Thursday, May 20, 2010

Louis Adamic on Twitter ツイッターでアダミック4

Louis Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック4


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『鷲とルーツ』はアメリカと祖国で正当な評価を得るまでに出版から40年の歳月を要した。アダミックの死の真相も、その原因ともなったといわれる『鷲とルーツ』および未出版の遺された膨大な量の原稿(「激震の中のチェスゲーム」他)も、謎だらけのままだ。何か大きな力が働いた気がしてならない。

当時アダミックが会見した国王アレクサンダルは,「...ほとんどの本は私の期待を裏切るものです」と語ったが、「...裏切る」どころか激震となって、その政権の心臓部に一撃を見舞い、軍事独裁政権は事実上崩壊した。

できるかぎり己の良心に従い、「正直」に「自由」に書いた。そして出版された『鷲とルーツ』(アダミックの死後出版された)は、祖国ユーゴでは「禁書」となる。その17年前の1932年に帰郷した折に書いた『故国に帰りて』もまた、「禁書」であった。携帯しているだけでも投獄されたのだ。

アダミックはその資料を全くといっていいほど使用しなかったこと。使用したのは、アメリカで自分が集めた資料と、実際に自分の目で見、聞き、訊ねて取材した記録と、自分の記憶だけである。「情報」の価値を充分知り尽くしている、アダミックらしいところだ。

そして政府が集めさせ準備させた資料類は膨大な量にのぼる。新生ユーゴ政府にとってアダミックへの期待がいかに大きかったかを物語ってもいる。それらをアメリカに持ち帰って、アダミックは「異常なまでの情熱」で本の執筆にとりかかる。しかし、「面白い」のは、

詳細は後で書こう。1949年、アダミックはユーゴを再訪する。滞在期間は半年、二ヶ月はフランス。チトーをはじめ新生ユーゴ政府の熱烈な歓迎をうける。政府高官をともなうさまざまな視察旅行...国内を施設を見学、コミンフォルムとユーゴに関する討議、またチトーの別荘への招待...

そしてアダミックは米国大統領選に出馬したヘンリー A・ウォーレス(F ルーズベルトの下で副大統領)の進歩党綱領委員会の委員に任命され、一週間、夜を徹して進歩党綱領委員会草案の作成にとりかかる。勿論勝敗は最初から分かっていたが、その遺産はいま、オバマの政策に活かされているのでは。

思想的にアダミックと似たジョージオーウェルは「1948年」を 書き、すでにソ連の官僚国家の本質を見抜いていた。アダミックは 米国の反共ヒステリーとたたかいつつ、不完全な一党独裁の体制に も拘らずコミンフォルムから除名されたチトーのユーゴを支持した 。

1947年初めに英国首相チャーチルに「名誉毀損」で訴えられて敗訴。それもたかが「脚注」においてだ。時代の風向きが変わった。アダミックはもうどこの新聞雑誌にも掲載できなくなった。そして1948年、自分の時事通信に「アメリカ抵抗運動の最前線に立つ」として記して、人生最後たたかいを始める。

アダミックは1931年から年一冊の割でコンスタントに本やパンフレットを出版し、様々な雑誌や新聞等に「洪水」のごとく寄稿していたが、それが1947年から死ぬ1951年までは一冊の本も出していない。新聞雑誌等への寄稿も数える程度である。ただ自分の定期刊行物に掲載しているだけである。

I think, a failry feeling about the vast place... which I hope the ensuing pages will at least partly convey to the reader. 『私のアメリカ』(1938)に。

Since 1931 I have traveled perhaps 100,000 miles in America, by train, by auto...to get "the feel of things"; and I have developed,

アダミックはそれまでは何の組織にも入っていなかったが、1934年、米国ルーズベルト政権下のFLIS行政委員の地位についている。FLIS(Foreign Language Information Service)外国情報報道局。彼のリーダーシップによってこの組織は激変する。

当時アダミックは、世界はすでに核時代に突入していたことをはっきりと認識していた。アダミックは東西イデオロギーに屈していた。が、それはまたを超えていたとも言える。

and necessary to understand Adamic's significance to the New Yugoslavia." Prof H.A.Christian 米ソは増長し超大国化へ、ユーゴは独立し孤立していたので、アダミックの思いは届かなかった。

"...at the 1981 Minesota Adamic Symposium I heard the late Joza Vilfan good for Yugoslavia. In the last forty years it has been important

and to utilize their natural resources for their own development.東西冷戦が始まる1948年当時である。米ソは軍拡競争へ、そして1992年 ついにソ連の経済は破綻して冷戦終結。

their internal logic toward domination... did not understand the urge and the determination of undeveloped countries to be independent

アダミックをよく知り、ユーゴスラビアについて様々な議論をする機会のあった駐米ユーゴ大使Yoza Vifranは、同国際会議でこう述懐する。Adamic's pessimism for a future in which the "two superpowers driven by

"as the beginnings of what became "the non-aligned policy."

Vilfan credited Adamic's foresight in seeing the split "as a harbinger of the resistance against subordination to superpowers,

-shocking to Vilfan at the time - that Yugoslavia's break with the Soviet Union in 1948 was decisive, even positive,

1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムの冊子に、ビフランの証言についてこう載っている。An exception to Adamic's general discouragement was his view

彼はスターリン下のソ連に同調していたはず。アダミックはすでに、米ソ超大国に従属しない「非同盟」政策の、明確な自主独立路線の考えを持っていた。アダミックの先見性。アダミックはユーゴ政府にスターリニストがいることを指摘したりする。

ソ連からユーゴが除名された1948年当時の元駐米ユーゴ大使Vilfanの発言は重要だ。確かアダミックの死の直後ある雑誌にアダミックのことを書いていたのは彼では。いま手元にない。当時はあまりいい評価はしていなかったはず。

◇L.アダミックはエスニック・アメリカの象徴であり、「多様性による統一」の提唱者である。その視線は、人種・民族的差別や偏見を受ける者、弱者、アウトサイダー、異人、変人、異端者、外国人、境界人、移民、棄民、マイノリィティ、少数民族.に非常にあたたかく、その権利を守るために闘った。

2000年NY市で催された「自由の女神コンサート」。http://bit.ly/aCnCNR
*Statue of Liberty(自由の女神像) American Dream: Andrea Bocelli's Statue of Liberty Concert

《移民の声》と題するエリス島のパフォーマンスで、アダミックの移民の自伝的小説 『ジャングルの中の笑い』の一節が、一世移民たちによって3度にわたって朗読された。同じ移民の体験者として彼らにはアダミックの言葉が、一語一語が身に沁みたにちがいない。

*Statue of Liberty(自由の女神像) American Dream: Andrea Bocelli's Statue of Liberty Concert  http://bit.ly/d4e3VK  1991年、ニューヨーク市で開かれたニューヨーク芸術祭に

いつだったかアメリカのニュージャージー州ミルフォードのある人からメールが届いた。アダミックが住んでいた家に今住んでいると。ルーズベルト夫妻やチャーチル首相がよく訪ねていたそうで大変名誉だと。

The Native's Returnが1930年代のベストセラーであったことを知ったのも、アダミック研究者C教授の"Louis Adamic: A Checklist"を取り寄せて読んでからである。共感できる人たちが海外にいたことが一番嬉しい。今ならインターネットがあって便利だけど。すべてはゼロからだ。

*当時日本ではアダミックに関する資料は全くなかった。百科事典や人名事典に何行か載っている程度。国会図書館へ出かけたり、いろんな人に訊ねたがさっぱりだった。アメリカへ行って初めてその作家の国際会議・シンポジウムが開かれていたのを知って吃驚した。

*第二次世界大戦中、アダミックは、アメリカで初めてチトーのパルチザンを強力に支援する一方、スロヴェニア系アメリカ人民族会議(SANS)の名誉ある代表として、スロヴェニア民族解放闘争遂行するためにアメリカ当局とルーズベルト大統領の間をとりなした。

「自伝」では「南スラブ人国家統一運動」の学生デモに参加して、オーストリア兵に射殺されたのが友人としているが、実際はRudolf Lunderと親戚の少年Ivan Adamicがいた。アダミックは拘留されそして退学。二度と正式の教育を受けることはなかった。14歳。血気盛んだな。

地球規模で進展するボーダレス希求、多種多様な価値観の発見、世界の多様性を追求したスロヴェニア出身の著名なアメリカ移民作家を通して時代を読む、民族、国境、時代を越えて心に響く作品集(翻訳書)! http://bit.ly/9aem77
Louis Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック3 http://immigrantebook.blogspot.com/ あとで時代・内容順にまとめることにしよう。

アダミックは晩年、歴史の最前線にいた。もしかしたら世界を、東西の冷戦構造を、自分が変えることができるかもしれないと夢想した。その中で必死にもがき、苦しみ、苦闘した。無論実現できなかったが、これが一人間として、非常に価値のあることだと私は思う。

それにアダミックの晩年を特に研究をされているスロヴェニアのジトニック女史は、その国際会議にはまだ参加していない。冷戦とアダミックの関係などまだまだほんのスタートしたばかりだ。

1981年に、アダミック没後30周年を記念して国際 会議・シンポジウムがアメリカとスロヴェニアで開かれ 一応の評価も出たが、その後ユーゴの民族紛争が起きたり、スロヴェニアの独立があったり、EUが誕生した。アダミックの先見性を改めて思い知るにいたる。

当時の関係者からすれば以外かもしれない。例えばアメリカの百年間の暴力物語、階級闘争史『ダイナマイト』を出しているが、その前書きで、私は何の組織にも組合にも属していない、だから客観的な立場で書いている、ただ現実に起きているこの「事実」だけは直視してほしい、アメリカの将来のためにと

アダミックは、あの1930-40年代の政治の季節に、社会党や共産党、AFLやIWWなどの左翼的な労働組織に全く属していない。ほとんど自ら組織し自らリーダーとして引っ張っていくか、もしくは一個人として、全くフリーの立場で、さまざまな活動に参加している。非常に興味深い。

☆ブログ アメリカ移民の自叙伝(電子書籍)-「ジャングルの中の笑い」弱肉強食化した1920年代のアメリカは、まさにバブル後の日本と同じ状況を映し出している。移民たち一人ひとりの血と汗で築いた国アメリカ。彼らの夢と挫折を通して、約束の土地http://bit.ly/cgxp8I

「恐らく貴下は、アメリカ合衆国のユーゴスラヴィアに対する官僚的な振舞いに困惑しておられるでしょう。私は手紙では、このわれわれの広大な、民主的な国土の複雑さを、そしてその素晴らしい長所とともに、その欠点と邪悪さとを、どうしても説明することができないのです。」

「南スラブ系アメリカ人統一委員会」の代表に任命され、その機関誌「ブルティン」を自ら編集し刊行した。そして1943年に『わが祖国』を出版した。その10月、アダミックはユーゴスラヴィア人民解放委員会が自分に「統一勲章」を与えたことを知ったとき、チトー元帥に次のような手紙を送った。

☆第二次大戦下、アダミックはアメリカと世界に必要だと考えていた様々な活動に膨大なエネルギーを消耗させた。アメリカの戦争努力とともに、チトー率いるユーゴ・パルチザンをアメリカで初めて支持した。南スラブ系アメリカ人の最大のロビーとなった新しく創設された

を登場させている。恐らくその中で、彼の理想とした、国家的な多様性による統一が、国際的な多様性による統一が、さらには「世界政府」や「真の国際連合」のようなものが語られたかもしれない。

20世紀前半世紀の物語。アダミックは『ミカエル・ノバクの教育』の前金をすでに 出版社から受けている。その主人公にスロベニアから1880年代に移民して成功した、産業界の大立者を設定しているのが私には興味深い。今一人は国際的な「中立」の道を行くべき(例えばチトーのような)

このなかで東西冷戦を回避させ、〈世界を変える〉物語が語られたかもしれない。しかし彼は、死の原因ともなった最後の本『鷲とルーツ』も目にすることはなかった。1952年、死後9ヶ月後に出版された。 そして他に未出版の多くの原稿が残されていた。

アダミックが10年間の構想を練り、いよいよ執筆にとりかかろうとしていた小説のタイトルが『ミカエル・ノバクの教育』。『ヘンリー・アダムズの教育』の作品をモデルにするつもりだった。アメリカ移民の半世紀の壮大なドラマ...

dispense with such violence as has been described in this book."DYNAMITE-The Story of Class Violence in America 1830-1934. rev. ed. 1931,34

organize their revolutionary spirit into force - into unions with revolutionary aims to power. Then they will be able to afford to

"In fine, the American working class will be violent until the workers become revolutionary in their minds and motives and

The Native's Return 1934は、大恐慌下にもかかわらずベストセラーとなり、40年代まで続いた。アメリカが「移民の国」であることを、アメリカ人たちが再認識したことにもなったといえる。

I guess my financial worries are over for a while, anyhow. Suddenly I feel very calm...
In one month some fifty thousand copies will be distributed.... S. terribly happy....

December 16.―Last night I learned The N.R. is the Book-of-the-Month selection for February!

Louis Adamic *1933 December 4.―S. and I have very little money-and I owe〔various people〕neary twelve hundred dollares! ...

blogにアップしました。Adamic on Twitter ツイッターでアダミック 1 http://bit.ly/9TwoOs
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アダミック関係だけブログとHPにUPします。 -------- Wanted sp ads Suponsabana http://www.synapse.ne.jp/saitani/ http://immigrantebook.blogspot.com/

16才の編集助手として、朝九時に新聞を刷る準備のために、午前四時に机につかなければならなかった。その時刻には、マンハッタンのビジネス街は真っ暗で、人気はなかった。摩天楼は、ところどころ一つの窓だけに明かりが点っていて、昼間のマンハッタンよりももっと神秘的で美しく、気分がよかった。

アダミックは14、5才でニューヨークのスロヴェニア語系新聞社「グラース・ナローダ」で働いている。最初は新聞配達や雑用だが、その後取材記事を書いたり、国際的なニュースを翻訳したりしている。いわば職人である。

止めなければならないことを知るでしょうし、〈感じる〉でしょう。そして、一つの目標に向かって、各自の理想に向かって、更には自ら真に願う世界と、またそういう世界を創りたいと思う方向に、心を向けなければならないことを知るでしょうし、感じるでしょう。」

1936年のアダミック講演から。「私は教育というものが、量的なものでなく、質的な、価値ある人間を創造していくべきだと懇願してやみません。...人は、ヒューマニズムを死滅させはしまいかと恐れて、お互い、如何に闘うか、といった策謀にエネルギーの大半を費やすことを

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移民としての過去が傍観者的な好奇心と生き生きとした民主的友愛主義を与えることになった、ルイス・アダミックなる作家の印象記録の大作『私のアメリカ』のなかでは、アメリカは不思議な、しかし本質的には「進展―長い果てしない」を示す希望の国としてその姿を示している。」『現代アメリカ文学史』

評論家アルフレッド・ケイジンはこう書いている。「東はメイン州のポーランドから西はオレゴンまで、北はデトロイトから南はメキシコ湾まで、またニューヨークからハリウッドまで、アメリカには見るすべての人々にとって、そのそれぞれの型がある。


電子書籍販売サイト:制限時間2分、立ち読み可(無料)大手出版社も採用しているT-Time形式 ダウンロード版「ルイス・アダミック作品集」ebook、オンライン読書、ルビ、本、図書館、日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書。
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Wednesday, May 05, 2010

Louis Adamic on Twitter ツイッターでL アダミック3

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最後にこう記す。"I want America to remain America." "I want America eventually to become a work of art."(p662) アダミックにとって信じられるアメリカは1937年までだった。

ルイス・アダミックの『私のアメリカ 1928-1938』は、1931年以来アメリカをおよそ地球の2周半(10万マイル)旅して記録した大作である。その最終章は"The Next War" and Fascism, and America"となり、

of the Old World. I was two world ...America and Slovenia." - "My America 1928-38" by Louis Adamic

"By coming to theUnited States and becoming an American writer, I had jumped the boundaries and restrictions,

*これが、いはばアダミックの国際的な評価、研究の始まりである。ただこの時は、ユーゴ民族紛争はまだ起きていなかった。なので、ある意味では、興味深い記録となる。

多数の参会者があり、アダミックの実弟フランツ・アダミッチ博士によるアダミック家についての詳細な報告後、39名の研究者による研究論文が発表され、主として、アダミックの文学的手法とその影響力について、アメリカに対するアダミックの視点、アダミックとユーゴとの関係などが活発に討議された。

スタノニック教授とクリスチャン教授によるアダミックの生涯および研究の概観と報告があり、その後二十二名の研究者による論文が発表され、主にアダミックの思想と行動に焦点を当てて討議された。リュブリャーナ市においても同様、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、

His Life, Work, and Legacy」-を組んだ。米国セントポール市とスロヴェニアのリュブリャーナ市で国際会議・シンポジウムが開かれた。セントポール市ではユーゴからの公式代表団を含むカナダ、アメリカ各地から約百五十名の参会者を迎え、

米ニュージャージーでC教授に会って初めて、没後30 年を記念してアダミックの国際会議・シンポジウムが祖国スロベニアとアメリカで開かれていたのを知った。アメリカのミネソタ大学移民歴史研究所は季刊誌SPECTRUMで特集-「Louis Adamic(1898-1951):

オルガ伯母でさえ、その話に夢中になっていた。「そりゃねおめでたいことだね。さっそく見に行かなくちゃ。」「なにしろ、ブランコボでは初めての双子なんだから...。」The Native's Return 1934 by Louis Adamic

美しい日だった。 墓地からの帰り途、人々は朗らかだった。。話題もぐるっと転じて、ヤンス伯父とはまったく関係のないものが多かった。特に女たちが話しているのは、昨夜、村で生まれた双子のことでもちきりだった。

これでもう、伯父は「自分の土に還った」のだった。

ヤンス伯父が死んで二日目に、遺体は黒く塗られた松の木の棺におさめられた。その棺は、伯父がこの日ために数年前に、みずから森へ出かけ切り出した一本の木を挽いて準備していたものだった。棺のなかの頭の下には、自分の畑から持ってきた一握りの土が詰められていた。

もし、そんなことが可能になれば、ここの農民たちと同じような死を持てるだろうけど。」

アメリカが巨大なスロベニアになるなんてことは...。僕にしても、妖精みたいなものの存在はどうしても信じられないしね。 / もっと、考えを変えて、一つの巨大な国家が環境とうまく平和にやっていくためには、別な方法があるかもしれないがね。

「...一九三二年という時代を考えれば、たしかに君のいうように、アメリカでは死神はギャングだね、まったく! アメリカ人が周囲の環境とうまくやっていけず、人生は連続するものといった健全で良識ある考えを持たないかぎり、死神はギャングであり続けるだろう。ともかく、もう遅すぎるよ。

削除 鎮魂のメロディーに聞こえるのだった。これが死だった。これが人生だった。―― 生.....死.....生 ―― /私は、自分が生きていることを強く実感しながら、はじめて、恐れや、憎しみや、偽りから解放された虚勢のない死について考え、感じたのである。」『わが祖国ユーゴ...』

「スロベニアにある全ての教会はカトリックであるが、近くからあるいは遠くから重なり合って鳴り渡ってくるそれらの音を聴いていると、特別な宗教とか、決められた教義などはどうでもいい、生きとし生けるものに共通の、

A Writer's Memoir of The Thirties" by Albert Halper 1970

though he himself was an an inept story teller who always ruined the punch line." - "Good-bye, Union SquareUnion Square

five years older than I, he sometimes talked to me in a fatherly manner....He had a hearty explosive laugh and and loved to listen to jokes,

Tall and lanky, Adamic somewhat resembled Henry Honda, even moving with an awkward grace similar to the movie star's. Because he was five

"Adamic was an interesing and complicated man, with genuine literary ability and great personal dignity.

この二つは、愛する国土に対する、彼らの誇りの証であった。」1934年 "The Native's Return " (邦題『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』1990年)

「いつの時代でも、スロベニア人たちは二つのことだけを願ってきた。まず第一に、この土地が彼ら自身の完全な所有物であること。第二に、自主独立の地位-つまり、言語(それはセルボ・クロアチア語に似ている)と文化の独自性-を、保障することであった。

Before Internment: "Unity Within Diversity"Louis Adamic and Japanese Americans 日系アメリカ人歴史研究における第一人者 Prof.Yuji Ichioka http://bit.ly/cTVcWS


国家の政治体制、時代によっても批評はいろいろ変わる。客観的な正統な評価できるようになるまでには、アダミックの場合は結局、4,50年の歳月を要した。

アダミックには敵も味方も多かった。アダミックが命を狙われたのは1932年と1949年に二度帰郷した後だ。1930年代アメリカのローストジェネレーションの作家たちと違い、アダミックは常に祖国を意識しなければならなかった。二つの祖国で作品を出版するたびに批評が真っ二つに割れる。


龍馬の本格的な評伝が明治29年(1893年)に出版されている。そうそうあのNHK放映の秋山兄弟も載っていない。これはわかるが-。歴史はなかなか面白い。
May 1st

幕末の志士の写真はほとんど全て載っている。いわゆる正統派の古書なのだろうが、説明書きにも竜馬の名は見当たらない。印刷が大正元年、発行が大正2年で、ネット検索のものと比べ頁数がかなり多い。やはり、大正あたりまでは龍馬はまだ一般には全く知られていなかったようだ。前にも書いた

☆アダミックはいわば龍馬の国際版といってよいだろう。☆わが家の本棚に半世紀ほど鎮座している古書『日本歴史写真帖』(編集発行者秋吉善太郎)は、幕末から明治維新、日清日露戦争までを扱っているが、不思議なことに龍馬の写真はない。


A we passed him he reached the end of a furrow. He glanced up and waved....I had an enormous lump in my throat. "The Native's Return"LAdamic

There was a great dignity in his task. Why couldn't the world be organized to permit him to plow and produce in peace all his life?

as our train sped Trieste-ward, we saw apesant plowing.He looked like my brother Stan, tall, husky, bent over the plow-handles.

There was s touch of spring in the air. The birds were flying back from the south. Carniola looked very lovely,...Near the track,

of the 50,000-strong American" military presence. http://nyti.ms/cKd4nD

to reorient Japan toward Asia. His party's campaign manifesto calls for an "equal partnership" with the United States and a "reconsidering"

The New York Times -Times Topics "He has spoken of the end of American-dominated globalization and of the need



そしてそれに関する詳細なメモをエレノア夫人に渡した。またルーズベルト大統領は、その本を英国のチャーチル首相に読むように勧めたらしい。

アダミックはエレノア・ルーズヘルトと助手に自分の考えを推進するために、前もってTwo-Way Passage(1942)『二つの道』を送り、その中で提案したプロジェクトについて、ルーズベルト夫妻から招待を受けたホワイトハウスの晩餐の際に議論させるつもだった。

アダミックは大恐慌下の1930年代ニューディーラーであり、政府の外国情報行動局(FLIS)の行政委員の地位にあり、ルーズベルト大統領のアドバイザーであった。エレノア・ルーズベルト夫人は作家アダミックのファンでもあった。

Two-Way Passage(1942)は、故郷がナチドイツに占領された時、アダミックは凄まじい情熱を傾けて僅か数ヶ月で書き上げた作品だ。故郷の家族に対する思いが彼をそうさせている。


more satisfying than anything humanity has as yet devised or experienced. 1940 Louis Adamic

☆"The future, ours and the world's,is in unity within diversity."...we have a chance to create a universal, a pan-human culture,

to help America become great and terrible," "Dung," I thought to myself. A BOUHUNK WOMEN by Louis Adamic

"...Life was too cruel here.America is big and terrible...America must become great....We all came over from the Old Country



詳細はブログとHPに掲載。英語のリプリント版は削除されている。

thus perceive how it happened that we have contributed so much to the greatness of the United States...."

(with the rest of the Balkans and eastern Europe) in the international situation - should appreciate the intrinsic worth of its people and

I love Yugoslavia and I think Americans should be interested in it - should try to understand its problems and its importance

"...I love America. I think that, with Russia, she will be the most important factor in the future of the world and mankind....

and but for Professor Pupin's inventions, our telephony would be less efficient.

Tens of millions of electrical horsepower are generated in the United States by the Tesla motors every year;

Pupin are Yugoslavs. Their inventions doubtless are the most important factors in the modern life of the United States. Tens

"We have contributed to America's greatness not only with our brawn, but with our brains as well: our genius. Nikola Tesla and Michael

*アダミックは1937年(スターリンの粛清が始まった年)に、The Native's Return(1934)の最後の約10頁の削除を出版社に命じている。邦訳も著者に従いカット、その削除された部分から一部引用してみる。ニューヨーク港に着く前に妻のステーラにこう語る。

そしてアメリカと同様に、様々な民族宗教文化が入り交 ざった多民族国家ユーゴスラヴィアの重要性をはっきりと 認識するようにもなる。この旅で発見した祖国の貴重な体 験が、晩年彼が命がけで関わった、東西冷戦下の外交問題 のきっかけになっていることは確かである。

☆アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが 「移民の国」であることがよく理解できるようになる。ま た、出版と同時にアメリカの読者の大きな反響がそのことを物語ってもいる 。

突然 、彼は腰をあげ、こちらに顔を向けると、白い歯をむいて 大きく手を振った。/ 私は喉のあたりにぐっとこみ上げ てくるのを感じた。」

汽車の 窓から、畑を耕す一人の農夫の姿が見えた。背が高くがっ しりした体格で、弟のスタンのようだった。彼は鋤の取っ 手を握り、ゆるぎない威厳に輝いて土にひたすら取り組ん でいた。 彼の一生は幸せに平和にやっていけるだろうか......。

The Native's Return (1934)はここで終わっている。邦訳も原文(1937年以降)も。 「大気には春の肌触りがあった。小鳥たちはふたたび南から帰ってきた。カルニオーラには昨年の五月に見たよりも黒ずんだ感じであるが、とても美しく見えた。

1930年代大恐慌下の全米ベストセラー作品を読む!! バルカンの火薬庫 ユーゴスラヴィアのすべて!日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書。http://bit.ly/cTLVRc 電子書籍 オンライン読書、ルビ、電子本、東欧、ebook
Apr 29th 


Adamic's cosmopolitan spirit was damped by the Cold War. 東西冷戦の終焉は、八九年東欧革命、ベルリンの壁の崩壊、九一年のソ連解体で完成された。

I had come to experience America, to explore the great jungle, to adventure in understanding--and here I was."Laughing in the Jungle" 1932

the world. Diversity itself is the pattern, is the stuff and color of the fabric. -- "A Nation of Nations" 1945 by Louis Adamic

is English....The Pattern of America is all of a piece ; it is a blend of cultures from many lands, woven of threads from many corners of

and hordes of "foreigners." The second is this: that the pattern of the United States is not essentially Anglo-Saxon though her language

Anglo-Saxson civilization struggling to preserve iself against infiltration and adulteration by other civilizations brought here by Negroes

The are two ways of looking at our history. One is this: that the United States is an Anglo-Saxon country with a white Protestant

街の店に飾られたチトーの写真は傾いていた。通りのパルチザンの戦功もボロボロになっていた。小学生たちは学校の新聞でこんなことを書いてるよ、とユーゴ政府批判を無邪気に語る。しかし私が長年抱いていた西ヨーロッパにはない、バルカン半島の慎ましやかな、のどかな風景がそこかしこにあった。

80年代、スロヴェニア共和国(旧ユーゴ)の首都に着いた時の印象。リュブリャーナ駅は薄暗く、トイレには日本の昔の銭湯のように入口に女性の番台が座っていた。駅は軍人と刑事のような異常に眼光鋭い男たちが目につく。ホテルでも酒場でもそうだった。街の店に飾られたチトーの写真は傾いていた。

その目的は「啓蒙」にあった。内容は彼が関わったあらゆる内外の政治、人種民族問題、第二次世界大戦、外交、国際問題...。読者はアダミックからすべてを学び終えたとき、と同時に資金難となって廃刊した。「...自己を燃焼させたい」と書いていたように、たたかいの記録である。

1940-50年の約10年間、アダミックは季刊誌、月刊誌など個人の定期刊行物を出していたが、読者に何度が「非営利」であることをその中で語った。その目的は「啓蒙」にあった。

移民たちには、はるか異国から祖国よりも、故郷を想う気持ちのほうが強い。国家は人工的なものだが、ふるさとは自然で本能的なものなのだろう。たとえ石をもて追われた啄木としても

『孫たち』-スロヴェニア系アメリカ移民の孫たちを「この美しいアメリカの大地にすばやく過ぎ去る影」と表現した。1935年の段階ですでに移民三世の問題を論じている。

☆ブログ ☆アメリカ移民の自叙伝(電子ブック)-「ジャングルの中の笑い」、http://american-immigrant-slovenia-liberty.blogspot.com/

弱肉強食化した1920年代のアメリカは、まさにバブル後の日本と同じ状況を映し出している。 移民たち一人ひとりの血と汗で築いた国アメリカ。彼らの夢と挫折を通して、「約束の土地」アメリカの行く末を模索する移民文学の傑作..。そして新しい価値の発見の書。『ジャングルの中の笑い』

アダミックは、1947年のインド独立にも関心を払っていたのだ。そしてインドは、ゆくゆく第三世界、非同盟諸国の強力なのメンバーとなる。私は個人的に世界でも大好きな国の一つだ。
遺著となった『鷲とルーツ』から。アメリカではマッカーシズム吹き荒れ、祖国ユーゴはコミンフォルムからの追放...ベルリン封鎖、朝鮮動乱、そして東西冷戦への時代に、アダミックは一作家として「自由に、正直に」書き遺した。

--in English. I'm in no shape to go into all that. Tito's smile was half a scowl.  "I think I like this man," I thought.

Especially in a period like this.1949 Especially freedom and honesty together. There are various definitions of each. But to hell with it!"

"Freedom--honesty," I said; "there's almost nothing more difficult for writers to achieve and practice than that. In America, too.

コスモポリタン・マインド The Cosmopolitan Mind of Louis Adamic by Prof.dr.Ales Debeljak (Slovenia) http://www.synapse.ne.jp/saitani/cosmopolitan.htm

英文はこちら Celebrate Tesla's achievements on Earth - Tribute to the great American http://www.nikolatesla.hr/news.aspx?newsID=126&pageID=14

YouTube http://immigrantebook.blogspot.com/2009_02_01_archive.html
アダミックの渾身の追悼文に彼の思想が凝縮されてもいる。 

それは1943年1月10日に、イタリア系移民のこれまた著名なニューヨーク市長Mr. Fiorello La Guardiaによって、ラジオで朗読された。このテープは、Tesla Memorial Society of New Yorkの長年の大変な努力によって発見された。

Nikola Tesla。いわずと知れた20世紀アメリカの天才科学者である。同じユーゴ系アメリカとして、アダミックはニコラ・テスラの友人であった。ニコラの亡くなる二日前、彼の甥子を伴って、ニューヨークの粗末なアパートに訪れている。そしてアダミックは次のような追悼文を書いた。

生誕100年を記念して祖国スロヴェニアで切手となったルイス・アダミック。 Znamenite osebnosti - Louis Adami? http://bit.ly/aUNh78

Louis Adamic Memorial room http://www.slovenia.info/?muzej=6375

MY NATIVE LAND (1943) by Louis Adamic - " I am not born for one corner ; the whole world is my native land " SENECA THE STOIC

"Who Built America? Profiteers, Professionals Patriots or "Vile Immigrants" Common Sense,Ⅲ (1934)  by Louis Adamic

だが、親友の死が彼の巨体を動かした。飛行機を乗り継ぎヨーロッパへ。ナップザックにチョコレートを詰め込み、アドリア海を渡る。チトー政権下のユーゴスラビアを目指して。『ザ・ブラック・マウンテン』ネロ・ウルフ著 翻訳: 西貝マリ Pb: しゅえっと(Chouette)

蘭と美食とビールをこよなく愛するネロ・ウルフは、ドアの外へ一歩も出ずに事件を解決するニューヨークの名探偵。どんなに金を積まれても動かないウルフ。

REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies. アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。英米の探偵小説界では、超一流の作家としてきわめて評価が高い。

・ニューズウィーク誌は「連邦検察は自殺と断定したが、ユーゴから弟が再調査を依頼、その結果、米連邦検察は自殺を撤回し不明とした。」/・さまざまな脅迫、そして何者かによる殴打の暴行も受けていた。

/・遺体はすでに冷たく硬くなっていた。・死後数年たって、友人から借りていた$12000余りの金が廃墟となった家から発見された。なぜ死ぬ前に戻さなかったのか?.../・ニューヨークタイムズ紙は「アダミックは殺害されていたが、検視官は自殺と断定した」。

アダミックの死の様々な疑問点。 ・果して引き金を引いてライフル銃を抱えた状態に戻すことができるか。/・銃弾の角度からして自分で引き金を引くことは無理。/・石油缶からは指紋は全く検出されなかった。/・最初に発見した消防士らは火災の状況から自殺を不審がる。/

アダミックは、1952年9月4日、ニュージャージー州ミルフォードの農場の自宅、二階の書斎で死体で発見された。ライフル銃を抱えた状態でベッドに横たわり、銃弾は頭部から腿に貫通していた。自宅は石油がばらまか れ、発見されたときは炎に包まれていた。ガレージはす でに焼け落ちていた。

スロベニアの研究者ジトニック女史Dr.Zitnikは、アダミックの遺著となった最後の作品『鷲とルーツ』の「編集」の後を克明にに辿り分析した結果、何者かによる「殺害」と断定している。編集者は何を削除し何を削除していないのか、全ては遺された著作が雄弁に語っている。あとで紹介しよう。

☆「アダミックの謎の死」アダミックと同じローストジェネレーション世代で同年 生まれ*のヘミングウェイは、1961年に猟銃自殺して いる。アダミックのちょうど十年後である。*アダミック は生前1899年の生まれで通していた。しかしアダミックの死は今も依然不明のままである。

☆1940年代のアダミックの思想の核は、人種民族の 偏見差別との闘い、アメリカの「多様性による統一」、 祖国の民主的なユーゴスラビアを含むヨーロッパ連邦、 究極的な世界の「多様性による統一」、そして「真の国際連合」の創造であった。

一部、右からも左からも酷評されたが、当時、エール、ハーバートなど80校ほどの大学で教材として使用された。さらにリプリントされ、各国語に翻訳され、最近ではアメリカで文庫本にも収められ読み継がれている。アメリカで初めてのノーベル賞を獲得したばかりのシンクレア・ルイスは「絶賛」した。

☆"Dynamite:The Story of Class Violence in America(1830-1930)" 1931,revised 34 この『ダイナマイト-アメリカ階級の暴力物語』、アメリカ百年間の階級闘争物語はアダミックの処女作。

The Greenwood Encyclopedia of Multiethnic American Literature: A - C 著者: Emmanuel Sampath Nelson 他に同様にアダミック研究者によるH.A.Christianのものがある。

これまでの百科事典に掲載されているアダミック項目は殆どが不正確なもので内容も今ひとつであったが、これは同郷のアダミック研究者による新しいものなので正確。 ADAMIC LOUIS(1898-1951) by Janja Zitnik編 

☆ブログ ☆日系二世の電子書籍-Best Nikkei Nisei Ebook by Noted Immigrant Writer 二つの祖国を持つ日系アメリカ人二世の苦悩 日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書 http://bit.ly/b3ebYU

1930年代大恐慌下の全米ベストセラー作品を読む!! バルカンの火薬庫 ユーゴスラヴィアのすべて!日本図書館協会選定図書、全国学校図書館選定図書。 http://bit.ly/cTLVRc
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影響を受けたからです。アダミックは「A Nation Of Nations」(1945)を書き、それがJohn F. Kennedy"A Nation of Immmigrants"へ繋がれていきます。そしてアダミックの1930s-40sの「自由」求める苦闘が公民権運動へと。

アダミックはアメリカを「移民の国」とみていたが、それは米国の国民詩人Walt Whitmanの著書 Leaves of Grace(1855)の前書き:"Here is not merely a nation but a teeming nation of nations" に

culture by Genevieve Fabre, Robert G. O'Meally

who were generally detained only on the grounds of individual affiliations or political acts)." History and memory in African-American

the rights as citizens and property owners and interned in detention camps-as a RACE (unlike German or Italian enemy aliens,

exactly at the time that Adamic popularized the reinterpretation of the immigrants as new Puritans, stripped of

"Among immigrant groups proper, American citizens of Japanese descent who lived in the western part of the United States were,

そして他の権利を奪われたマイノリィティ・グループを、「Americans All」として「共通の立場Common Grouns」で擁護していった。

1930-40年代、アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人たちを、アメリカ独立の礎ともなったメイフラワー号でやってきた「新しいピューリタン/新清教徒」と解釈するアダミックの発想の自由さ。彼らを、

その作品の最後にこう記す。「いつの日私はアメリカを芸術作品にしたい」と。1930年代の世界恐慌下のアメリカを、彼ほど方々を旅し多くの人に会った作家はいなかった!

スロヴェニア系アメリカ移民のアメリカへの思い。1928年、アダミックにとってアメリカは「誰も知らない国」であった。しかし、地球を二週半を旅し、さまざまな経験からアダミックは実感として体で知った「私のアメリカ 1928-1938」。

to make his fictional detective Nero Wolfe a native of Montenegro, in what was then Yugoslavia.

According to John McAleer's Edgar Award-winning Rex Stout: A Biography (1977), it was the influence of Adamic that led Rex Stout

REX STOUT アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。英米の探偵小説界では、超一流の作家としてきわめて評価が高く、現在でも非常に人気のある作家、それに比べれば日本では未訳の作品も多く、不遇の作家の一人。

REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies.

アダミックの優秀な研究者や関係者、そして私を支援してきた人たちも次々に亡くなったが、しかし新しくまた研究者も誕生している。 何が彼の評価を遅らせてきたのかも少しずつわかってきた。

が、現在の評価は、前にも書いたように、竜馬でいえば、龍馬歿後30年の明治二十九年に出版された「阪本龍馬」の段階あたりであろう。しかし、時代のスピードは速い。

時代を見る先見性、幅広い行動力、凄まじい情熱、リベラルで柔軟な思想、なかなか一筋縄ではいかない複雑だが、いろんな面で魅力的な人間性...からして、何となく坂本龍馬の国際版のような感じが私にはする。

1940年代のほうが、米国内だけでなく、国際的にもはるかに重要だったことに気づいたのだ。アダミックの作品は殆どが「自伝的」なタッチで描かれている。作品自体よりもむしろ彼の生涯のほうが興味深い。また政治、歴史、文化、文学、そして国際的な関係において面白い。そして重要だ。

"the American public certainly never grasped Adamic to its national bosom after 1940."(Henry) 私もそうだった。アダミックは1930年代が彼の一番活躍した重要な時代だと思っていた。ところが

アダミックは日本でいえば中学程度しか出ていないが、じつによく学んでいる。観察力、凄い読書量、そしてつねに自分を高めようと向上心が旺盛だ。だからイデオロギーにしろ何にしろ 既成の思考にとらわれない自由な発想、米国のプラグマティックな精神を持っている。本質的に自由人だな。

*アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。

to go to Russia first, but---"とある。そして本文入る前頁の余白に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for.--"Laurence Sterne

☆アダミックは生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。1932年に、また1948年にも、あらゆる努力を試みたがビザを取ることができなかった。アダミックの最後の本『鷲とそのルーツ』の一章見出しに、"really wanted


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そしてクリスチャン教授は「アダミックを大目に見るつもりはないが、彼は依然として私の好奇心と知識しばしば満足させる」と。しかしクリスチャン教授は、アダミックの故国スロヴェニアが、「文化の多様性の保護と促進を基本原則とする」EUに加盟するのをついに目にすることはなかった。

それはアダミックの故国スロヴェニアが、恐らくクロアチアが、そして恐らくユーゴスラヴィア全体がそれに加入を希望、もしくは加入が必要、あるいは加入しなければならない?を溶け込ませているように思える」と。

貨幣、郵便制度、貿易および交通体系などが統一されるであろう...〉等等、とアダミック氏は示唆した。」 このニューヨークタイムズの「等等 and so on」は、-クリスチャン教授はこう付け加えている-「1992年の計画された非共産主義の新ヨーロッパについての記述に私には思える。

ニューヨークタイムズ紙は次のように報じた 。「作家ルイス・アダミックは、ヨーロッパの復興について 彼の考えを表しながら、こう提案した。〈一つの大陸的なヨ ーロッパ政府の連邦部分に組み込まれるために...この土地に 20余りの臨時政府が組織され... 

〈以下Prof.Christianから引用〉アダミックは1941年11月8日、ニューヨーク市Hotel Pierreで New York Branch of the American Association of University Women の600人の会員を前に講演した。



しかしルーズべルトはアングロサクソンのチャーチルを選択、アメリカとの関係を築いていく。そしてそれが結局は冷戦へ突入していくことになる。これがアダミックの計り知れない苦悩とストレスとしてのしかかり、そして死の要因ともなった。

1947-51年のアダミック最後の苦闘。アダミックは国際平和のためにスラブのチトーを取り込みアメリカとの関係を築こうと苦闘した。のちの非同盟中立を選択した祖国ユーゴスラヴィアを。(その発芽はこの帰郷作品The Native's Returnにみられる。)


詩人は結んだ。「さあ、グラスを飲みほそう!」グラスは飲みほされ、そうしてみんなして歌いはじめるのだった。

とくに私の父と母に感謝の言葉を述べ、ふたたび村の周囲にひろがる草原や自然の素晴らしさにまで言及した。そして最後に、私のそばに歩み寄って、アメリカへ旅立ったころからこのたびの帰郷に至るまでの物語を語ってくれた。私にはもはや返す言葉はなく、感激の涙を押さえきれなかった。

「...歌声がやむと、詩人の一人がグラスを片手に立ち上がった。私たちはみな黙して詩人の口元に注視した。詩人はこの麗しい午後のひとときを、山から吹いてくるそよ風や満開の林檎の木を、料理を、そしてグラスのなかのワインを、表現豊かに謳い上げ、さらにはブラト村と村人たち、

震える皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして笑って、「お前、やっと帰ってきたな」と言った。 さらに妹たちが待っていた。...」  / そして、一流の詩人や著名な作家たちを招いて、「放蕩息子」アダミックの帰郷の、ささやかな祝宴が催される。

一九一二年に別れを告げたと「同じ中庭の同じ場所に立っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、身体も縮み、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だがその抱擁は昔と変わらずしっかりと強かった。..父も白髪が進み、身体も縮んではいたが、

アダミックの生家の壁に彫られたレリーフにこうある。直訳すると、「ここから世界へ旅立った 我等が忘れがたきルイス・アダミック/人民の権利のための闘いに、勇敢に偉大に、自らの務めを果たした」14才で単身アメリカへ移住、そして19年ぶりに「作家」となって帰郷する。そこで待っていたのは

いつか余裕ができたら、電子書籍を読むだけでなく聴くものにして画像やビデオを入れ臨場感を出したい、とずーと思ってきた。特に旅行記は。最後はこうなるのだが、これって誰かが書いていたが、ニュースをすべて個人で発信するのと結局は同じことか。全ての分野に共通することかもしれない。写真家も。

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1930 年代のバルカン半島の緊迫した政治・経済・文化状況を、その歴史や人々の生活―衣食住・民話・叙事詩・闘いなど―を通してあますところなく描き、50 年後の今日、ヨーロッパとバルカン諸国で起こっている「歴史的事件」の発生を鋭く予告した、すぐれたルポルタ―ジュ文学の傑作。

私は次第に、この国が恐ろしい力によって支配され、人々を虐げていることに気づいた。そしてイタリアにムッソリーニが、ドイツにヒトラーが登場しつつあった!

1932年、私は妻とともに 19 年ぶりに故郷スロヴェニアに帰った。アドリア海のブルー、やさしい春の風、旧き良きフォークロアの数々、なつかしい母の姿……。しかしその後、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、モンテネグロ、南セルビア、クロアチアと転々と旅して回るうち、


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of a free World State." -The New Palestine,November28,1942- Louis Adamic

a free Croatia, and a free Serbia in a free Balkan or southeast-European confederation in a free United Europe, which is part of

of a world organized upon the basis of an intense consciousness of all people's interdependence and also for a free Slovenia,

「A Free World State」"… I am for a free Jewish homeland in Palestine which is not anything exclusive and separate but a part of

アダミックは旧ユーゴの最も危機的な時代のスポークスマンであったし、彼ほど海外から祖国に貢献した人物はいなかったが、戦後なぜかピタリと黙して語られていなかった。HPに書いたように私の長年の疑問である。しかし少しずつその原因が分かりかけてきた。真実は、いや歴史事実を明らかにせねば!

アダミックと祖国ユーゴスラビア・スロヴェニアとの国家的関係を大まかに辿ってみたが、彼の先見性と、大局を捉えるジャーナリストとしての第一級のセンスを私は感じる。

☆「私はまた、自由な世界政府の一部である、自由なヨーロッパ連邦の、自由なバルカン連合あるいは南東欧連合の、自由なスロヴェニア、自由なクロアチア、自由なセルビアに賛成である。」  1940年代、アダミックの「世界の多様性による統一」は最終的には、「真の国際連合」の創造にあった。

☆1942年にアダミックはこう語っている。「私は、完全に排他的でも、完全に分離されたものでもない、あらゆる人間の強烈な独立意識を根底においた世界の一部でもある、パレスティナの自由なユダヤ人の国土に賛成である。

「世界政府シャドーキャビネット」を準備すべきときではないだろうか。ひょっとすると、唯一の被爆国、日本は政治や環境、文化などの面でそのリーダーシップをとれるチャンスがあるのでは、と夢想したりするのだが...。

*「世界の多様性の統一」-しかしそのフレームワークは、思いの外、早く実現するかもしれない。いまや世界はインターネットによる情報高速化時代を迎えている。そろそろ国連は、世界各国の有識者もしくは大学の研究機関と協同して、「世界の多様性による統一」のための

それは実現できたが、しかし世界の「多様性による統一」は、現状では見果てぬ夢となっている。"The future, ours and the world's, is in unity within diversity." Louis Adamic

⑧「世界の多様性の統一」アダミックは193、40年代アメリカの「多様性による統一」の最大の推進者であり、エスニック研究のパイオニアであった。Adamic is the pioneer spirit of ethnic studies in the United States 。

⑦2004年 EU(欧州連合)誕生。1941年11月8日アダミックはニューヨークでその詳細 を講演。アダミックのプロジェクトの一部「アメリカ復興使節団」としてヨーロッパ連邦を提言。郵便、貨幣、統一などEUに類似。スロヴェニアは2007年1月にEUに加盟。東欧諸国その他が続く。

⑥1991年にスロヴェニア独立宣言。  The native's Return 1934(邦訳タイトル『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』)で、「いつの日か...」と予見されている。
Apr 9th webから

削除 さらに500頁を超える引用、関連文、注など。*国際的にも冷戦をスタートさせる戦後史の最も重要な時期であり、アダミックがいかにそれに関わったか詳細は後で書く 。

⑤1948年-1951年1949年1月、17年ぶりに二度目の帰郷をし、新政権のトップの指導者らと政治、経済、歴史、文化について討議した新ユーゴスラヴィアのドキュメント。最後の本『鷲とそのルーツ』(1952年 死後出版)、未出版『激震の中のチェスゲーム』、

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。

To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉会長となる。

「"Ed.Liberation. Death to Fascism! Liberty to the People! Picture Story of the Yugoslav People's Epic Struggle Against the Enemy-
Apr 9th webから

④第二次世界大戦下。1941年-1945年 故郷がナチドイツに占領されると、戦局の悪化とともに、ファシストと闘うパルチザンをアメリカで初めて支持。ユーゴスラヴィア系アメリカ人統一委員会議長に選出され、同委員会の機関誌「ブルティン」を自ら編集し創刊する。

*Two-Way Passage 1941 の中で詳細に述べられている。ユーゴ、南東欧、欧州に対しての声明文は、民主主義体制に基づいた各民族の対等とか、市民権とか、自由、平和、人権、正義などに配慮されたもので、ユーゴ系移民の将来のために米国民の前でその「保障」の公言を求めている。

③1941年「新ユーゴスラヴィア」建国樹立のメンバー、Frano Petrinovic, Stoyan Pribichevich, Nicholas Mirkovich, Vaso Trivanovichに加わり、民主的な新しい国家案をロンドン亡命政府、ペータル国王のもとへ送付。

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。だが一方では、メディアやユーゴスラヴィア系アメリカ人から「コミュニスト」とレッテルを貼られ、さんざん叩かれる。アダミックが著書で主張していたものは、実に民主的なものであったが。

To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉会長となる。


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