい」と。

☆しかしアダミックにとってはそのほうが良かったのかもしれない。というよりそういう運命にあったのだろう。アダミックの人生はスタートからして異形であった。そして友人マックウィリアムズが述べているように「自分自身のことをよく知って」いた。

おそらくアダミックの経歴のせいではないかとクリスチャン教授。ヘミングウェイなどの作家は大学出のいわばエリートたちで、一方アダミックは14歳でギムナジウムを退学したユーゴスラビアからの「卑しい移民」の出である。しかも労働者上がりの放浪作家である。

アースキン・コードウェルその他多くの若い作家たちも存在しなかったといってよい。 ☆アダミックはメンケンの薦めでアメリカ作家の登竜門といわれた「アメリカン・マーキュリー」に早々と寄稿し、パーキンスの周辺をうろうろしていたが、なぜか彼には声がかからなかった。

☆1920年代から30年代にかけてアメリカ文学の黄金期であるが、当時の若い作家たちを育てたのが、偉大な編集者M・パーキンズである。この編集者なくして『日はまた昇る』のヘミングウェイも『天使よ故郷を見よ』のトマス・ウルフも『グレート・ギャツビー』のスコット・フィッツジェラルドも

☆ホイップル版のスロベニア語訳は1986年に、*翻訳ティネ・クレント、挿絵マリヤン・アマリエッティ、タイトル「Lucas Kralj Balukov」でリュブリャーナ市プレゼノバ・ドゥルズバ社から出版された。*Tine Kurentはアダミックの甥で、著名な建築学の研究者。

定価一ドル(当時としては豪華版)で販売された。 ☆そしてアメリカ黒人の経済学者エイブラム・リンカン・ハリス氏に献呈されている。

☆1930-35年間に、数種類の雑誌に掲載、また数種類の英語版、スロヴェニア語訳版として出版され、さらに50箇所余りの修正、省略の改訂版を経て、最後にロサンゼルスの小出版社ホイップル社から出版される。限定350部、アーティスト、エリザベス・ホイップルによる製作の木版画入り、

「ルーカス王」に収斂された「時代、無知、飢饉、政治、他の部族、そして恐らく自分と同じ黒い肌の中隊によって引き起こされていると思われる偏見の、極限化された苦悩」(Prof.Christian)を描く。

☆コンラッド風の、たった25頁ほどの短編だが、迫真性はある。☆1930年のアメリカによる植民地下のフィリピンを舞台。登場人物は、語り手の軍曹ウェーバー、ルーカス大佐、アメリカ黒人ジャクソン、フィリピンの先住民バルーカス族の酋長、ルーカス王

「まあ、どこか話しのできるところへでも------」と促した。

「艦は数時間マニラに停泊した。私は友人のウェーバーに無線連絡をとると、 彼は待ち受けたかのように不当にやって来て、「お前にこうして会いに来たのはな...」と、ウェーバーはにやりと笑って、 「或る王国を飢えさせる必要があるからなんだ」と云った。 彼はにやりと笑いながら、

☆アダミックの『バルーカス族の王ルーカス』(1935年)というのはフィリピンを舞台にしたエスニック物語だ。

「Lous Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック2」 アダミック関連だけをブログにアップしました。 http://bit.ly/91Fl2x



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