Friday, July 16, 2010

ルイス・アダミック雑録⑤- Louis Adamic on Twitter

ルイス・アダミック雑録-Louis Adamic on Twitter
アダミックと祖国との国家的関係・A Free World State・アメリカ文化に貢献・進歩党・マッカーシズム・東西冷戦・アダミックと「非同盟」思想・アダミックの謎の死・REX STOUT 等
①アダミック雑録 ②アダミック雑録 ③アダミック雑録 ④アダミック雑録 ⑤アダミック雑録

更新中

Louis Adamic (1898-1951)
作家・ジャーナリスト


アダミックと祖国ユーゴスラヴィア・スロヴェニアとの国家的関係
を大まかに辿ってみると、

①大戦前、1908年11月、オーストリア帝国主義に反対する革命的「南スラブ国家独立運動」の学生デモに参加し、逮捕拘留され、ギムナジウムを退学される。14才で単身アメリカへ移住。この一連の運動は第一次世界大戦を起こしたサラエヴゥ事件につながっている。

②1932年に19年ぶりの帰郷。The native's Return 1934、Struggle 1934 を出版 し、ユーゴ独裁政権崩壊へ導く。アレクサンダル独裁国王は仏マルセイユで暗殺され、独裁政権崩壊、王子はロンドンへ亡命。
*To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-アダミック編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)の名誉会長となる。

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。だが一方では、メディアやユーゴスラヴィア系アメリカ人から「コミュニスト」とレッテルを貼られ、さんざん叩かれる。アダミックが著書で主張していたものは、実に民主的なものであったが。

③1941年「新ユーゴスラヴィア」建国樹立のメンバー、Frano Petrinovic, Stoyan Pribichevich, Nicholas Mirkovich, Vaso Trivanovichに加わり、民主的な新しい国家案をロンドン亡命政府、ペータル国王のもとへ送付。
*Two-Way Passage 1941 の中で詳細に述べられている。ユーゴ、南東欧、欧州に対しての声明文は、民主主義体制に基づいた各民族の平等、市民権とか、自由、平和、人権、正義などに配慮されたもので、ユーゴ系移民の将来のために米国民の前でその「保障」の公言を求めている。

④第二次世界大戦下。1941年-1945年 故郷スロヴェニアがナチドイツに占領されると、戦局の悪化とともに、ファシストと闘うパルチザンをアメリカで初めて支持。ユーゴスラヴィア系アメリカ人統一委員会議長に選出され、同委員会の機関誌「ブルティン」を自ら編集し創刊する。「"Ed.Liberation. Death to Fascism! Liberty to the People! Picture Story of the Yugoslav People's Epic Struggle Against the Enemy-To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放―ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉ある代表として、スロヴェニア民族解放闘争遂行するためにアメリカ当局とルーズベルト大統領の間をとりなす。My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与される。

⑤1948年-1951年1949年1月、17年ぶりに二度目の帰郷をし、新政権のトップの指導者らと政治、経済、歴史、文化について討議した新ユーゴスラヴィアのドキュメント。最後の本『鷲とそのルーツ』(1952年 死後出版)、未出版『激震の中のチェスゲーム』さらに500頁を超える引用、関連文、注など。*国際的にも冷戦をスタートさせる戦後史の最も重要な時期であり、アダミックがいかにそれに関わったか詳細は後で 。

⑥1991年6月にスロヴェニア独立宣言。The native's Return 1934(邦訳タイトル『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』)で、「いつの日か...」と予見されている。

⑦2004年 EU(欧州連合)誕生。1941年11月8日アダミックはニューヨークでその詳細 を講演。アダミックのプロジェクトの一部「アメリカ復興使節団」としてヨーロッパ連邦を提言。郵便、貨幣、統一などEUに類似。スロヴェニアは2007年1月にEUに加盟。東欧諸国その他が続く。

⑧「世界の多様性の統一」アダミックは1930、40年代アメリカの「多様性による統一」の最大の推進者であり、エスニック研究のパイオニアであった。"Adamic is the pioneer spirit of ethnic studies in the United States "(H.A.Christian)。それは実現にこぎつけることができたが、しかし世界の「多様性による統一」は、見果てぬ夢となって残った。 "The future, ours and the world's, is in unity within diversity."

1942年にアダミックはこう語っている。
「私は、完全に排他的でも、完全に分離されたものでもない、あらゆる人間の強烈な独立意識を根底においた世界の一部でもある、パレスティナの自由なユダヤ人の国土に賛成である。「私はまた、自由な世界政府の一部である、自由なヨーロッパ連邦の、自由なバルカン連合あるいは南東欧連合の、自由なスロヴェニア、自由なクロアチア、自由なセルビアに賛成である。」  1940年代、アダミックの「世界の多様性による統一」は最終的には、「真の国際連合」の創造にあった。

A Free World State
"… I am for a free Jewish homeland in Palestine which is not anything exclusive and separate but a part of of a world organized upon the basis of an intense consciousness of all people's interdependence and also for a free Slovenia, a free Croatia, and a free Serbia in a free Balkan or southeast-European confederation in a free United Europe, which is part of .of a free World State."-The New Palestine,November28,1942- Louis Adamic

アダミックは旧ユーゴの最も危機的な時代のスポークスマンであったし、彼ほど海外から祖国に貢献した人物はいなかった。もし第二次大戦中に、アダミックがチトー率いるパルチザン支持を、米政府ルーズベトに(ということはチャーチルに)説得できなかったとしたら、戦後の「非同盟諸国」も「第三世界」も存在しなかったかもしれない。

*「世界の多様性の統一」-しかしそのフレームワークは、思いの外、早く実現するかもしれない。いまや世界はインターネットによる情報高速化時代を迎えている。そろそろ国連は、世界各国の有識者もしくは大学の研究機関と協同して、「世界の多様性による統一」のための「世界政府シャドーキャビネット」を準備すべきときではないだろうか。ひょっとすると、唯一の被爆国、日本は政治や環境、文化などの面でそのリーダーシップをとれるチャンスがあるのでは、と夢想したりするのだが...。

○アダミックがかかわり遂行させた、祖国のユーゴ独裁国王政権打倒から民族解放、そしてチトーの新ユーゴ政権樹立まで、およそ10年余(1933-43)の歳月を要している。

○マイノリティたちが夢に見たエスニック・アメリカの権利回復とアメリカ合衆国の「多様性による統一」まで10年(1932-42)の歳月を要している。そしてその文化の多様性と民族グループの誇りの社会運動が現実に花開くまでに、さらに2、30年の歳月を要している。

○アダミックが「アメリカ復興使節団」のプロジェクト-ヨーロッパ復興について、1941年11月にニューヨーク市で後援してからおよそ半世紀余り。アダミックが思い描いたような国境のない欧州連合(EU)が実現。http://bit.ly/9tvYVe

☆アメリカ移民の象徴である「自由の女神」が来年10月から安全対策工事のために1年ほど閉鎖する。1930~40年代、Lアダミックほど「自由の女神」のその価値を米国民に普及させた人物はいなかった。彼が成し遂げたこと、成し遂げようとしたそのスケール。「肖像画」を掲げよとメールしておく。


アメリカ文化に貢献
アダミックがFルーズベルト政権下の「海外広報行動局(FLIS)」「アメリカ統一共同評議会」の行政委員として働いていたのは1934-44年まで。1940年にその局のトップの監督責任者となる。アダミックほど適任の人物はいなかった。彼自らリーダーシップを発揮してさまざまなプロジェクトを企画し、アメリカの文化の規範となった「多様性による統一」を強力に推進していくことになる。

*アダミックが1938年に提案していたプロジェクト「エスニック・グループ百科事典について、1980年にハーバード大学陣が完成させた。大戦中アダミックは祖国のチトーのパルチザンを支援で基金が打切られ、国内政治や国際的な問題にかかわることになり、そのプロジェクトを完成させることができなかった。詳細は以下のサイトで読めます。
Harvard encyclopedia of American ethnic groups 著者: Stephan Thernstrom

Louis Adamic and the Contemporary Search for Roots" Rudolph Vecoli (University of Minesota アメリカ移民史研究所所長) Ethnic Studies 2(1978)

"Once American history and society are viewed from a pluralistic perspective, inequities, abuses, and repressions spring into focus. The new ethnicity is not simply a form of therapy to soothe bruised ethnic egoes. Rather the formation is a new historical consciousness, as in the case of Black Americans, is the very basis for concerted group action to correct traditional neglects and injuries. The new ethnicity, therefore, leads to the realization of a more fully democratic society committed to a pluralism of equality among groups as well as individuals. And that, I believe, was the essense of Louis Adamic's new conception of America."

"In 1973,the Congress of the United States enacted the Ethnic Heritage Studies Bill, a historic measure which for the first time committed the federal goverment to the principle of pluralism rather than assimilation. The Ethnic Heritage Studies Programme provides grants to school systems and other institutions for the development of curriculum materials and the training of teachers. After only four years, this Programme has had a substantial impact upon what is taught in many schools about American history and culture.(Rudolph Vecoli)E PLURIBUS UNM: Louis Adamic And The Meaning Of Ethnic History by Robert F. Harney (President of the Canadian Ethnic studies Association)

"The editors of the Harvard Encyclopedia of American Ethnic Groups end their ingenuous description of the Nation of Nations Project by citing Adamic's wistful opinion that his Project would be done somehow. They coclude: "the job has been one somehow. If they really believe that they have done the job Adamic the historian and public philosopher set out to do, the renovation of America's of herself, then they are as blind to his true purpose as are the new ethnicity's partisans." Journal of Etnic Studies 14:1(1986)

◇J.B.Lippincott Companyは1943年に「The People of America」シリーズ9巻を刊行することになり、アダミックはその編集主幹となる。合衆国のあらゆる民族(エスニック)・人種グループのルーツや起源を引き出し、正統なアメリカ文化構築へ向けてのもの」だった。しかしアダミックは1947年に以下の前書きを書いただけだった。「オランダからのアメリカ人」」(1947)「ハンガリーからのアメリカ人」「日本からのアメリカ人」(1948)。その他の巻は「わが英国の遺産」(1949)や「彼らは最初にやって来た-アメリカインディアンの叙事詩」」(1949)「メキシコ以北-スペイン語を話す合衆国人」」(1949)「スウェーデンからのアメリカ人」」(1950)「ノルウェーからのアメリカ人」(1950)そして「彼らは鎖で繋がれてやって来た-アフリカからのアメリカ人」(1950)等があった。

*第二次大戦の真っ只中、ルーズベルトにインパクトを与えたアダミックの戦後ヨーロッパ復興プロジェクトについて論議された。もしかしたら1941年1月19日、Fルーズベルト大統領夫妻が用意したホワイトハウスでのアダミック・チャーチル会談が、戦後「冷戦構造」のターニングポイントだったのかもしれない...。それとも移民のヒーローであるアダミックを、ルーズベルトとチャーチルは戦争のためにアメリカ統一のダシに使ったのか。もしアダミックの多文化思想によるプロジェクトがヨーロッパ復興に取り入れられていたなら、戦後の冷戦構造はどうなっていただろう。英米の協力による戦後の戦争世界は一変していたはず、なぜルーズベルトはチャーチルを説得できなかったのだろう。非常に興味深い。やはりアングロサクソンによる英米同盟ということがあったのだろうか。二人にはアダミックの思想は受け入れ難い危険なものだった 。

マッカーシズム
あの赤狩りで「共産主義者」として告発された映画関係者はチャップリン、ウィリアム・テイラーをはじめ数百人にのぼる。チャップリンは「殺人狂時代」を映画化しアメリカを去った。ヘンリー・フォンダやハンフリー・ボガート、グレゴリー・ペック、フランク・シナトラ、ジュティーガランド、キャサリン・ヘプバーン ... などが反対運動を起こした。アダミックはすでに1947年の早くから非米活動調査委員会により嫌疑をかけられていたが、その反証をどの新聞雑誌にも掲載できなかった。当時アダミックは「正統マルクス主義者」の敵としてみなされてもいた。

*アダミックは1931年から年一冊の割でコンスタントに本やパンフレットを出版し、さまざまな雑誌や新聞等に「洪水」のごとく寄稿していたが、それが1947年から死ぬ1951年までは一冊の本も出していない。新聞雑誌等への寄稿も数える程度である。ただ自分の定期刊行物に掲載しているだけである。1948年、アダミックは彼自身のジャーナルT&T: Trends & Tides、に「アメリカのレジスタンス運動の先頭に立つ」“spearheading an American resistance movement”としてマッカーシズムに対し、徹底抗戦をこころみる。

◆進歩党
そしてアダミックは1948年の大統領選挙に出馬したヘンリーA・ウォーレスの進歩党綱領委員会の委員に任命される。その勝敗はすでにわかっていたが、Progressive Partyは黒人参政権や国民皆保険などを掲げていて今でも興味深い。
*アダミックもニューディーラーであり、進歩党綱領を一週間夜を徹して書いたと言っている。外交面や人種などの点でアダミックの何らかの影響が見られるかもしれない。バルカンや多国間外交や国連主導...。アダミックは1932年~50年間にロシアへの入国ビザを何度も申請したが、生涯一度も認可されなかった。もしアダミックが民族主義的なスターリンのロシアに入国していたら、その後の世界は一体どうなっていたのだろう。 そして1946年には「鉄のカーテンを引いた」チャーチルからは文書誹謗の廉で訴えられる。
*「異端の副大統領ヘンリー・A・ウォーレス─ ポスト冷戦時代の視点から─」安藤次男。

*FBIやCIAなど諜報組織の監視下にあったアダミックの政治活動。
"Adamic’s politics, firmly on the left, were always contraversial. His membership during the 1930s and 1940s in a multitude of“Popular Front”organizations, with known Communist membership and sympathies, brought him under the surveillance of the FBI and other intelligence agencies. "
Immigration History Research Center, College of Liberal Arts, University of Minnesota
http://www.ihrc.umn.edu/research/vitrage/all/aa/ihrc95.html
(冷戦下の状況において、アダミックは個人として、国際政治のまさに最前線、真っ只中にいたわけだ。彼には世界の動きがすべてよく見えていた。米国政権中枢部からのトップ情報、左翼の米国代表からのトップ情報、ソ連から追放されたユーゴからのトップ情報を入手できた。CIAからの誘いも蹴る。)

アダミックと「非同盟」
*ユーゴがソ連から除名された1948年当時、アダミックをよく知り、ユーゴについてさまざまな議論をする機会のあった、元駐米ユーゴ大使YOZA VILFAN の証言は重要だ。1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムでこう語る。「アダミックはユーゴがソ連から除名されたことをむしろ積極的、好意的に捉えていた。そしてその分裂を、米ソ超大国に従属しないレジスタンスの先触れとして、《非同盟》政策となるものの始まりものして見るアダミックの先見性」を信じた、としている。
"...at the 1981 Minesota Adamic Symposium I heard the late Joza Vilfan good for Yugoslavia. In the last forty years it has been important and necessary to understand Adamic's significance to the New Yugoslavia." Prof H.A.Christian  *Joza Vilfan 元駐米ユーゴスラヴィア大使

*アダミックはユーゴについてすでに、米ソ超大国に従属しない「非同盟」政策の、明確な自主独立路線の考えを持っていたわけだ。アダミックは1949年1月にユーゴへ旅立つ。そして新政権まもない時期に、チトーをはじめ政権トップのあらゆる大臣閣僚と、ユーゴ・ソ連問題などさまざまな国際問題について討議をする。6ヶ月の滞在で彼ほど時間をかけて新国ユーゴスラヴィアをつぶさに目撃し、旅し、多くの討議を重ねた者はいなかった。そして『鷲とルーツ』と『激震の中のチェスゲーム』の二冊の本を書き上げる。しかし彼はその出版をついに目にすることはなかった。

◇1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムの冊子に、ビフランの証言についてこう載っている。An exception to Adamic's general discouragement was his view -shocking to Vilfan at the time - that Yugoslavia's break with the Soviet Union in 1948 was decisive, even positive, Vilfan credited Adamic's foresight in seeing the split "as a harbinger of the resistance against subordination to superpowers, "as the beginnings of what became "the non-aligned policy."

"Adamic's pessimism for a future in which the "two superpowers driven by their internal logic toward domination... did not understand the urge and the determination of undeveloped countries to be independent and to utilize their natural resources for their own development."

*東西冷戦が始まる1948年当時である。米ソは軍拡競争へ、そして1992年 ついにソ連の経済は破綻し崩壊、冷戦は終結する。

☆アダミックは生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。1932年と1948年に、あらゆる努力を試みたがビザを取ることができなかった。アダミックの最後の本『鷲とそのルーツ』の一章見出しに、"really wanted to go to Russia first, but---"と。そして本文入る前頁の余白に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for.--"Laurence Stern

*アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。
"Freedom--honesty," I said; "there's almost nothing more difficult for writers to achieve and practice than that. In America , too. Especially in a period like this.1949 Especially freedom and honesty together. There are various definitions of each. But to hell with it!" - in English. I'm in no shape to go into all that. Tito's smile was half a scowl.  "I think I like this man," I thought.

アダミックは1947年のインド独立にも関心を払っていたようだ。インドは、ゆくゆく第三世界、非同盟諸国の強力なのメンバーとなる。

遺著となった『鷲とルーツ』から。アメリカではマッカーシズム吹き荒れ、祖国ユーゴはコミンフォルムからの追放...ベルリン封鎖、朝鮮動乱、そして東西冷戦への時代に、アダミックは一作家として「自由に、正直に」書き遺した。
"Freedom--honesty," I said; "there's almost nothing more difficult for writers to achieve and practice than that. In America, too. Especially in a period like this.1949 Especially freedom and honesty together. There are various definitions of each. But to hell with it!"-in English. I'm in no shape to go into all that. Tito's smile was half a scowl.  "I think I like this man," I thought.

もしアダミックの1948-51年間の外交努力が実現していたら、戦後世界はどのようになっていただろう。1945年のアメリカの広島・長崎原爆投下により、世界がすでに核時代に入ったことをアダミックはきっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造で はなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索し ていた。しかし「鉄のカーテン」が引かれ、世界は東西のイデオロギーの対決により、軍拡競争、軍事ビジネスへまっしぐらに進むようになる。1947年1月アダミックは、ニュージャージー州オレンジのユニタリアン教会で次のように講演する。
「Whether or not we can avoid World War Ⅲ, I don't know; but I feel that if we don't at least try to avoid it, nothing else is worth doing.  If we don't try to avoid it, it is vain to wonder about the kind of curtains you will hang up in the spring. ...  before the Committee on Un-American Activities....」The Eagle and the Roots

これが記されている『鷲とそのルーツ』はアダミックの死の九ヶ月後、1952年に出版された。
その中の大部分は、Marshal Tito, Vladimir Dedijer, Edvard Kardellj, Boris Kidric, Milovan Djiasその他、政治、経済、文化の代表者らとアダミックとのさまざまな討議の要約である。
ユーゴスラビア-ソビエト危機を背景に、討議は一方は、マルキストによるイデオロギーの立場から、他方は、政治的独立の見解に立つアメリカ作家、という形で闘われた。(Zitnik)

☆アダミックが、国家も、人種も、宗教も、イデオロギーも超えて、命尽きるまで闘った1947-1951年は、戦後世界史のターニングポイントでもあったようにみえる。
☆アダミックの死の原因ともなったといわれる『鷲とそのルーツ』だが、編集者が三分の一削除したと書いているそのタイプ原稿もまだ見つかっていない。ユーゴ政府による明らかな検閲。「チトーの役割」や最も肝心の論争が削除され、その原稿もまだ行方知れず。Zitnikの論文から読み解いてみる。

アダミックにとって、生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。あらゆる努力を試みたが、ビザを取ることができなかった。アダミックの遺著『鷲とそのルーツ』の一章の見出しに、"I really wanted to go to Russia first, but-”とある。本文入る前頁に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for." --Laurence Sterne 《A Sentimental Journey》 とある。

*長い歴史からすれば60年余はほんの一瞬にすぎないが、東西冷戦によってもらされた人類、地球環境その他に対する莫大な損失、殺戮、無駄...は計り知れない。歴史の無駄なのか


*アダミックは1941年にルーズベルト大統領、チャーチル首相とホワイトハウスでの会談を回想した著書「Dinner at the White House」(1946年)の中でこう述べている。
 「(構造的に、また影響力のある人たちの思想慣習において幾らか変革した形の)アメリカ資本主義と (将来の展望において幾らか変革した形の)ソビエト社会主義は、双方の最高の相を包含しながら、一つの類似の生き方に達するまで、長い期間共存できるはずである。両国は、思想感情の別な型の、より良き理解を必要としている。」と。そしてもし国際的に「アメリカにとって"中立"の道がないとすれば、われわれの内部にさえ存在しないのである。」
 「いわゆる正統派マルクス主義者は、階級対階級、すなわち、資本主義に対し社会主義、帝国主義に対し世界革命が正しいと認めるだろう。国の内外でわれわれは、左右の原則の下に、物事の決着がつくまで闘争を強いられるだろう。」
 そして、その闘争は、「引き続き起こるかもしれない全体的な破壊の悪党役を演じるアメリカの原子爆弾でもって、ただ第三次世界大戦に導くのみである。」と述べた。
 アダミックは、「ユーゴ(その一党支配の不完全さを許容しつつも)が戦後世界の二大勢力間の理解の架け橋になることができる」と信じていた。アメリカは多様性による世界統一のために導きはじめるだろうし、ユーゴはそれを発展させる機会と援助を与えられる...と。しかし、トルーマンドクトリン、マーシャルプラン...と次々と冷戦構造が確立され、米ソが超大国化へ進むに従いアダミックは次第に希望を失っていった。

*Adamic's cosmopolitan spirit was damped by the Cold War. 東西冷戦の終焉は、八九年東欧革命、ベルリンの壁の崩壊、九一年のソ連解体で完成される。

スロヴェニア独立とアダミック

妻ステーラからルイス・アダミックへの手紙Jan.14’1949
 Henry Wallace「世界連邦」「世界政府」への道-米ソの共存があって.. World Federation or World Government Movement http://bit.ly/9Vw0GF

1946年、アダミックは世界がすでにイデオロギー対立でなく核の時代」に入ったことをはっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造でなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索していた。1941年にスタートさせた戦後ヨーロッパ復興プロジェクト  「アメリカ復興使節団」、アメリカ大統領選に出馬した進歩党ヘンリー・ウォーレス支援、アメリカとともに世界を主導させようとユーゴに働きかける...等もそうであった。しかしアダミックの思いに反し、米ソはますます超大国化し、イデオロギー闘争と軍拡競争へと突き進むことになる。

そして1989年ベルリンの壁崩壊、1992年ソ連崩壊により東西冷戦が終結。目下、世界の「多様性による統一」への道の途上にあるといえる。

1947年から時代がガラリと変わる、冷戦が本格始動。1930年の出世作『ダイナマイト』から1946年の『ホワイトハウスの晩餐』まで、アダミックはほとんど毎年のように本を出版していたが、47年から51年の死ぬまで一冊の本も出版していない。というより出版出来なかった。

雑誌新聞にもほとんど掲載できなかった。そしてその年まで一度も米政府と衝突したことはなかった。しかし「私は、物事の真実を捉え、物事を理解しようと努力する探求者である」「...何かために、何かをするために自己を燃焼させたい」とかつて記したように、混沌とした国際政治へ身を投じていく。

◆「アダミックと進歩党」Progressive Party
アダミックは1948年に黒人参政権や国民皆保険などを掲げて大統領選に出馬したヘンリー・A・ウォレスの進歩党の「綱領委員」のメンバーだった。因みに国民皆保険はオバマが実現させた。
(In 1948, Adamic served as a member of the platform committee at the Progressive Party Convention and was one of the five authors of “Peace, Freedom and Abundance: The Platform of the Progressive Party.”)
「米国進歩党綱領草案」の準備には総数70名余の人が携わったが、アダミックは草案起草者の5人のメンバーの1人に任命され、ほとんど最終稿をチェックする立場にあった。執筆にもっとも苦労したのは、「democratic」なことについてだった、とアダミック。
フィラデルフィアで4日間缶詰になり、日夜80人ほどの報道陣に監視され、2日間は一歩も外に出れず、また謄写版印刷室はだれも入れぬようにガードされ、そして1948年7月24日の土曜日の朝に完成された。最終的に草案のタイトルは「Peace, Freedom and Abundance: The Platform of the Progressive Party,1948, New York: Progressive Party,1948」となって発表された。
さらにそれは、Mir Svoboda in Izobilje, Chicago: Slovenian American National Council-Slovenian American for Wallaceスロヴェニア語に翻訳され、新聞にMir Svoboda I Obiljeのタイトルで掲載された。以上Prof.HCの著書から抄訳。


◆《東西冷戦》
*ユーゴがソ連から除名された1948年当時、アダミックをよく知り、ユーゴについてさまざまな議論をする機会のあった、元駐米ユーゴ大使YOZA VILFAN の証言は重要だ。1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムでこう語る。
「アダミックはユーゴがソ連から除名されたことをむしろ積極的、好意的に捉えていた。そしてその分裂を、米ソ超大国に従属しないレジスタンスの先触れとして、《非同盟》政策となるものの始まりものして見るアダミックの先見性」を信じた、としている。
*アダミックはユーゴについてすでに、米ソ超大国に従属しない「非同盟」政策の、明確な自主独立路線の考えを持っていたわけだ。

*アダミックは1949年1月にユーゴへ旅立つ。そして新政権まもない時期に、チトーをはじめ政権トップのあらゆる閣僚大臣と、ユーゴ・ソ連問題などさまざまな国際問題について討議をする。6ヶ月の滞在で、彼ほど時間をかけて新しく誕生した国ユーゴスラヴィアをつぶさに目撃し、旅し、多くの討議を重ねた者はいなかった。そして『鷲とルーツ』と『激震の中のチェスゲーム』の二冊の本を書き上げる。しかし彼はその出版をついに目にすることはなかった。

◇1946年 チャーチル「鉄のカーテン」演説。5年前ホワイトハウスでチャーチル、ルーズベルトと会談したときのアダミック回想録『ホワイトハウスの晩餐』を出版。その年の暮れ、ギリシアに関する記述でチャーチルに「文書誹謗」の廉で訴えられる。◇1947年1月ロンドンで敗訴。

 3月トルーマンドクトリン。6月共産圏を封じ込め政策、マーシャルプラン発表。10月コミンフォルム設置。 ◇1948年4月ソ連、ベルリンを封鎖。西側諸国、西ベルリンへの大空輸を開始。6月ユーゴ、コミンフォルムから追放、米国大統領選挙-アダミックは進歩党ヘンリーA・ウォーレス支援。

◇1949年4月NATO調印。10月 中華人民共和国成立。ソ連が原爆実験に成功。◇1950年2月マッカーシズム。6月 朝鮮戦争勃発。
◇1951年9月4日アダミックの死体で発見される。(死因は今も不明) ◇1952年5月『鷲とルーツ』出版/スロヴェニアでは20年後に翻訳出版されるが、ユーゴでは40年後まで発禁となる。



◆1949年1月から50年9月までのアダミックの行動範囲祖国ユーゴを再訪。

 1949年1月12日、アメリカからチェコのプラハへ、そしてプラハからユーゴ政府の手配した専用機でベオグラード空港に到着する。空港にはおびただしい人の数、盛大な歓迎を受ける。
 1932年にグッゲンハイム研究生として帰郷したときにも小説『暗黒の草原』を書くつもりであったが、軍事独裁政権下の緊急な祖国の情況を目撃してThe Native's Returnを書かざるを得なかった。そして今回も、10年間構想しすでに出版社から前金を受けていた小説『ミカエル・ノバクの教育』を書くつもりであったが、到着するなり新しく誕生したチトー率いるユーゴスラヴィアについての『鷲とルーツ』を書くことを決意する。8ヶ月余りユーゴに滞在。1934年と同様に今回もセルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ...全土を旅し、新しく誕生したユーゴ政府を記録して回る。

 6月末から7月半ばまでフランスに滞在、そしてイタリアへ。

 8月にアメリカ帰国、ニュージャージー州ミルフォードの自宅に戻る。異常な情熱で執筆にとりかかる、ユーゴ新政府がアダミックの本のために24人の助手らよって集めさせた資料の量は400ポンド(180キロ)に上る。ところがアダミックはほとんどそれを使用していない。500余りの引用/索引は自ら集めた資料と記録したものである。そして最初の原稿は1950年春までに完成する。

 しかし、突然自宅へ4人のエージェントが車で乗りつけ、本を出版するなら「命の保証はない」と脅迫うける。さらに右からも左からもさまざまな脅迫をうける。

 ミルフォードの自宅は危険だと判断して、車で妻の病気療養していたカリフォルニアへ向かう。10年ほど前に、地球2周半に及ぶ距離を旅し肌で知った「私のアメリカ」-しかしこれが最後の旅となる。

 ロサンゼル近くのマンハッタンビーチに家を借り潜伏。日夜、数時間仮眠して執筆にとりかかる。深夜、散歩中にいきなり二人の男から暴行をうける。またも脅迫。
十年間自ら刊行し続けた季刊誌、月間誌も、資金難のためにすでに停止していた。
一方、戦時中にチトーのパルチザンを支持したために、あの最も価値のある「エスニック百科辞典」のプロジェクトに対するカキーネギー財団による助成金も止められた。新聞雑誌などにはほとんど掲載できない。マッカーシー旋風のなか、ロサンゼルスタイムズ紙はアダミックを「悪名高いアカ...」と67回も叩いた。そんななか、ようやく新しい原稿が完成。

 6月、再び出版社と最終的な打ち合わせのためにニューヨーク市に戻る。身の安全のためニュージャージー州ミルフォードの自宅へは戻らなかった。しかし、たまたま加筆した原稿を秘書に渡すために自宅へ向かった1951年9月4日、遺体で発見される。ベッドにライフル銃を抱えた状態で、すでに頭部から太ももにかけて銃弾が貫通していた。何もかも不思議なことだらけだ。資料の散乱する家には、火がつけられ、すでにガレー ジは焼け落ちていた。炎の中でアダミックは発見されている。

 最初の原稿に関心を持っていたダブルデイ社の編集者は、なぜか「タイミング悪く」リタイヤしている。出版は、アダミックの死後9ヶ月たってから、妻のステーラとダブルデイ社のティモニー・セルデスに編集による。しかし「前書き」で三分の一を削除したというが、そのタイプ原稿が発見されたのはずーと後になってだった。そして更なる原稿が発見される。もちろん、ユーゴでは半世紀発禁書だ。不審な点は沢山あるが、アダミック研究者Dr.Janja Zitnikは、「ユーゴ政府の検閲が入ったことは確かだ」と結論づけている。そして中心部分のタイプ原稿もまだ不明。

◆『鷲とルーツ』の二つの祖国の書評-Dr.Zitnik
 他の同時代の作家たちと違い、アダミックの言動、執筆活動は、常に二つの祖国の「監視」下にあった点で非常にユニークだ。Dr.Zitnikの論文から引用。アダミックの遺著『鷲とルーツ』の書評は、相反する反応をもたらした。アメリカでは、アメリカの国内政治に対し不当に批判をしたこと、
 ユーゴに対しては主観的、理想的な状況の表わした、ということで大部 分拒絶された。一方ユーゴでは、アメリカ状況に対する批判が欠如している ことと、ユーゴの政治生活において受け容れがたい批判を行った、というこ とで完全に無視された。
 今日、『鷲とルーツ』(1952)が出版されて四十年以上経つ が、アメリカとスロヴェニアのアダミック研究者たちの判定は、この作家の 見解に、かなり接近してきている。文芸作品の真の重要性は、時間の経過での み評価されることができる。」


*「未出版のまま残された最も長い章『激震の中のチェスゲーム』A Game of Chess in an Earthquakeは書籍としても十分な長さであるが、しかし肝心な中心的テーマが欠落している。」とアダミック研究者Prof.Dr.Janja Zitnik は論文で指摘している。

「非同盟政策を採用した当時のチトーの国際的な役割は、『鷲とそのルーツ』の中では依然として論じられないままである。またその作品の中で論じられていた幾つかの重要な問題、つまり東欧社会主義のインパクトについても、或いはユーゴスラヴィアのような産業的後進国に対して西洋が経済的に援助する必要があるといったことなどについても同様だ。」と。 そして最後に Dr.Zitnikは、最も肝心なテーマがユーゴ政府の検閲により削除されたのではないかと結論づけている。

*そして政府が集めさせ準備させた資料類は膨大な量にのぼる。新生ユーゴ政府にとってアダミックへの期待がいかに大きかったかを物語ってもいる。それらをアメリカに持ち帰って、アダミックは「異常なまでの情熱」で本の執筆にとりかかる。しかし、「面白い」のは、アダミックはその資料を全くといっていいほど使用しなかったこと。使用したのは、アメリカで自分が集めた資料と、実際に自分の目で見、聞き、訊ねて取材した記録と、自分の記憶だけである。「情報」の価値を充分知り尽くしている、アダミックらしいところだ。


◆「アダミックの謎の死」
▽アダミックは、1952年9月4日午前四時、ニュージャージー州ミルフォード (Riegelsville, N.J.)の農家の自宅、二階の書斎で死体で発見された。ライフル銃を抱えた状態でベッドに横たわり、銃弾は頭部から腿に貫通していた。資料が散乱するなか書斎にはすでに石油がまかれ、発見されたときは炎に包まれていた。ガレージはすでに焼け落ちていた(その映像がネットに公開されている)。タイプライターに遺されていた最後の言葉は「Now is the time」。

▽例えば、同じ第一次世界大戦に従軍したローストジェネレーション世代で同年生まれ*のヘミングウェイは、1961年に猟銃自殺している。アダミックのちょうど十年後である。*アダミック は生前1899年の生まれで通していた。しかしアダミックの死は今も依然不明のままである。

▽スロヴェニアのアダミック研究者ジトニック女史Dr.Zitnikは、アダミックの遺著となった最後の作品『鷲とルーツ』の「編集」の後を克明に辿り分析した結果、何者かによる「殺害」と断定している。編集者は何を削除し何を削除していないのか、全ては遺された著作から解明している。

最初の原稿に関心を持っていたダブルデイの編集者は「タイミング悪く」リタイヤしている。妻のステーラとダブルデイ社のティモニー・セルデスに編集によって、アダミックの死後9ヶ月たって出版される。。勿論、ユーゴでは半世紀の間発禁書だ。しかし三分の一を削除したというが、そのタイプ原稿はずーと後になって発見された。そして更なるもう一冊分に相当する原稿が発見される。不審な点は沢山あるが、Dr.Zitnikは「ユーゴ政府の検閲が入ったことは確かだ」と結論づけている。

アダミックは、1952年9月4日、ニュージャージー州ミルフォードの農場の自宅、二階の書斎で死体で発見された。ライフル銃を抱えた状態でベッドに横たわり、銃弾は頭部から腿に貫通していた。自宅は石油がばらまかれ、発見されたときは炎に包まれていた。ガレージはすでに焼け落ちていた。アダミックは1930~40年代FBIその他アメリカ諜報関係の監視下にあったが、公開されているFBIファイルを読むと、アダミックのミステリアスな死についてやはり、「自殺」でなく海外の何らかのエイジェントによる「暗殺」ではないかと疑っている。

さまざまな疑問点
・果して、引き金を引いて後ライフル銃を抱えた状態に戻すことができるだろうか。
・ライフル銃の引き金から指紋は検出されなかった。
・銃弾の角度からして自分で引き金を引くことは無理。
・石油缶からは指紋は全く検出されなかった。
・最初に発見した消防士らは火災の状況から自殺を不審がる。
・遺体はすでに冷たく硬くなっていたという報道もある。
・死後数年たって、友人から借りていた$12000余りの金が廃墟となった家から発見された。なぜ死ぬ前に返さなかったのか?...
・ニューヨークタイムズ紙は「アダミックは殺害されていたが、検視官は自殺と断定した」。
・ニューズウィーク誌は「連邦検察は自殺と断定したが、ユーゴから弟が再調査を依頼、その結果、米連邦検察は自殺を撤回し不明とした。」
・アダミック夫人は再調査を依頼しなかった。
・さまざまな脅迫、そして何者かによる殴打の暴行も実際に受けていた。

◆REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies.
アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。英米の探偵小説界では、超一流の作家としてきわめて評価が高く、現在でも非常に人気のある作家、それに比べれば日本では未訳の作品も多く、不遇の作家の一人。
蘭と美食とビールをこよなく愛するネロ・ウルフは、ドアの外へ一歩も出ずに事件を解決するニューヨークの名探偵。どんなに金を積まれても動かないウルフ。だが、親友の死が彼の巨体を動かした。飛行機を乗り継ぎヨーロッパへ。ナップザックにチョコレートを詰め込み、アドリア海を渡る。チトー政権下のユーゴスラビアを目指して。『ザ・ブラック・マウンテン』ネロ・ウルフ著 翻訳: 西貝マリ Pb:しゅえっと(Chouette)
◇REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies. According to John McAleer's Edgar Award-winning Rex Stout: A Biography(1977), it was the influence of Adamic that led Rex Stout to make his fictional detective Nero Wolfe a native of Montenegro, in what was then Yugoslavia. レックス・トッドハンター・スタウト(1886~1975)アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。

*日本語訳 『ザ・ブラック・マウンテン』The Black Mountain(1954) ネロ・ウルフ (Nero Wolfe) http://bit.ly/cwkD4i  Pb:しゅえっと(Chouette)

"Adamic was an interesing and complicated man, with genuine literary ability and great personal dignity. Tall and lanky, Adamic somewhat resembled Henry Honda, even moving with an awkward grace similar to the movie star's. Because he was five years older than I, he sometimes talked to me in a fatherly manner....He had a hearty explosive laugh and and loved to listen to jokes, though he himself was an an inept story teller who always ruined the punch line." - "Good-bye, Union SquareUnion Square   A Writer's Memoir of The Thirties" by Albert Halper 1970


*〈私立探偵ネロ・ウルフ〉はアダミックの影響だった。Nero Wolfe is a fictional detective, created in 1934 by the American mystery writer Rex Stout."I got the idea of making Wolfe a Montenegrin from Louis Adamic," Stout told McAleer. Everything Stout knew about Montenegrins he learned from Adamic's book The Native's Return (1934), or from Adamic himself, McAleer reported.


*アダミックは世界でもアメリカが最も進んでいる国だとおもっていた、しかし世界のどこにも「自由」の誕生を見なかった!マーチンルーサー・キング牧師もアメリカに「自由」の誕生を見なかった!


Michael Movak
--Adamic's outline for "The Education of Michael Novak" revisions this longing for heritage. Adamic portrays an accomplished ethnic American's impulse toward understanding, rather than a return to circumscribed ethnic roots.Through Novak, Adamic implied that one's culture is always being constructed and cannot be contained within geographical boundaries.-- Dan Shiffman, "Rooting Multiculturalism: The Work of Louis Adamic" 2003 Fairleigh Dickinson Univ Pr





▽ 生誕100年記念祖国スロヴェニアで切手となったルイス・アダミック。
Znamenite osebnosti - Louis Adamic 



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