Friday, June 25, 2010

ルイス・アダミック雑録 ②- Louis Adamic on Twitter

ルイス・アダミック雑録1913-1928-Louis Adamic on Twitter
改定中
①アダミック雑録  ②アダミック雑録  ③アダミック雑録  ④アダミック雑録  ⑤アダミック雑録



1932年「ジャングルの中の笑い」-アメリカ移民の自叙伝
Laughing inthe Jungle:The Autobiography of an Immigrant in America  Harper,1932 is awarded Guggenheim Fellowship。*リプリント版Arno Press and The New York Times社にはThe American Immigration Collectionの移民叢書第一巻に収められている。

☆『ジャングルの中の笑い』移民たち一人ひとりの血と汗で築いた国アメリカ。彼らの夢と挫折を通して、「約束の土地」アメリカの行く末を模索する移民文学の傑`さくさく作 ... http://american-immigrant-slovenia-liberty.blogspot.com/ 

▽「ジャングルの中の笑い」のクリスチャン教授による論文(解説)「ドライサーを超えて-ルイス・アダミックのジャングルの中の笑い」"Beyond Dreiser: Louis Adamic's Laughing in the Jungle" by H Christian の作品の読みの深さに吃驚。

▽アダミックの「自伝」は、所謂それまでの移民の自叙伝などとは全く違っている。
またスロベニアの翻訳者&編集者へ送った手紙の中でアダミックは興味深いことを語っている。

1991年、ニューヨーク市で開かれたニューヨーク芸術祭に《移民の声》と題するエリス島のパフォーマンスで、アダミックの移民の自伝的小説 『ジャングルの中の笑い』の一節が、一世移民たちによって3度にわたって朗読された。同じ移民の体験者として彼らにはアダミックの言葉が、一語一語が身に沁みたにちがいない。
*Statue of Liberty(自由の女神像) American Dream: Andrea Bocelli's Statue of Liberty Concert

▽『ジャングルの中の笑い』(1932)を最初読んだとき米黒人作家リチャード・ライトの自伝「ブラックボーイ」(1945)を思い出した。第一章の文体がよく似ている感じがした。たぶんライトはアダミックの作品を読んでいたのでは。http://bit.ly/c6s7vY *アダミックは「複数の移民」を含めた「自叙伝」を、ライトは黒人としての「彼自身」の自叙伝を書いたのは興味深い。

▽20世紀初頭のヨーロッパ農民たちにとってのアメリカのイメージは、
 「大西洋のはるか彼方数千マイルにある、想像もつかないほど巨大な、実に驚くべき幻想的な場所-黄金卿-いわば天国のような所-あらゆる点で「約束の土地」であり、そしてちっぽけで静かな美しいカルニオーラなどとは全く比較にならないほどはらはらさせる、今にも爆発せんばかりの所...」であった。
 「アメリカでは人は短期間で大金を稼ぎ、莫大な土地を手に入れ、単なる普通の賃金労働者でさえ、ゴスポド(上流階級)のように自分のブーツを磨き、真っ白い襟のついたものを着、そして日曜日はもちろんだが普段の日だって、白パンやスープや肉などを口にすることができた。...」
 「アメリカでは人は普通の労働者のままいる必要はなかった。...バルカン諸国からやってきた農民や労働者たちでさえ...の炭鉱や鉄鋼所でほんの数年働いてお金を貯め、ミネソタとかネブラスカとか呼ばれる土地へ行って、ブラト村の農民達が所有している全ての土地よりも遥かに広大な土地を購入していたのだ。アメリカはでっかい。本当にでっかい!」
 「アメリカではどんなこともできた。普通の人でさえ市民(シティズン)だった。オーストリアや他のヨーロッパ諸国のように臣民(サブジェクト)ではなかった。」  
 しかし、アダミックは成功した移民がごく僅かだと知る。しかもアメリカ帰りの男は、移民たちは新世界におびき寄せられて使い捨てにさせられていると語る。
 「かつて移民たちはアメリカでは肥やしと呼ばれていた。連中は今だって肥やしさ。アメリカの偉大さの根っこは、相変わらず彼らの食客になっている。...多くの者は金持ちに這い上がるよりも根絶やしにされるんだ。」   
/ 農家の長男として、また多額の学費にもかかわらず、街の教育を受けさせたがっていたアダミックの父。そして頃も体も「根っからの農民」である父親に似ていたアダミックは語る。
In America everything was possible. There even the common people were "citizen," not "subject,"as they were in Austria and in most other European countries.

ジャングルのイメージ
「パナマでは一度、山頂から巨大なジャングルを見たことがある。遠くから見ると美しかった、それを眺めていると、本当にそこが蚊帳や獣や大鉈で完全武装せずには踏み込めない、薄暗く、不健康で、危険なところだとはとても信じられなかった。 
*「同じことはロサンゼルス、つまりアメリカにも言えた。ハリウッドからの丘からの眺めは、様々に変化する色彩に包まれ素晴らしい。だが実際は、...ここちよい風が吹き渡っているにも拘らず、そこは老人や死にかかっている人々、疲れた開拓者を親に持つ若者やアメリカの餌食となったもの-奇妙な猛毒を持った植物、頽廃的な宗教、カルト教団、エセ科学、無謀な企業計画など--で溢れ、...それらはまた一気に利潤を狙いながら、多くの人々を堕落させ、おちぶれさせる運命にあった...ジャングル...。」

ドス・パソスやヘミングウェイ、フィッツジェラルドなど第一次世界大戦に志願したローストジェネレーションの世代とそれ以前の革新的な世代とはどこか違う。戦争で身も心もスタズタになったアダミックは、社会主義者アプトン・シンクレアに「僕は大義が信じられない」と書いている。

▽“an adventure in understanding
my life in America has been largely an adventure in understanding, and these people - foreign-born and native American - and their histories have been a vital factor in that adventure.

I had not come to America, like Steve Radin, to become rich ; nor, like Koska, to escape from myself for something or other; nor, like most immigrants, to slave at whatever task I could find. Rather, I had come to experience America, to explore the great jungle, to adventure in understanding-and here I was. I had found the adventure exciting and worth while; and there was more to come. “

"...Life was too cruel here. America is big and terrible...America must become great....We all came over from the Old Country to help America become great and terrible," "Dung," I thought to myself. A BOUHUNK WOMEN

 Book Review
"Mr.Adamic has an abiding sense of human dignity, and to my mind he touches greatness as a story-teller...he has no mere autobiographer. It is through other men's struggles, through their conflict of values, that we catch, fleetingly yet clearly s own adventure. This seemingly unconscious technique of mirrored self-portraiture is done so almost perfectly that it is the reader who limns the portrait of the artist" -N.Y. Herald Tribune. 
"It is by all odds the best story about and by an immigrant that I have ever read-and I read every word of it with unflagging interest."-R.L.Duffus.   
"A grand book... the music and collor of life on its lower levels." -James Stephens, author of "Paul Bunyan" 


◇Kriza v Ameriki(「アメリカの危機」)、
帰郷した1932年にリュブリャナで出版された。大恐慌当時のアメリカの絶望的な労働者の状況を描いたもので、 オリジナル版はハーパーズ誌に掲載。スロヴェニア語版の翻訳はAnton Debeljakによる。


◇Common Senseアダミックは1933年に社会・経済・政治を扱う月刊誌「コモン・センス」誌の編集員となっている。その顔ぶれはドスパソス、マクリーシュ、アプトン・シンクレア、ノーマン・トマス、ジョン・デューイ、マックス・イーストマン。(Common Sense (1932-46), monthly liberal review of political, economic, and social affairs, whose contributors included Dos Passos, MacLeish, Upton Sinclair, Norman Thomas, Louis Adamic, John Dewey, and Max Eastman. In 1946 it was absorbed by the American Mercury.)





1933-4年 移民の帰郷 The Native’s Return 1934
1932年、私は妻とともに 19 年ぶりに故郷スロヴェニアに帰った。アドリア海のブルー、やさしい春の風、旧き良きフォークロアの数々、なつかしい母の姿……。しかしその後、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、モンテネグロ、南セルビア、クロアチアと転々と旅して回るうち、私は次第に、この国が恐ろしい力によって支配され、人々を虐げていることに気づいた。そしてイタリアにムッソリーニが、ドイツにヒトラーが登場しつつあった!
1930 年代のバルカン半島の緊迫した政治・経済・文化状況を、その歴史や人々の生活―衣食住・民話・叙事詩・闘いなど―を通してあますところなく描き、50 年後の今日、ヨーロッパとバルカン諸国で起こっている「歴史的事件」の発生を鋭く予告した、すぐれたルポルタ―ジュ文学の傑作。

▽『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』は世界恐慌下の全米ベストセラーであったが、祖国ユーゴでは「禁書」、所持しているだけでも投獄された。この本の出版を最も恐れていたのは、まぎれもなくアダミックが会見した「恐怖政治」を敷く独裁国王であり、政権中枢部だった。縮小版Armed Forces Editionは、第二次大戦の戦時下、塹壕でパルチザン兵士たちによっても読まれ勇気づけたという。

"The King Business in the Balkans"Yale Review 1933 (アダミック次頁にはレオン・トロツキーが寄稿)、"Torture in Belgrade"New Masses 1934, そして
"Yugoslav Writer Predicted Alexander's Assasination "New York World-Telegram 1934, "King a 'Gangster,' Adamic Charges "New York Evening Post 1934
*さらに"Louis Adamic Describes King As Deft Actor"New York Herald Tribune1934, 書籍として"The Native's Return"1934 の中の特に最終章"I Meet the King-Ditator"

*ブログにThe Native's Returnの原書についている写真を掲載。説明文はまだです。 http://immigrantebook.blogspot.com/

*いつか余裕ができたら、電子書籍を読むだけでなく聴くものにして画像やビデオを入れ臨場感を出したい。特にこの作品は旅行記としても最高だ。

解説 ヘンリー・クリスチャン(ラトガーズ大学)
*「わが祖国ユーゴスラヴィアの人々」(原題The Native’s Return)は、読者をとりわけ喜ばせる幸せな状況描写からはじまっています。アダミックの多くの価値ある本のなかで、最も重要で素晴らしいこの移民の帰郷物語は、まさにこの作家なくしては書けない作品だったように思えます。
さらに、アダミックがユーゴスラヴィアやこの国の人びとについて俯瞰して見せたように、一九三〇年代初めのこの国が「地図の上とわれわれの世界の政治における戦略上の重要な地位を独占している偉大な一民族の強力な社会的複合体」であったことを念頭におくこと、そういうことどもに注意を払うべきでしょう。
 スロヴェニアやユーゴスラヴィアの他の地方は、「永い苛酷な歴史を背負った、将来の行方定まらない種々雑多な人びと」と語ったアダミックの言葉通りの真実がいまでも生きています。一九八九年、東欧および南東欧には歴史的動乱の秋がはじまりました。世界は「経済危機」の言葉を再びその地に聞くようになりました。そこで私たちはThe Native’s Returnをき、半世紀以上も前のアダミックの言葉に耳を傾けることができます。「サライェヴォの知識人たちの多くは、ユーゴスラヴィアの他の地方の人びとと同様に、巨大な暴力の前に挫折させられ、行方定まらない、どっちつかずの宙ぶらりんの状況に押し込められていた」のを知るのです。また、私たちは、最近採用されたスロヴェニア共和国とそこに住む人びとの悲願の象徴が、いつの日かマトヤッチ王を目覚めさせるためにクリスマスの夜に一時間だけ咲き誇るという、あの菩提樹の青葉になった、という事実にも驚かさかされます。本書はこうして、民族・経済・政治・文化・歴史とさまざまな要素でもって構成されていますが、最終的には、この作品のいたるところに散りばめられ、あらゆる読者の心に重要な意味を持って訴えてくる要素、国家とか場所とかいう枠をとり払って地球人に共通する普遍的な核心があります。
それはほかでもありません、
The Native’s Return(帰郷)の持つ意味です。人はいろんな理由で、いずれは生まれ育った家を離れます。新天地にはまた別な生活があり別な人生が待っています。それでも人はいつの日か、長い年月を経て、少なくとも一度は生まれ故郷に帰り、  旧い「台所用具」に気づき、「ここで……ぼくはノートや鉛筆を……ロールパンやりんごを買ったものだった。……ここには母がいつも買物にやってきていた」ことを思い出し、同時に、「あらゆるものが私の心に蘇ってきた」と、深い感慨をおぼえるにちがいありません。
つまり、このことこそ、私たちがこの本から得られる最大の恩恵なのです。  
そして今回、初版から五六年目にして日本語版が出版されることになったのは、ルイス・アダミックを愛してやまない私にとって、誠に感慨深いものがあります。一九八九年晩秋 H・A クリスチャン(ラトガーズ大学教授)  The Native’s Returnは、一九四二年にレベッカ・ウェストの『黒い仔羊と灰色の鷹』が出るまで、ユーゴスラヴィアについて英語で書かれた、最も情報量の多い、重要な、先見性のある本でした。しかも、アダミックの本はレベッカのそれよりもはるかに予言に満ちたものだったのです。

The Native's Returnは14歳でアメリカへ渡った著者が19年ぶりに故国に帰り故国を発見するドラマチックなルポルタージュ作品だが、「オデッセイア ルイス・アダミック」と題しても雑誌に掲載された。アダミックは見事にその役 割を果たしたことになる。

作品からの引用
▽移民たちには、はるか異国から祖国よりも、故郷を想う気持ちのほうが強い。国家は人工的なものだが、ふるさとは自然で本能的なものなのだろう。たとえ石をもて追われたとしても 
▽14才で単身渡ったアメリカから19年ぶりに「作家」となって帰郷する。そこで待っていたのは、
「一九一二年に別れを告げたと「同じ中庭の同じ場所に立っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、身体も縮み、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だがその抱擁は昔と変わらずしっかりと強かった。..父も白髪が進み、身体も縮んではいたが、震える皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして笑って、「お前、やっと帰ってきたな」と言った。 さらに妹たちが待っていた。...  
「そして、一流の詩人や著名な作家たちを招いて、「放蕩息子」アダミックの帰郷の、ささやかな祝宴が催される。
...歌声がやむと、詩人の一人がグラスを片手に立ち上がった。私たちはみな黙して詩人の口元に注視した。詩人はこの麗しい午後のひとときを、山から吹いてくるそよ風や満開の林檎の木を、料理を、そしてグラスのなかのワインを、表現豊かに謳い上げ、さらにはブラト村と村人たち、とくに私の父と母に感謝の言葉を述べ、ふたたび村の周囲にひろがる草原や自然の素晴らしさにまで言及した。そして最後に、私のそばに歩み寄って、アメリカへ旅立ったころからこのたびの帰郷に至るまでの物語を語ってくれた。私にはもはや返す言葉はなく、感激の涙を押さえきれなかった。
「詩人は結んだ。
「さあ、グラスを飲みほそう!」グラスは飲みほされ、そうしてみんなして歌いはじめるのだった。 

「いつの時代でも、スロベニア人たちは二つのことだけを願ってきた。まず第一に、この土地が彼ら自身の完全な所有物であること。第二に、自主独立の地位-つまり、言語(それはセルボ・クロアチア語に似ている)と文化の独自性-を、保障することであった。この二つは、愛する国土に対する、彼らの誇りの証であった。」

《スロヴェニア農民の死》
「スロヴェニアにある全ての教会はカトリックであるが、近くからあるいは遠くから重なり合って鳴り渡ってくるそれらの音を聴いていると、特別な宗教とか、決められた教義などはどうでもいい、生きとし生けるものに共通の、鎮魂のメロディーに聞こえるのだった。これが死だった。これが人生だった。― 生...死...生 ― 
 私は、自分が生きていることを強く実感しながら、はじめて、恐れや、憎しみや、偽りから解放された虚勢のない死について考え、感じたのである。」
「...一九三二年という時代を考えれば、たしかに君のいうように、アメリカでは死神はギャングだね、まったく!
 アメリカ人が周囲の環境とうまくやっていけず、人生は連続するものといった健全で良識ある考えを持たないかぎり、死神はギャングであり続けるだろう。ともかく、もう遅すぎるよ。アメリカが巨大なスロベニアになるなんてことは...。僕にしても、妖精みたいなものの存在はどうしても信じられないしね。 
 もっと、考えを変えて、一つの巨大な国家が環境とうまく平和にやっていくためには、別な方法があるかもしれないがね。もし、そんなことが可能になれば、ここの農民たちと同じような死を持てるだろうけど。」  
 ヤンス伯父が死んで二日目に、遺体は黒く塗られた松の木の棺におさめられた。その棺は、伯父がこの日ために数年前に、みずから森へ出かけ切り出した一本の木を挽いて準備していたものだった。棺のなかの頭の下には、自分の畑から持ってきた一握りの土が詰められていた。
これでもう、伯父は「自分の土に還った」のだった。
美しい日だった。 
墓地からの帰り途、人々は朗らかだった。話題もぐるっと転じて、ヤンス伯父とはまったく関係のないものが多かった。特に女たちが話しているのは、昨夜、村で生まれた双子のことでもちきりだった。
オルガ伯母でさえ、その話に夢中になっていた。「そりゃねおめでたいことだね。さっそく見に行かなくちゃ。」「なにしろ、ブランコボでは初めての双子なんだから...。」

The Native's Return (1934)は、原文(1937年以降)そして邦訳もここで終わっている。
There was s touch of spring in the air. The birds were flying back from the south. Carniola looked very lovely,...Near the track, to reorient Japan toward Asia. His party's campaign manifesto calls for an "equal partnership" with the United States and a "reconsidering"  as our train sped Trieste-ward, we saw apesant plowing.He looked like my brother Stan, tall, husky, bent over the plow-handles. There was a great dignity in his task. Why couldn't the world be organized to permit him to plow and produce in peace all his life?   A we passed him he reached the end of a furrow. He glanced up and waved....I had an enormous lump in my throat.

「大気には春の肌触りがあった。小鳥たちはふたたび南から帰ってきた。カルニオーラには昨年の五月に見たよりも黒ずんだ感じであるが、とても美しく見えた。  汽車の 窓から、畑を耕す一人の農夫の姿が見えた。背が高くがっ しりした体格で、弟のスタンのようだった。彼は鋤の取っ 手を握り、ゆるぎない威厳に輝いて土にひたすら取り組ん でいた。 彼の一生は幸せに平和にやっていけるだろうか...。
突然
 、彼は腰をあげ、こちらに顔を向けると、白い歯をむいて 大きく手を振った。 
私は喉のあたりにぐっとこみ上げてくるのを感じた。」 

▽アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが 「移民の国」であることがよく理解できるようになる。また、出版と同時にアメリカの読者の大きな反響がそのことを物語ってもいる。 そしてアメリカと同様に、様々な民族宗教文化が入り交ざった多民族国家ユーゴスラヴィアの重要性をはっきりと認識するようにもなる。この旅で発見した祖国の貴重な体験が、晩年彼が命がけで関わった、東西冷戦下の外交問題のきっかけになっている。 

▽アダミックは1937年(スターリンの粛清が始まった年)に、The Native's Return(1934)の最後のロシアよりの文章が含まれている約10頁の削除を出版社に命じている。邦訳も著者に従いカット、その削除された部分から一部引用してみる。ニューヨーク港に着く前に妻のステーラにこう語る。以下はその中の一部。

"We have contributed to America's greatness not only with our brawn, but with our brains as well: our genius. Nikola Tesla and Michael Pupin are Yugoslavs. Their inventions doubtless are the most important factors in the modern life of the United States. Tens of millions of electrical horsepower are generated in the United States by the Tesla motors every year; and but for Professor Pupin's inventions, our telephony would be less efficient.
"...I love America. I think that, with Russia, she will be the most important factor in the future of the world and mankind.... I love Yugoslavia and I think Americans should be interested in it - should try to understand its problems and its importance (with the rest of the Balkans and eastern Europe) in the international situation - should appreciate the intrinsic worth of its people and thus perceive how it happened that we have contributed so much to the greatness of the United States...." 


▽アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。

▽1930年代独裁政権下のユーゴで、マラリアで荒廃した国土を撲滅に奮闘するクロアチア人医師「ドクター・ヘラクレス」なるアンドリア・スタンパーを紹介したが、解任後、中国南京にマラリア撲滅に派遣され、国連の...。戦後の偉業はこのサイトから 
http://bit.ly/cvObek 
The Epic of Kossovo  Louis Adamic- 「コソヴォの叙事詩」翻訳。ブログから http://bit.ly/br6y7N

The Native's Return 1934は、大恐慌下にもかかわらず全米のベストセラーとなり、40年代まで続いた。アメリカが「移民の国」であることを、アメリカ人たちが再認識したことにもなったといえる。

 私たちはクロアチアに三月中旬まで滞在した。...粉雪が舞っていた。...ドイツではヒトラーがいよいよ全権を把握しつつあった。そこではユーゴで進行していることよりも数百倍のテロが頻発していた。バルカンの政治、社会、経済改革をしきりに求めてい人たちは、ヒトラーについて一様にこう語った「我々すべての者にとって、時計の針をますます逆回転させている。これまでもひどかったが、これからはもっとひどい状況がやってくるだろう。」「きっと、新しい戦争を誘発するに違いない。それから混沌、革命、そして新しい秩序だ。それしか道はないのかもしれない。」 1932年

「私たちはさらにザゴーレの奥地に踏み入っていった。山はいっそう険しくなり、土地はゴツゴツ乾いている。人びとの生活はもっとひどくなり、どの家も赤貧洗うがごとしの暮らしだった。...人々は貧しいが、それを恥じてはいない。健全な天性の文化を持ち、生き生きとした想像力によって耐えがたい環境を美しい物語や紙編や唄に潤色しながら生きている。...誰もがやせ細っているが頑丈で誇り高く、ユーモアのセンスだってちょっぴりあわせ持ち、礼儀正しく、やさしい自愛に包まれている。「南スラヴ人の心の文化」 1932年
*1933年、アダミックはクロアチア出身の国際的なオペラ歌手、ミルカ・トルニナの家を訪ねている。トルニナはアダミックと同じニコラ・テスラの友人でもある。すでにトルニナは70歳を過ぎてリタイアし重い病気を患っていた。もう私の栄光のことなどニューヨークでは誰も覚えていないと思っていた。" .   A woman of great simplicity and dignity, she said she could not understand why I should want to see her..." - Milka Ternina


The Native's Returnのロシアよりの最終章の一部の削除を出版社に命じた。大恐慌のベストセラーであったが、日本では全く紹介されていなかった。
* Bearing all in this mind, it's grand to be a Yugoslav-American and to come back after a visit to the old country. I love America.
  If nothing else, the vast industrial equipment which we Yugoslav immigrants have helped to creat in America will make her go Left and .   I think that, with Russia, she will be the most important factor in the future of the world and mankind....America will have to go Left. 
  revise her social system. She will go Left, too, because Americans, like Slavs, are essentially constructive-people of the future.



◇"Who Built America? Profiteers, Professionals Patriots or "Vile Immigrants" Common Sense,Ⅲ 1934by Louis Adamic


『南スラブ人の心と情』 
南スラブ人のハーツ・アンド・マインド物語5篇を収録。『南スラブ人のこころと情 』 (1)ドクター・ヘラクレス (2)農民の天才―イヴァン・メシュトロビチ (3)わが友よ 誇り高きヘルツェゴビナ人 (4)二つの祖国(5)スロヴェニアの愛

「…わが子よ、青白い顔になるな、猫背になるな、勉強に夢中になって試験のことなどくよくよ悩まないように。できるだけ自然と親しみなさい。戸外に出て、野原や村や山や森に入り、湖や川へ出かけ、鳥や蛙や昆虫、魚などありとあらゆる種類の生き物たちと、 岩や樹木やすべての草花と、大地そのものと、そして大地の恵みをうけている人たちと、またそういう人たちの日々の暮らしぶりにできかぎり親しむように。…詩人 オトン・ジュパンチッチ。」―「スロヴェニアの愛」

▽1934年、米国ルーズベルト政権下のFLIS行政委員の地位についている。FLIS(Foreign Language Information Service)外国情報報道局。彼のリーダーシップによってこの組織は激変する。


「苦闘」(1935年)
New Yourk Evening Post1934,各国語に翻訳され国際的な反響をよんだ"Struggle" Los Angeles:Arthur Whipple 1934。例えばWith Georgi Dimitrov and Piere Van Passen,Louis Adamic on the Bloody Fascist Terror in the Balkans. Detroit: The Macedonian People's Leage of America 独裁国王アレクサンダルはマルセイユで暗殺され、ユーゴ独裁政権は事実上崩壊の道を辿る。

▽暗黒の1930年代。「蟹工船」の小林多喜二の時代だ。コミュニストや反政府主義者に対する凄まじい拷問。
▽「コミュニストだけでなく国家主義者もだ。独裁政権の恐怖政治を暴露している。アレクサンダル王は自らの恐怖政治が臣民の生活の竈の灰まで支配していたのを知っていただろうか。私が王宮で会見した時そのようなことを訊ねる馬鹿な真似しはなかった。 「まえがき」-アダミック 

▽しかしアダミックの本の出版を恐れていたのは まぎれもなく独裁国王自身であった。ベオグラード政府の政治犯に対する抗議文、署名は錚々たる米作家や編集者大学教員ら48名。この作品によってもアダミックは命を狙われるようになる。


『バルーカス族の王ルーカス』(1935年)

フィリピンを舞台にしたエスニック物語だ。副題は「不思議な王国の物語」。フィリッピンの1930年代を意識した物語。あるいは祖国スロヴェニアも...。解説はpro.H.A. Christian 前書きはスロベニア語版訳者pro.Tine Kurent

「艦は数時間マニラに停泊した。私は友人のウェーバーに無線連絡をとると、
 彼は待ち受けたかのように埠頭にやって来て、
「お前にこうして会いに来たのはな...」と、ウェーバーはにやりと笑って、
「或る王国を飢えさせる必要があるからなんだ」と云った。
 彼はにやりと笑いながら、
「まあ、どこか話しのできるところへでも----」と促した。

▽コンラッド風の、僅か25頁ほどの短編だが、迫真性はある。
1930年のアメリカによる植民地下フィリピンを舞台。登場人物は、語り手の軍曹ウェーバー、ルーカス大佐、アメリカ黒人ジャクソン、フィリピンの先住民バルーカス族の酋長、ルーカス王。「ルーカス王」に収斂された「時代、無知、飢饉、政治、他の部族、そして恐らく自分と同じ黒い肌の中隊によって引き起こされていると思われる偏見の、極限化された苦悩」(Prof.Christian)を描く。

▽1930-35年間に、数種類の雑誌に掲載、また数種類の英語版、スロヴェニア語訳版として出版され、さらに50箇所余りの修正、省略の改訂版を経て、最後にロサンゼルスの小出版社ホイップル社から出版される。限定350部、アーティスト、エリザベス・ホイップルによる製作の木版画入り、定価一ドル(当時としては豪華版)で販売された。そしてアメリカ黒人の経済学者エイブラム・リンカン・ハリス氏に献呈されている。
▽ホイップル版のスロベニア語訳は1986年に、*翻訳ティネ・クレント、挿絵マリヤン・アマリエッティ、タイトル「Lucas Kralj Balukov」でリュブリャーナ市プレゼノバ・ドゥルズバ社から出版された。*Tine Kurentはアダミックの甥で、著名な建築学の研究者。


 『孫たち』GANDSONS』(1935年)
-スロヴェニア系アメリカ移民の孫たちを「この美しいアメリカの大地にすばやく過ぎ去る影」と表現した。1935年の段階ですでに移民二世三世の問題を論じている。
"Second generation Americans, children of immigrants of most nationalities, had a tendency to feel ashamed of their parents and repudiate their racial background, to draw away from people of their own blood; while third generation Americans, the immigrants'grandchildren, tended very strongly to return--or, rather, to seek out people of their racial strains and discover their backgrounds."
アダミックはすでに1935年に、スロヴェニア系移民の根無し草の「三世」を扱った小説『孫たち』を書いている。もとのタイトルは「暗黒の草原」。

 1935年に、アダミックは小説"Grandsons"で、スロヴェニア移民三世を「影の人間Shadow-Person」と呼んで〈アメリカ社会の病弊〉を告発し、1952年に、黒人作家ラルフ・エリソン"Invisible Man"で、黒人たちを「見えない人間」と呼び、 アメリカ社会の〈黒人差別〉を告発した。そして、『アメリカの人種的偏見―日系米人の悲劇』の著者でアダミックの親友、カリフォルニアの人権作家・活動家ケアリー・マックウイリアムズは1935年に、"Louis Adamic & shadow-America"を出版した。


「人生のゆりかご」(1936年)「アンティグアの館」(1937年)

▽日本人の観光客がたくさん訪れるそうです。 ANTIGUA GUATEMALA---MONUMENTAL CITY OF THE AMERICAS The House in Antigua.  http://www.rutahsa.com/antigua.html

アダミックは1937年にグアテマラを旅し『アンティグアの館』という本を書いている。が、数ヵ月滞在後、トロツキー関係でほとんど強制送還の形でアメリカに着いたとしている。
知人らが勝手にアダミックの名前をアメリカの作家や知識人らとともにトロツキー支援名簿にサインしていたのだ。だからゴサの延長を申し出るとグアテマラ政府からほとんど強制送還同然の形で追われた。アダミックにはとって大迷惑、それで抗議している。


*トロツキーは同年1月にメキシコに潜伏している。その数年前ラディカルなエール大学の「エールレビュー」誌に、アダミックは「王様商売」と題するユーゴ独裁国王体制を弾劾する記事を書いているが、その次のページにはトロツキーが論文を掲載されている。何か接点はあるのか、興味深い。

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Louis Adamic *1933 December 4.―S. and I have very little money-and I owe〔various people〕nearly twelve hundred dollars!...

December 16.―Last night I learned The N.R. is the Book-of-the-Month selection for February!
I guess my financial worries are over for a while, anyhow.
Suddenly I feel very calm... In one month some fifty thousand copies will be distributed....
S. terribly happy....



Fルーズベルト政権下、.アダミックが「海外広報行動局(F」LIS)の行政委員として働いていたのは1934-41年までである。アダミックほど適任の人物はいなかった。彼自らさまざまなプロジェクトを企画し、アメリカの文化の規範となった「多様性による統一」を強力に推進していくことになる。
.アダミックはすでに1935年に『孫たち』の中でスロヴェニア系アメリカ人の二世や三世の問題を論じている。更に他の日系人など少数民族集団についても『三千万の新アメリカ人』、1938年に『私のアメリカ』、1940年に『多くの国々から』の中でも論じている。以下は『孫たち』から。
."Second generation Americans, children of immigrants of most nationalities, had a tendency to feel ashamed of their parents and repudiate their racial background, to draw away from people of their own blood; while third generation Americans, the immigrants'grandchildren, tended very strongly to return--or, rather, to seek out people of their racial strains and discover their backgrounds. " 1935 

1936年のアダミックの講演から
「私は教育というものが、量的なものでなく、質的な、価値ある人間を創造していくべきだと懇願してやみません。...人は、ヒューマニズムを死滅させはしまいかと恐れて、お互い、如何に闘うか、といった策謀にエネルギーの大半を費やすことを止めなければならないことを知るでしょうし、〈感じる〉でしょう。そして、一つの目標に向かって、各自の理想に向かって、更には自ら真に願う世界と、またそういう世界を創りたいと思う方向に、心を向けなければならないことを知るでしょうし、感じるでしょう。」



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Wednesday, June 23, 2010

ルイス・アダミック雑録④- Louis Adamic on Twitter

④ルイス・アダミック雑録1939-1945- Louis Adamic on Twitter
"EU"とLアダミック1941年・『ホワイトハウスの晩餐』・アダミックのプロジェクト「アメリカ復興使節団」-戦後ヨーロッパ再建・第二次世界大戦下Two-Way Passage1941・「共に生きる社会」をつくるアダミックのもうひとつの「アメリカン・ドリーム」・「一つの世界主義」(One Worldism)VS世界の「多様性の中統一(Unity In Diersity)」・ロンドンのユーゴ亡命政府、ニコラ・テスラ(Nikola Tesla)についてのアダミックの追悼文 YouTube・元米国大統領ハーバート・フーバーへの手紙・『多民族国家』(A Nation Of Nations1945)等。
①アダミック雑録 ②アダミック雑録 ③アダミック雑録 ④アダミック雑録 ⑤アダミック雑録


改定中

▼"EU" and Louis Adamic 1941年
アダミックは1941年ニューヨーク市で、現在のような国境のない欧州連合の必要性を講演で提案した。貨幣や郵便の統合やらかなり詳細に(Prof.Christian)...しかしそれを報じたのはNew York Timesだけだった。http://bit.ly/dcvdW0

*〈以下Prof.Christianから引用〉アダミックは1941年11月8日、ニューヨーク市Hotel Pierreで New York Branch of the American Association of University Women の600人の会員を前に講演した。ニューヨークタイムズ紙は次のように報じた 。
「作家ルイス・アダミックは、ヨーロッパの復興について 彼の考えを表しながら、こう提案した。〈一つの大陸的なヨ ーロッパ政府の連邦部分に組み込まれるために...この土地に 20余りの臨時政府が組織され...貨幣、郵便制度、貿易および交通体系などが統一されるであろう...〉等等、とアダミック氏は提案した。」 このニューヨークタイムズの「等等 and so on」は、-クリスチャン教授はこう付け加えている-「1992年の計画された非共産主義の新ヨーロッパについての記述に私には思える。 それはアダミックの故国スロヴェニアが、おそらくクロアチアが、そしておそらくユーゴスラヴィア全体がそれに加入を希望、もしくは加入が必要、あるいは加入しなければならない?を溶け込ませているように思える」と。そしてクリスチャン教授は「アダミックを大目に見るつもりはないが、依然として私の好奇心と知識しばしば彼は満足させる」と。しかしクリスチャン教授は、アダミックの故国スロヴェニアが、「文化の多様性の保護と促進を基本原則とする」EUに加盟するのを、ついに目にすることはなかった。
*20世紀初頭、アダミックによればスロヴェニア共和国では作家イヴァン・ツァンカルがヨーロッパ統合論者であった。ツァンカルはアダミックの最も尊敬する人物で彼の作品を読み作家への道を志した。そしてアダミックは英語で最初に彼の代表作を翻訳出版した。

《without the border - No ethnic conflictt- No more war》


"EU" and Louis Adamic
(Public lecture in NewYork 1941)
On November 8, 1941, at the Hotel Pierre in New York City, Adamic spoke to 600 members of New York Branch of the American Association of University Women. His topic consisted of part f his ARM (The American Reconstruction Mission) concept; but as I have noted about all of the Two-Way Passage idea, in America Adamic's idea got shoved off to the Left. But here is the New York Times report of Adamic's remarks: "Louis Adamic, author, presenting his idea for the reconstruction of Europe, proposed that there be organized in this country twenty-odd provisional government ... to be made into federated parts of a continental European State. Mr.Adamic suggested ("Women"). Adamic's remarks "and so on " seem to me to be something like a description of the proposed non-communist New Europe of 1992 into which Adamic's native Slovenia, and perhaps Croatia, and perhaps all Yugoslavia hopes to, ought to, needs to, must (?) merge. So I'm not quite ready to let Louis Adamic go just yet . . .
"Women Scholars Active in Wartime", New York Times. 9 November, 1941.
"Literature, Culture and Ethnicity-Studies on Medieval, Renaissance and Modern Literatures" by Henry. A. Christian 1993


▼「ホワイトハウスの晩餐」1942年
真珠湾攻撃1941年12月7日。アダミックがFDルーズベルト、チャーチルにホワイトハウスで会ったのが1942年1月13日。チャーチルは数日前に帰国したといううわさだったので同席したのにアダミックは吃驚する。そして日系人の強制疎開措置の決定が下されたのが3週間後の1942年2月5日。ルーズベルト、チャーチルはTwo-Way Passageのことを議論したいとみせかけてアダミックをホワイトハウスに招き、実は日系人の忠誠の件を打診してみたかったのだろうか。

*By order of the president: FDR and the internment of Japanese Americans --Greg Robinson
1942年1月13日、アダミック夫妻はルーズベルト夫妻によりチャーチル英国首相とともにホワイトハウスの晩餐に招かれる。そこで論じられる12万の日系アメリカ人の運命。
On January 13, the same day Roosevelt received John Franklin Carter's "despondent" report about the lack of progress on the Munson-Ringle plan, writer Louis Adamic dined with the President at the White House. Adamic reported that Eleanor Roosevelt surprised the President by urging him to "do something" about aiding the one million enemy aliens, some Japanese but mostly German and Italian, who, she argued, were the targets of harassment and discrimination. http://bit.ly/a6ZyAi Ludacris

▽チャーチル首相にひきづられたルーズベルトも突然夫の加勢に廻ったエレノアも、アダミックの多民族、多人種の「Common Ground」の思想を警戒していたのかもしれない。結局はアングロサクソンの勝利に。そして日系アメリカ人の運命は...。その数年後、ホワイトハウスの晩餐を回想したアダミックは『 ホワイトハウスの夕べ』(1945年)の中のギリシャ問題に関する記述「脚注」で、チャーチル首相に「名誉毀損」で訴えられロンドンで敗訴する。

*アダミック友人、カリフォルニアの作家で弁護士のケアリー・マックウィリアムズは 『アメリカの人種的偏見―日系米人の悲劇』(1944)を書く。邦訳あり。

▽ルーズベルト政権から学んだJFケネディ政権の「平和部隊」の考えは、アダミックから出ているが、しかしアダミックのもう一つの「撤退」の部分は使用しなかったとProf.HC氏。

▽1930年代の大恐慌下、アダミックはニューディーラーであり、あらゆる移民問題を扱う米国政府機関FLIS(海外広報行動局)の行政委員の地位にあり、政府の「政治教育のための連盟」に後援された午餐会の名誉ある七人の一人であった。

アダミックのプロジェクト「アメリカ復興使節団」-戦後ヨーロッパ再建
 「第一次世界大戦の失敗をどうしても避けなければならない」という思いから、アダミックはすでに第二次大戦中から-アメリカが交戦状態に入る前から-戦後世界の構想を練っていた。◇ユーゴとドイツとの二日間同盟のあった一九四一年三月以前に、アダミックはベルグラードのマチェック首相に「ヒトラーを撃退せよ」と打電する。ユーゴ軍はよく戦ったが、しかし四月に敗北。
 故郷スロヴェニアがファシストに占領されるや、その年の熱狂的な夏の間に、アダミックは僅か三週間でTwo-Way Passage書き上げ、十月に出版する。その本を大統領夫人エレノアへ急いで読むように薦める。 エレノアは最終章のThe Passage Backに大変感銘を受け、それが「実現」されるのを期待し、「いまその本は大統領の手元にある」とアダミックを得心させる。大統領もその案に感動し、その本は官邸内を一巡、相当の激論がかわされ模様。ただし戦時局はその案は有用でないとする。 しかし大統領はその頃頻繁に会談密談していたチャーチル首相にもその本を薦める。12月7日真珠湾攻撃。翌年、1942年1月13日、突然、アダミック夫妻はルーズベルト夫妻からホワイトハウスでのディナーの招待を受ける。アダミックは自分の戦後構想について提案が議論されるものと期待した。
 ところがディナーには英国のチャーチル首相(すでに数日前に帰国したと噂されていた)も招かれていたのでアダミックは吃驚する。というのは、その本の中でアダミックは、荒廃した戦後世界の再建には、英米両国-アングロアメリカによってではなく、アメリカ主導でとりかかるべきだと書いていたからだ。
 しかしチャーチルは「二度読んだ」といいながらも理解を示さない。その問題について真剣な議論されなかったので、後でアダミックはそれに関する20数頁にわたる長い覚書をエレノア夫人へ送る。そして新聞やラジオなどさまざまなメディアを通じて自らのプロジェクト-「アメリカ再建派遣団」を推進させ、と同時に「真の国際連邦」の創造を繰り返し述べていた。
*友人のアプトン・シンクレアはアダミックの体験をもとに小説『大統領の使命』(1947年)の中で取り上げている。(「著者はしがきと第八章」 158-179頁)。アメリカがWASPではない多種多様な人種民族文化を拝啓とした国だと理解しないチャーチル。
 そしてその一年前からルーズべルト大統領本人の命令によって秘密裏に進行していた「日系人に対する忠誠心調査」いわゆるマンソン秘密報告、とその後12万人の「強制疎開(収容所)命令」、アングロ・アメリカが、このときに戦後世界、すなわち東西「冷戦」を呼び水になっていたような気がしないでもない。
Louis Adamic "A European Federation should probably be made up of smaller unites: the South Slavic Federation, Balkan Federation, and so forth. The aim is unity in the midst of diversity." My America My word They work for tomorrow Robert Merrill Bartlett 1943

Two-Way Passage 1941 第二次世界大戦下

Two-Way Passageは、故郷がナチドイツに占領された時、アダミックは凄まじい情熱を傾けて僅か3週間で書き上げた作品だ。故郷の家族に対する思いが彼をそうさせている。

第二次大戦下、アダミックはアメリカと世界に必要だと考えていた様々な活動に膨大なエネルギーを消耗させた。アメリカの戦争努力とともに、チトー率いるユーゴ・パルチザンをアメリカで初めて支持した。南スラブ系アメリカ人の最大のロビーとなった新しく創設された「南スラブ系アメリカ人統一委員会」の代表に任命され、その機関誌「ブルティン」を自ら編集し刊行した。そして1943年に『わが祖国』を出版した。その10月、アダミックはユーゴスラヴィア人民解放委員会が自分に「統一勲章」を与えたことを知ったとき、チトー元帥に次のような手紙を送った。
「恐らく貴下は、アメリカ合衆国のユーゴスラヴィアに対する官僚的な振舞いに困惑しておられるでしょう。私は手紙では、このわれわれの広大な、民主的な国土の複雑さを、そしてその素晴らしい長所とともに、その欠点と邪悪さとを、どうしても説明することができないのです。」

. アダミックはエレノア・ルーズべルトと助手に自分の考えを推進するために、前もってTwo-Way
Passage『二つの道』を送り(すでに25000部印刷されていた)、その中で提案したプロジェクトについて、ルーズベルト夫妻から招待を受けたホワイトハウスの晩餐の際に議論させるつもだった。
. そしてそれに関する詳細なメモをエレノア夫人に渡した。またルーズベルト大統領は、その本を英
国のチャーチル首相に読むように勧める。

東西冷戦のキーパーソン、英チャーチルによる米FDルーズベルト攻略。ヤルタ会談までいくまでにこのアングロ・アメリカでほぼ冷戦構造はできあがっていたのか。それともいずれは。1941年「大西洋憲章」同年、アダミック「二つの道」緊急出版。12月7日真珠湾。12月22日~アルカディア会談。

1942年1月13日 チャーチル、ルーズベルト、アダミック会談(ホワイトハウス) 。その後頻繁に英米会談が行われている。チャーチルに会うたびにその後数日眠れなかったというルーズベルト-エレノア夫人の言。二つの英米アングロサクソン国家の団結を阻止しようとするアダミックの多文化思想が興味深い。

チャーチルにアダミックの考えを説得できないルーズベルト。「My friend doesn't realize fully-really-what a mixture of races,religious and nationality backgrounds persist.」Dinner at the White House p66
というより、チャーチルはもともと「理解」するつもりなどなかったのかもしれない。またアダミックはチャーチルを「帝国主義と貴族的無関心さの遺産」と表現している。

*アングロ・サクソンの壁は厚い。例えば、1945年のWriters’War Boardで一般の著書に関する報告で、アダミックはこう述べている。「アメリカの小説では我々のこの国が、依然として「WASPの国」だと事実に反する誤った考えを持たせ続けている。1937年から1943年にかけて185篇の短編小説が8社の雑誌に掲載されているが、889人の当人と判断できる登場人物の90.8パーセントがアングロ・サクソン系だった。ニグロはたったの16人、ユダヤ人は10人に過ぎない。」と。

*アダミックは生涯、国家や民族、宗教、東西のイデオロギーの違いを超えて、「共に生きる社会」を構築しようと膨大なエネルギーを費やし孤軍奮闘したが、歴史的、文化的、そして政治的に、WASPの、そしてアングロ・アメリカの壁をどうしても超えることができなかった。しかし多文化思想はようやく70年代にエスニック・リバイバルとして花開いたが、政治的には東西冷戦の終焉を迎えたもののいまだ道半ばである。


▽スロヴェニアの弟からアメリカの兄への手紙
スロヴェニアの弟から1942年8月20日に投函された手紙は、ユーゴスラヴィア 、エジプト、ロンドンを経てアメリカの兄の許に届いたのは、すでに鉄の暴風の過ぎ去った1943年1月19日であった。
「...時々われわれはラジオで、希望に心動かされるが保証のない、アメリカで話されている言葉を聞いている。母と弟、姉、妹たちは今日は全員無事だ。親戚の多くがすでに命を落とした。被害は甚大だ。鉄の暴風が吹き荒れている。われわれ小国にとって失うものは計り知れない。緊急の援助を求む、いやもう遅いかもしれない。...」大戦下の危機的状況の中で、アダミックほど国外からユーゴスラヴィアに、スロヴェニアに貢献した人物はいなかった。アメリカのマイノィティに対してもそうだった。

  アダミックは、ホワイトアングロサクソンに独占させない、さまざまな人種、民族が共通のアメリカの大地の上に、共に生きる未来を作ろうと奮闘してきたエスニックアメリカのチャンピォンである。そして世界の「多様性の統一」をも推進している。

▽第二次大戦下の1942年、ニューヨーク市Sarah Lawrence大学で催されたフォーラムの一例。
アダミックの考えに基づいて討議された。参加者ルーズベルト大統領夫人エレノア・ルーズベルト、ハワード大の哲学者アラン・ロック(Alain Locke)、コロンビア大の文化人類学者、ルース・ベネディクトRuth Benedictと弟子フランツ・ボウス、Social Research校創設者アルビン・ジョンソンAlvin Johnsonら。その目的は異なる国籍の人々と共に歩みエスニックに対する偏見を理解し普及すること。http://bit.ly/96XK8Y


Two-Way Passageプロジェクト 「アメリカ復興使節団」(ARM)
故HC教授のアダミック評伝から引用してみる。--
「ユーゴ(短縮)とドイツとの二日間同盟のあった一九四一年三月以前に、アダミックはベルグラードのマチェック首相に「ヒトラーを撃退せよ」打電した。ユーゴ軍はよく戦ったが、しかし四月に敗北したとき、彼は海外のある家族に対する個人的な心配から彼らの即座の開放を希って、他の多くの人たちと行動を共にした。
 その年の夏の熱狂的な二ヶ月間に彼は、ユーゴをばらばらに引き裂いた、と感じた要因を論じたTwo-Way Passageを書き上げた。そしてその本を一つの「提案」で締めくくった。
 それは戦争がまだ進行している間に被占領諸国に政府機関を設置するという展望であった。すなわち、被占領諸国に血の繋がりを持つアメリカ人(それは同時にそれぞれの被占領諸国の血統または遺産を持つアメリカ人でもある)の部員を配置し、彼らによって統治されるならば、そのような機関は戦争が終結までその捕らわれた国々の市民を勇気づけることになるだろう。そしてひとたび平和が回復すれば、その解放された国々に対する一時的なアメリカの「占領」と復興は、廃墟した大陸の地表から立ち上がる人民と政府に対し、アメリカの民主的な理想を広める、知的な、同情的な人たちによって遂行されるだろう、というものだった。
 アダミックはこの「提案」を促進するために、「コモン・グラウンド」誌(アメリカ初のエスニック総合文芸誌)の地位を降り、「In Re:Two-Way Passage」と題する個人の時事通信ニューズレターを手がけるようになった。彼はまた、それを時どき、「帰還」とも「アメリカ復興派遣団」(ARM)とも呼んで、勿論その計画に関する講演にも発展させたのだった。... 彼は仕事の上でも個人的にも満足してこの招待を受けた。彼はきっと、「Two-Way Passage」の「帰還」が政府最高地位の人物に関心を持たれるのだと思い、ここ一年ほどの努力が妻に面目を施すものになったと感じた。...」
*  Fルーズベルド時代の思想を利用するために綿密に検討した、1960年代のJFケネディ政権は、「平和部隊」という概念で表されていたアダミックの「撤退」の利他的な部分を、ほとんど使用しなかったのだ。(HC)








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▼アダミックのもうひとつの「アメリカン・ドリーム」
-物質的な成功ではなく、「共に生きる社会」をつくる。
 アダミックはまさに第二次世界大戦のこの時期に、アメリカ社会を変える絶好の機会だとみていたようだ。当時の彼の記事タイトル通り、まさに「危機こそチャンス」だった。1939年にFLIS(海外情報報道局)はCCAU(アメリカ統一共同評議会)と名称を改め、監督官リード・ルイスに代わり、アダミックがその監督責任者となる。そしてプロジェクトを実践するための念願の研究助成金をカーネギー財団よりを引き出すことに成功する。これより彼の「アメリカンドリーム」が実現へ向かって始動することになる。
『多民族国家』シリーズとして、次の第五巻をアダミックは出版した。『多くの国ぐにから』1940年、『二つの道』1941年、『あなたの名前は?』1942年、『わが祖国』1943年、『多民族国家』1945年。 さらにプロジェクトを実現させるためのさまざまな組織活動が可能になった。

例えば講演、国内の数百種類の外国語雑誌への掲載、数十万枚に及ぶ各エスニックの機関、個人への送付、ラジオキャンペーン、さまざまなエスニックコミュニティへの訪問、大学やコミュニィティでの討議などなど、「多様性の統一」のためのエスニックの伝統遺産を引き出すためのあらゆる試みがなされた。

一方、大戦時期に、このような多文化の思想を薦める運動は危険なものでもあった。しかしアダミックの胸中には常に、一移民としても、18世紀の「アメリカ独立革命」の理想があった。Fルーズベルト大統領、エレノア・ルーズベルト、その他政府高官らと討議を重ねる一方、 荒廃した戦後ヨーロッパ再建にあたって、「ヨーロッパにおいてアメリカ革命」に点火させるために、アメリカのエスニックの人たち-ヨーロッパをルーツに持つ人たち-を使うよう政府政策担当者らに促す。

.   全米を旅し、さまざまな人に会い(彼ほど多くの人にあった個人研究者はいなかった)、訊ね、聞き取り、資料を集め、そして「1938年までに彼のニュージャージー州ミルフォード自宅は、移民やその子供たちの希望と問題と回顧録の書庫」(HC) となった。

.   「共に生きる社会」を築くにはいかにすればいいか、アダミックは教育機関に切り込もうと考える。学校や図書館などあらゆる教育機関に働きかける、生徒だけを対象にするのでなく教える側の教育者をも啓蒙する必要がある。さらにラジオや教科書、出版物など、さまざまな情報機関にも普及させる。

.   国内の数百の外国語新聞にエスニックに関する論考を掲載し、「ブロードサイド」というアンケート用紙を考案して、十数万枚を外国を素性に持つ人たち宛てその質問状を送付し、その返事を書き、返事を書けない人たちに対しては自分から出向き、コミュニティを訪ねる。ラジオによるアピールやさまざまな組織活動、全米を講演してまわる。... 彼自らも「多民族国家シリーズ」(5巻) として書き出版し、そのことを証明してみせた。*「多民族国家シリーズ」は、アダミック戦時中ユーゴのパルチザンを支持したことで助成金が打ち切られ継続できなかった。

そのアンケートに対する返事の一部、スコットランド人、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人、イタリア人、ポーランド人...を「多くの国々から」に紹介しているが、以下は「黒人の教師」からの例。

「アメリカン・デモクラシーはある一部の民族集団によって享受されているだけです。黒人の教師たちは白人の教師同様にアメリカン・デモクラシーを指導するように求められています。しかしこういった理想主義は存在しません。学生たちはただちにその授業の過ちに気づきます。機会の扉は閉ざされています。 ...黒人は、陸軍にも海軍にも入隊できない、自分の国のために死ぬことさえできないのです。... 黒人たちが立ち上がるチャンスを与えられ、一人の人間として、彼らの潜在的な天性の能力、才能が発揮できるように...アメリカの心を、彼らがオープンにさせてほしいと私は祈っています。」
.   結局は「エスニック百科事典」は1980年にハーバード大学陣が完成することになる。大学陣いわく「アダミックはいずれは実現できたであろう」と。

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▼「一つの世界主義」(One Worldism)VS世界の「多様性の中統一(Unity In Diersity)」
第二次世界大戦とともにアメリカ社会は人種的「統一」への動きが急務となる。
「人種の坩堝論」(Melting Pot)から「同化論」(assimilation)へ、そして「一つの世界主義」(One Worldism)を目指す動き。これに対 抗するようにアダミックは、政府のCCAU局長の地位にありな がらも、国内のそして世界の「多様性の統一」を目指す。これはきわめて危険な思想でもあった。実際にこの世界の「多様性の統一」のために彼は、1944年にこの政府のCCAUと決別することになる。

チトー率いるパルチザンを支持したからである。そのため財団助成金も打ち切られ、プロジェクトも萎縮してしまう。残りの人生はこの「世界の多様性の中の統一」の問題との闘いとなるが、歴史的に誤った道を歩んできたアメリカ、これはいまなお大いに検証すべきアメリカの課題であろう。

"Adamic had extended his unity in diersity."  --Prof H A.Christian

1930-40年代、祖国ユーゴの危機の時代、スポークスマンとしてのアダミックの活動は命がけの凄まじいものだった。もしアダミックがアメリカでユーゴを後方支援しなかったとしたら、果たして「第三世界」「非同盟」は存在していたであろうか。
アダミックからすれば、チャーチルは、「帝国主義の遺産と貴族的無関心さを具現化している人物」に過ぎなかった。 これもまた歴史的な検証が必要であろう。


アダミックのヨーロッパ連邦構想。1941年。
Louis Adamic "A European Federation should probably be made up of smaller unites: the South Slavic Federation, Balkan Federation, and so forth. The aim is unity in the midst of diversity." My America My word They work for tomorrow.  Robert Merrill Bartlett 1943


▼My Native Land 1943Mar 5th ユーゴの弟Frace Adamicから米国の兄Louis Adamic
MY NATIVE LAND (1943)- " I am not born for one corner ; the whole world is my native land " SENECA THE STOIC

1942年8月20日に投函された手紙は、ユーゴスラヴィア 、エジプト、ロンドンを経てアメリカの兄の許に届いたのはすでに鉄の暴風の過ぎ去った1943年1月19日であった。

For an endless time we have not had any word of you or your wife. Now and then on the radio we hear words spoken in America which stir hope but give no assurance. Mother and all the brothers and sisters are still living today. Of our relatives many are already lost. Suffering is extreme. The storm with metal hail rages on. Losses are enormous for our small nation. We ask for urgent help, or it will be too late. All of us send you, your wife and all your friends in America our greetings. "My Native Land" 1943

To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人民族会議(SANS)の名誉会長となる。

My Native Land 1943 を出版。アダミックは「ユーゴスラヴィア人民解放委員会」から「統一勲章」を授与される。だが一方では、ユーゴスラヴィアを支持したことにより、メディアやユーゴスラヴィア系アメリカ人から「コミュニスト」とレッテルを貼られ、さんざん叩かれることになる。
*"I have in me a sort of peasant resistance to influences of all sorts." - My Native Land ,1943


ロンドンのユーゴ亡命政府について
(Prof.HCのアダミック雑録/英文から引用。)
Prof.HC要約。1941年ロンドン亡命政府へ打電〈ユーゴに対しては〉 1)戦前の国境はすべて維持する。2)全て自治国家。3)局部的な最高統制でなくむしろ連邦制。4)それでも土地は自治の形態。5)投票、出版、言論、集会、宗教、職業の自由および、それら全ての権利を保証する憲法。


 この半世紀を通してどことなく忘れ去られているのは、生国スロベニアがファシストに占領されるに伴って、アダミックがユーゴスラヴィア系アメリカ人に協力したということである。さまざまなプロジェクトで東西奔走していたアダミックは、1941年8月13日、フラノ・トリノビッチ、ストヤン・プリセビッチ、ニコラス・ミルコビッチ、バソ・トリバノビッチ(Frano Petrinovic, Stoyan Pribichevich, Nicholas Mirkovich, Vaso Trivanovich)らと共に、ユーゴのロンドン亡命政府、ドゥシャン・シモビッチ首相およびその関係者へ打電した。

 「ペータル王はアメリカ国民に放送するよう予定されている」と記した上で、次のような声明を発表するよう促す。「この戦争の終了後、ユーゴではセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の民族間は完全に平等となる」そして第二に「この新しいユーゴ政府は政治的権利、市民の権利を完全に保障した民主主義体制とする」。「これらの原理は、ユーゴ国民の将来にとって、われわれ移民にとって、アメリカの世論にとって極めて重要である」と。そしてトリバリビッチを除くこのグループは、すでに一週間前に、ロンドン亡命政府へ次のような一文を準備していた。Prof.HCによる要約。 

▽再検討ユーゴ、南東欧、欧州に対しての声明文は、民主主義体制に基づいた各民族の対等、市民権、自由、平和、人権、正義などに配慮されたもので、ユーゴ系移民の将来のために米国民の前でその「保障」の公言を求めている。

*ユーゴの独裁政権打倒から王政廃止までの大事業に関わり、それを完遂させるのにアダミックは海外から最も活躍したが、チトーの新政権樹立及びその後内政には一切関与していない。新政権に対しては単なる目撃者、初期の証言者に過ぎない。


ニコラ・テスラ(Nikola Tesla)について渾身の追悼文
▽ニコラ・テスラについてのアダミックの追悼文。1943年1月10日ニューヨーク市長によって読まれたYouTube。テスラは、20世紀文明の、今日の人類の遺産といって誰一人疑うものはいないだろう。http://bit.ly/dr8G2x

▽20世紀悲運の天才科学者、ニコラ・テスラ。
同じユーゴ系アメリカとして、アダミックはニコラ・テスラの友人であった。ニコラの亡くなる二日前、彼の甥子を伴って、ニューヨークの粗末なホテルに訪れている。そしてアダミックは次のような渾身の追悼文を書く。 それは1943年1月10日に、イタリア系移民の著名なニューヨーク市長Mr. Fiorello La Guardiaによって、ラジオで朗読された。このテープは、Tesla Memorial Society of New Yorkの長年の大変な努力によって発見されたという。YouTube 鳥の羽音が聞こえる テスラが愛した鳩のもの。 http://immigrantebook.blogspot.com/2009_02_01_archive.html
*その追悼文にアダミックの思想も凝縮されてもいる。
英文はこちら Celebrate Tesla's achievements on Earth - Tribute to the great American http://www.nikolatesla.hr/news.aspx?newsID=126&pageID=14

▽アダミックはテスラが亡くなる一週間ほど前にニューヨークのホテルを訪ねている。1942年12月29日にエレノア・ルーズベルトに送った同じ内容の手紙を1920年代のハーバート・フーバー元米国大統領にも送っているが、なぜエレノアは、いやフーバーもだが、テスラに手紙を書かなかったのだろう。テスラは普通の科学者ではない。
セルビア系のクロアチア移民テスラは1920年代、レーニンから生活の面倒はすべて見るのでソ連に移ってこないか誘われたが、自分は「アメリカ人だ」といって断っている。20世紀最大の発明家の一人であり、アメリカ文明に対する貢献は計り知れない...アメリカに莫大な富をもたらした..が、しかしいま、彼は忘れ去られ、過去の人間になっている。会いに来る者もいない、手紙をよこす者もいない。ユーゴ亡命政府から小額の「年金」を受けているものの、研究費に充てられほとんど一文無し、食い詰め、ガリガリに痩せ細せ、いまや死の床にある。...せめて「アメリカ人」としての、テスラの功績を認める手紙を書いてくれないかとアダミック。
エレノアは、あれだけ長年アダミックのダイナミックなエスニック・アメリカの文化運動を目前し彼の本を読み学んできたはずなのに、一人の人間の尊厳を理解するまでの心くばりまでは行動に移せなかった。
極度の貧困と心身ともに衰弱のテスラ。その後まもなくしてだれに看取られることもなく1943年1月7日息を引き取る。翌朝、家政婦に発見される。

*アダミックの心あたたまる手紙はこちらのサイトから http://bit.ly/8YXPqK 
LOUIS ADAMIC . MILFORD . NEW JERSEY January 4, 1943
Dear Mr. Hoover:
  Nikola Tesla, as you know, is a Serbian immigrant who came to America from Croatia some 60 years ago and became one of the world’s greatest inventors. He became also an American. In the early 1920s Lenin urged him to move to the Soviet Union, promising him every scientific facility, and personal security for life, but Tesla declined ? he was an American and had got used to living in the United States, whose civilization he helped to create.
  His contribution to the sum-total of American civilization is almost beyond calculation. Hundreds of billions of dollars of American wealth are ascribable to his inventions. They are at the very center of our current war effort. No man living has added more substantially to the potentialities of human life than Tesla.
  Yet today, when he is past 90, he is worse than penniless. He is extremely frail, weighing less than 90 pounds. His health is poor, and he has grown somewhat bitter against the U.S.A. No doubt his current poverty is his own fault. However, I think that ordinary standards do not apply to Tesla. He was always the pure scientist, never interested in money, always impractical about material existence.
  But the fact is that now he is up against it. He receives a small “pension” from the Yugoslav government-in-exile. I know that Tesla suffers greatly at having to accept this pension from the government of his native country, to which he had never contributed anything directly. He suffers especially because the money comes to him through the Yugoslav Ambassador in Washington, whom he dislikes personally. Tesla suffers, too, in fact to the point of bitterness, because he feels ? with some justice ? that everyone in America, including the beneficiaries of fortunes created by his inventions, has forgotten him. No one writes to him; no one comes to see him.
  He lives in a meager room in the New Yorker Hotel, in New York. He owes about a year’s rent ? the Yugoslav pension is not enough to keep him in scientific apparatus, etc., for he continues to work on his projects.
  This letter is not an appeal for your personal financial help. Some way will be found of looking out for him ? he will probably not outlive 1943. But he needs someone to take care of him personally without seeming to; someone who could also follow his current notes and experiments and preserve what may be of value in them. Perhaps one of the large electrical corporations which have benefitted so greatly through his inventions would be glad to pension him for the short balance of his life. And I am wondering if you know someone who might be approached.
  A pension coming from such a source would relieve Tesla of the necessity of accepting more money from the Yugoslav government. It would do much to remove his bitter feeling of neglect. And it would be fitting, though small, recognition of the debt America owes this man who has done so much for his country.
  If you would like more details, I can come to see you in New York at any time.
Sincerely, Louis Adamic

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▽ニコラ・テスラについてはThe Native's Return1934年の最終章に記されているが、その箇所は1937年の版から削除されている。(邦訳『わが祖国ユーゴスラヴィア』も削除) ニコラは名誉にも金にも関係なく、ただ人類に奉仕した、とアダミック。His achievements were great and are becoming greater as time goes on. Nikola Tesla could have hundreds of millions of dollars, I could have become the richest man in the country, in the world, if he wished for riches. He didn't. He did not care for anything, did not have time for anything to spell success for too many..." http://immigrantebook.blogspot.com/2009/02/blog-post.html

Louis Adamic eulogizes, "Tesla lives in his achievement, which is great, almost beyond calculation,
and an integral part of our civilization, our daily lives, our current war effort. His life is a triumph."

*NIKOLA TESLA by L Adamic 天才ニコラ・テスラ 20世紀の人物世界遺産、誰も異論はないであろう、友人アダミックの渾身の追悼文。http://bit.ly/9Kwh33


2012年4/3日ツイッター
1943年1月4日にアダミックはフーバー元大統領に心温まる手紙を送っている。「ご存知のように、ニコラ・テスラは60年前にクロアチアからアメリカに渡ってきたセルビア人移民で世界最大の発明家となった..」しかし今90歳を越え痩せさらばえて死の床にある..貧窮のどん底に..食糧すら..

彼に手紙を書く者も、彼に会いにやって来る者も誰もいない。すでに過去の人となっている。その後しばらくして、ニューヨークの粗末な部屋で誰にも看取られず死ぬ。それにしてもなぜアダミックはローズヴェルト大統領でなくフーバーに手紙を送ったのか。友人のルーズベルド夫人エレノアには送っている。

20世紀最大の天才発明家ニコラ・テスラの名誉回復すべく、アダミックの渾身の追悼文と、そしてニューヨーク市長の万感胸に迫る朗読の録音テープが発見されたのは、つい最近のことである。ニコラへはフーバーからもエレノアからもついに手紙はなかったが、アダミックの「思い」は果たされたといえる。

1934年に(The Native's Return)アダミックはこう語っている。「もちろん、アメリカはいい事づくめじゃない。これから先十年、アメリカ全体はさまざまな悲惨な経験をすることになるだろう。でもその時ぼくは、主としてアメリカにいる我々移民のこと、とくにぼく自身の国籍の人たちのことを、

また我々移民がそこで何をしてきたかということを、考えるだろう。...これまで四十年間、我々移民は、とくにユーゴスラヴィア人たちは、アメリカの限りない石炭や鉱石を採掘し、鉄鋼製品の大半を生産してきた。...我々移民の大量のエネルギーは、現代のアメリカの偉大さの底に凍りついている。

明日見るニューヨークの摩天楼の下に、アメリカ国中の橋や鉄道の下に、また、あらゆる重要な有形の設備の下に凍りついている。我々スラヴ民族のエネルギーの微かな一本の糸筋は、アメリカの鉄道のありとあらゆる軌道を流れている。おそらく、他のどんな民族以上に、いや、生粋のアメリカ人以上に、

この国の建設に貢献してきたはずだ。我々は肉体的な貢献だけでなく頭脳においても貢献してきた。我等が天才、ニコラ・テスラとミカエル・プーピンはユーゴスラヴィア人である。云うまでもなく、彼らの発明なくしてアメリカの現代生活を営むことはできまい。アメリカの毎年数千万キロワットの電力は、

テスラ・モーターによって供給されているのだ。プーピン教授の発明がなければ、現代の電話通信は生まれなかっただろう...これまで、我々ユーゴスラヴィア人のほとんどの者は労働者であったし、そういうものとして、ひどい搾取をうけてきた...でも、テスラとプーピンは、アメリカで成し遂げたこと

を故国では成し遂げることはできなかっただろ。//...ともかく、こういうことを心に抱きながら、故国を後にアメリカへ帰ることは、実に気分がいい。ぼくはアメリカを愛す。ぼくはアメリカがロシアとともに、世界の人類の未来に最も重要な役割を果たすことになるだろうと思う。

...ぼくの能力の許すかぎり、故国をアメリカになぞらえて得ことになるだろう。ぼくはユーゴスラヴィアを愛す。アメリカ人たちはユーゴスラヴィアに関心を持つべきだ。国際的な状況のなかで(他のバルカン諸国や東欧諸国と同様に)、それが抱える問題と、その重要性を理解すべきだ。



そして、スラヴ民族の固有の価値を理解し、われわれ移民が、なぜこれほどまでにアメリカの偉大さに多くの貢献してきたかということを、理解しようと努めるべきだ...」




▼『多民族国家』(A Nation Of Nations1945)
アダミックはアメリカを「移民の国」とみた米国の国民詩人Walt Whitmanの著書 Leaves of Grace(1855)の前書き: "Here is not merely a nation but a teeming nation of nations"に影響を受け、「A Nation Of Nations」(1945)を書き、アイルランドから渡ってきた移民の4代目John F. Kennedyは"A Nation of Immmigrants"(1964)の第一章にウォルト・ホイットマンのタイトルを使用した。

▽アダミックが『私のアメリカ』(1938年)の中で企画したが資金難でできなかった「エスニック百科事典」をハーバード大学陣が完成させた。そのアダミックに対する献辞がIntroductionの最初に見られる “ Harvard encyclopedia of American ethnic groups” 著者: Stephan Thernstrom  http://bit.ly/aomW9v

“The are two ways of looking at our history. One is this: that the United States is an Anglo-Saxon country with a white Protestant Anglo-Saxson civilization struggling to preserve iself against infiltration and adulteration by other civilizations brought here by Negroes and hordes of "foreigners."
The second is this: that the pattern of the United States is not essentially Anglo-Saxon though her language is English....The Pattern of America is all of a piece ; it is a blend of cultures from many lands, woven of threads from many corners of the world. Diversity itself is the pattern, is the stuff and color of the fabric. -- "A Nation of Nations" 1945 by Louis Adamic

Adamic's cosmopolitan spirit was damped by the Cold War.
東西冷戦の終焉は、八九年東欧革命、ベルリンの壁の崩壊、九一年のソ連解体で完成された。

そしてアダミックの1930s-40sの「自由」を求める苦闘が、公民権運動へとへ繋がれていく。

 「                             」
引用 HAクリチャン


The future, ours and the world's, is in unity within diversity. we have a chance to create a universal, a pan-human culture, more satisfying than anything humanity has as yet devised or experienced. From Many Land,1940 p.301 

The American Dream is a lovely thing, but to keep it alive, to keep it from turning onto a Nightmare, every once in while we've got to wake up.From Many Land,1940 p.301 


.アダミックのヨーロッパ連邦構想。初出1941年。 "A European Federation should probably be made up of smaller unites: the South Slavic Federation, Balkan Federation, and so forth. The aim is unity in the midst of diversity." My America My word They work for tomorrow- Robert Merrill Bartlett 1943


▼「ホワイトハウスの夕べ」

アダミックは1930年代から毎年一冊の割で出版していたが、この「ホワイトハウスの夕べ」を最後に、死ぬまで一冊の本も出版していない。 

1943年にJ.B.Lippincott Companyは「The People of America」シリーズ9巻を刊行することになり、アダミックはその編集主幹となる。目的は、「合衆国のあらゆる民族(エスニック)・人種グループのルーツや起源を引き出し、正統なアメリカ文化構築へ向けての」。
 しかし戦争に膨大なエネルギーと時間を消耗したために、アダミックは 1947年に以下の前書きを書いただけだった。ケアリー・マックウィリアムズや友人らが後を引き継いだ。
「オランダからのアメリカ人」」(1947)「ハンガリーからのアメリカ人」「日本からのアメリカ人」(1948)。その他の巻は友人ケアリーマックウイリアムズらに引き継がれていった。「わが英国の遺産」(1949)や「彼らは最初にやって来た-アメリカインディアンの叙事詩」」(1949)「メキシコ以北-スペイン語を話す合衆国人」」(1949)「スウェーデンからのアメリカ人」」(1950)「ノルウェーからのアメリカ人」(1950)そして「彼らは鎖で繋がれてやって来た-アフリカからのアメリカ人」(1950)等があった。

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1946年、アダミックは世界がすでにイデオロギー対立でなく「核の時 代」に入ったことをはっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造で はなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索し ていた。そのためのあらゆる個人プロジェクトを立ち上げ推進していた。

*1941年にルーズベルト大統領、チャーチル首相とホワイトハウスでの晩餐を回想した著書「Dinner at the White House」(1946年)の中でアダミックはこう述べている。
「(構造的に、また影響力のある人たちの思想慣習において幾らか変革した形の)アメリカ資本主義と(将来の展望において幾らか変革した形の)ソビエト社会主義は、双方の最高の相を包含しながら、一つの類似の生き方に達するまで長い期間〈共存〉できるはずである。両国は、思想感情の別な型の、より良き理解を必要としている。」と。そしてもし国際的に「アメリカにとって"中立"の道がないとすれば  それはわれわれの内部にさえ存在しないのである。」

「いわゆる正統派マルクス主義者は、階級対階級、すなわち、資本主義に対し社会主義、帝国主義に対し世界革命が正しいと認めるだろう。国の内外でわれわれは、左右の原則の下に、物事の決着がつくまで闘争を強いられるだろう。」 そして、その闘争は、「引き続き起こるかもしれない全体的な破壊の悪党役を演じるアメリカの原子爆弾でもって、ただ第三次世界大戦に導くのみである。」と述べたのだった。

 そしてアダミックは、「ユーゴスラヴィア(その一党支配の不完全さを許容しつつも)が戦後世界の二大勢力間の理解の架け橋になることができる」と信じていた。アメリカは多様性による世界統一のために導きはじめるだろうし、ユーゴスラヴィアはそれを発展させる機会と援助を与えられる..と。しかし、トルーマンドクトリン、マーシャルプラン...と次々と冷戦構造が確立され、米ソが超大国化へ進むに従いアダミックは次第に希望を失っていった。

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1941年1月19日。ホワイトハウスでFルーズベルト夫妻に招待されたアダミック夫妻と英国首相チャーチル。この会談では戦後のヨーロッパ再建についてのアダミック作品『二つの道』が論じられた。チャーチルはルーズベルトに勧められ読んでいた。ルーズベルトはチャーチルを説得できなかった。


 1946年、アダミックは世界がすでにイデオロギー対立でなく「核の時代」に入ったことをはっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造でなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索していた。1941年にスタートさせた戦後ヨーロッパ復興プロジェクト


「アメリカ復興使節団」、アメリカ大統領選に出馬した進歩党ヘンリー・ウォーレス支援、アメリカとともに世界を主導させようとユーゴに働きかける...等もそうであった。しかしアダミックの思いに反し、米ソはますます超大国化し、イデオロギー闘争と軍拡競争へと突き進むことになる。


そして1989年ベルリンの壁崩壊、1992年ソ連崩壊により東西冷戦が終結。目下、世界の「多様性による統一」への道の途上にあるといえる。


1947年から時代がガラリと変わる、冷戦が本格始動。1930年の出世作『ダイナマイト』から1946年の『ホワイトハウスの晩餐』まで、アダミックはほとんど毎年のように本を出版していたが、47年から51年の死ぬまで一冊の本も出版していない。というより出版できなかった。また、雑誌新聞にもほとんど掲載できなかった。そしてその年まで一度も米政府と衝突したことはなかった。しかし「私は、物事の真実を捉え、物事を理解しようと努力する探求者である」「...何かために、何かをするために自己を燃焼させたい」とかつて記したように混沌とした国際政治へ身を投じていく。


《東西冷戦》◆1946年 チャーチル「鉄のカーテン」演説。5年前ホワイトハウスでチャーチル、ルーズベルトと会談したときのアダミック回想録『ホワイトハウスの晩餐』を出版。その年の暮れ、ギリシアに関する記述でチャーチルに「文書誹謗」の廉で訴えられる。◆1947年1月ロンドンで敗訴。


3月トルーマンドクトリン。6月共産圏を封じ込め政策、マーシャルプラン発表。10月コミンフォルム設置。 ◆1948年4月ソ連、ベルリンを封鎖。西側諸国、西ベルリンへの大空輸を開始。6月ユーゴ、コミンフォルムから追放、米国大統領選挙-アダミックは進歩党ヘンリーA・ウォーレス支援。


◆1949年4月NATO調印。10月 中華人民共和国成立。ソ連が原爆実験に成功。◆1950年2月マッカーシズム。6月 朝鮮戦争勃発。◇1951年9月4日アダミックの死体で発見される。(今も死因不明) ◇1952年5月『鷲とルーツ』出版/祖国ユーゴでは40年後まで発禁。