Friday, June 25, 2010

ルイス・アダミック雑録 ②- Louis Adamic on Twitter

ルイス・アダミック雑録1913-1928-Louis Adamic on Twitter
改定中
①アダミック雑録  ②アダミック雑録  ③アダミック雑録  ④アダミック雑録  ⑤アダミック雑録



1932年「ジャングルの中の笑い」-アメリカ移民の自叙伝
Laughing inthe Jungle:The Autobiography of an Immigrant in America  Harper,1932 is awarded Guggenheim Fellowship。*リプリント版Arno Press and The New York Times社にはThe American Immigration Collectionの移民叢書第一巻に収められている。

☆『ジャングルの中の笑い』移民たち一人ひとりの血と汗で築いた国アメリカ。彼らの夢と挫折を通して、「約束の土地」アメリカの行く末を模索する移民文学の傑`さくさく作 ... http://american-immigrant-slovenia-liberty.blogspot.com/ 

▽「ジャングルの中の笑い」のクリスチャン教授による論文(解説)「ドライサーを超えて-ルイス・アダミックのジャングルの中の笑い」"Beyond Dreiser: Louis Adamic's Laughing in the Jungle" by H Christian の作品の読みの深さに吃驚。

▽アダミックの「自伝」は、所謂それまでの移民の自叙伝などとは全く違っている。
またスロベニアの翻訳者&編集者へ送った手紙の中でアダミックは興味深いことを語っている。

1991年、ニューヨーク市で開かれたニューヨーク芸術祭に《移民の声》と題するエリス島のパフォーマンスで、アダミックの移民の自伝的小説 『ジャングルの中の笑い』の一節が、一世移民たちによって3度にわたって朗読された。同じ移民の体験者として彼らにはアダミックの言葉が、一語一語が身に沁みたにちがいない。
*Statue of Liberty(自由の女神像) American Dream: Andrea Bocelli's Statue of Liberty Concert

▽『ジャングルの中の笑い』(1932)を最初読んだとき米黒人作家リチャード・ライトの自伝「ブラックボーイ」(1945)を思い出した。第一章の文体がよく似ている感じがした。たぶんライトはアダミックの作品を読んでいたのでは。http://bit.ly/c6s7vY *アダミックは「複数の移民」を含めた「自叙伝」を、ライトは黒人としての「彼自身」の自叙伝を書いたのは興味深い。

▽20世紀初頭のヨーロッパ農民たちにとってのアメリカのイメージは、
 「大西洋のはるか彼方数千マイルにある、想像もつかないほど巨大な、実に驚くべき幻想的な場所-黄金卿-いわば天国のような所-あらゆる点で「約束の土地」であり、そしてちっぽけで静かな美しいカルニオーラなどとは全く比較にならないほどはらはらさせる、今にも爆発せんばかりの所...」であった。
 「アメリカでは人は短期間で大金を稼ぎ、莫大な土地を手に入れ、単なる普通の賃金労働者でさえ、ゴスポド(上流階級)のように自分のブーツを磨き、真っ白い襟のついたものを着、そして日曜日はもちろんだが普段の日だって、白パンやスープや肉などを口にすることができた。...」
 「アメリカでは人は普通の労働者のままいる必要はなかった。...バルカン諸国からやってきた農民や労働者たちでさえ...の炭鉱や鉄鋼所でほんの数年働いてお金を貯め、ミネソタとかネブラスカとか呼ばれる土地へ行って、ブラト村の農民達が所有している全ての土地よりも遥かに広大な土地を購入していたのだ。アメリカはでっかい。本当にでっかい!」
 「アメリカではどんなこともできた。普通の人でさえ市民(シティズン)だった。オーストリアや他のヨーロッパ諸国のように臣民(サブジェクト)ではなかった。」  
 しかし、アダミックは成功した移民がごく僅かだと知る。しかもアメリカ帰りの男は、移民たちは新世界におびき寄せられて使い捨てにさせられていると語る。
 「かつて移民たちはアメリカでは肥やしと呼ばれていた。連中は今だって肥やしさ。アメリカの偉大さの根っこは、相変わらず彼らの食客になっている。...多くの者は金持ちに這い上がるよりも根絶やしにされるんだ。」   
/ 農家の長男として、また多額の学費にもかかわらず、街の教育を受けさせたがっていたアダミックの父。そして頃も体も「根っからの農民」である父親に似ていたアダミックは語る。
In America everything was possible. There even the common people were "citizen," not "subject,"as they were in Austria and in most other European countries.

ジャングルのイメージ
「パナマでは一度、山頂から巨大なジャングルを見たことがある。遠くから見ると美しかった、それを眺めていると、本当にそこが蚊帳や獣や大鉈で完全武装せずには踏み込めない、薄暗く、不健康で、危険なところだとはとても信じられなかった。 
*「同じことはロサンゼルス、つまりアメリカにも言えた。ハリウッドからの丘からの眺めは、様々に変化する色彩に包まれ素晴らしい。だが実際は、...ここちよい風が吹き渡っているにも拘らず、そこは老人や死にかかっている人々、疲れた開拓者を親に持つ若者やアメリカの餌食となったもの-奇妙な猛毒を持った植物、頽廃的な宗教、カルト教団、エセ科学、無謀な企業計画など--で溢れ、...それらはまた一気に利潤を狙いながら、多くの人々を堕落させ、おちぶれさせる運命にあった...ジャングル...。」

ドス・パソスやヘミングウェイ、フィッツジェラルドなど第一次世界大戦に志願したローストジェネレーションの世代とそれ以前の革新的な世代とはどこか違う。戦争で身も心もスタズタになったアダミックは、社会主義者アプトン・シンクレアに「僕は大義が信じられない」と書いている。

▽“an adventure in understanding
my life in America has been largely an adventure in understanding, and these people - foreign-born and native American - and their histories have been a vital factor in that adventure.

I had not come to America, like Steve Radin, to become rich ; nor, like Koska, to escape from myself for something or other; nor, like most immigrants, to slave at whatever task I could find. Rather, I had come to experience America, to explore the great jungle, to adventure in understanding-and here I was. I had found the adventure exciting and worth while; and there was more to come. “

"...Life was too cruel here. America is big and terrible...America must become great....We all came over from the Old Country to help America become great and terrible," "Dung," I thought to myself. A BOUHUNK WOMEN

 Book Review
"Mr.Adamic has an abiding sense of human dignity, and to my mind he touches greatness as a story-teller...he has no mere autobiographer. It is through other men's struggles, through their conflict of values, that we catch, fleetingly yet clearly s own adventure. This seemingly unconscious technique of mirrored self-portraiture is done so almost perfectly that it is the reader who limns the portrait of the artist" -N.Y. Herald Tribune. 
"It is by all odds the best story about and by an immigrant that I have ever read-and I read every word of it with unflagging interest."-R.L.Duffus.   
"A grand book... the music and collor of life on its lower levels." -James Stephens, author of "Paul Bunyan" 


◇Kriza v Ameriki(「アメリカの危機」)、
帰郷した1932年にリュブリャナで出版された。大恐慌当時のアメリカの絶望的な労働者の状況を描いたもので、 オリジナル版はハーパーズ誌に掲載。スロヴェニア語版の翻訳はAnton Debeljakによる。


◇Common Senseアダミックは1933年に社会・経済・政治を扱う月刊誌「コモン・センス」誌の編集員となっている。その顔ぶれはドスパソス、マクリーシュ、アプトン・シンクレア、ノーマン・トマス、ジョン・デューイ、マックス・イーストマン。(Common Sense (1932-46), monthly liberal review of political, economic, and social affairs, whose contributors included Dos Passos, MacLeish, Upton Sinclair, Norman Thomas, Louis Adamic, John Dewey, and Max Eastman. In 1946 it was absorbed by the American Mercury.)





1933-4年 移民の帰郷 The Native’s Return 1934
1932年、私は妻とともに 19 年ぶりに故郷スロヴェニアに帰った。アドリア海のブルー、やさしい春の風、旧き良きフォークロアの数々、なつかしい母の姿……。しかしその後、ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、ボスニア、モンテネグロ、南セルビア、クロアチアと転々と旅して回るうち、私は次第に、この国が恐ろしい力によって支配され、人々を虐げていることに気づいた。そしてイタリアにムッソリーニが、ドイツにヒトラーが登場しつつあった!
1930 年代のバルカン半島の緊迫した政治・経済・文化状況を、その歴史や人々の生活―衣食住・民話・叙事詩・闘いなど―を通してあますところなく描き、50 年後の今日、ヨーロッパとバルカン諸国で起こっている「歴史的事件」の発生を鋭く予告した、すぐれたルポルタ―ジュ文学の傑作。

▽『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』は世界恐慌下の全米ベストセラーであったが、祖国ユーゴでは「禁書」、所持しているだけでも投獄された。この本の出版を最も恐れていたのは、まぎれもなくアダミックが会見した「恐怖政治」を敷く独裁国王であり、政権中枢部だった。縮小版Armed Forces Editionは、第二次大戦の戦時下、塹壕でパルチザン兵士たちによっても読まれ勇気づけたという。

"The King Business in the Balkans"Yale Review 1933 (アダミック次頁にはレオン・トロツキーが寄稿)、"Torture in Belgrade"New Masses 1934, そして
"Yugoslav Writer Predicted Alexander's Assasination "New York World-Telegram 1934, "King a 'Gangster,' Adamic Charges "New York Evening Post 1934
*さらに"Louis Adamic Describes King As Deft Actor"New York Herald Tribune1934, 書籍として"The Native's Return"1934 の中の特に最終章"I Meet the King-Ditator"

*ブログにThe Native's Returnの原書についている写真を掲載。説明文はまだです。 http://immigrantebook.blogspot.com/

*いつか余裕ができたら、電子書籍を読むだけでなく聴くものにして画像やビデオを入れ臨場感を出したい。特にこの作品は旅行記としても最高だ。

解説 ヘンリー・クリスチャン(ラトガーズ大学)
*「わが祖国ユーゴスラヴィアの人々」(原題The Native’s Return)は、読者をとりわけ喜ばせる幸せな状況描写からはじまっています。アダミックの多くの価値ある本のなかで、最も重要で素晴らしいこの移民の帰郷物語は、まさにこの作家なくしては書けない作品だったように思えます。
さらに、アダミックがユーゴスラヴィアやこの国の人びとについて俯瞰して見せたように、一九三〇年代初めのこの国が「地図の上とわれわれの世界の政治における戦略上の重要な地位を独占している偉大な一民族の強力な社会的複合体」であったことを念頭におくこと、そういうことどもに注意を払うべきでしょう。
 スロヴェニアやユーゴスラヴィアの他の地方は、「永い苛酷な歴史を背負った、将来の行方定まらない種々雑多な人びと」と語ったアダミックの言葉通りの真実がいまでも生きています。一九八九年、東欧および南東欧には歴史的動乱の秋がはじまりました。世界は「経済危機」の言葉を再びその地に聞くようになりました。そこで私たちはThe Native’s Returnをき、半世紀以上も前のアダミックの言葉に耳を傾けることができます。「サライェヴォの知識人たちの多くは、ユーゴスラヴィアの他の地方の人びとと同様に、巨大な暴力の前に挫折させられ、行方定まらない、どっちつかずの宙ぶらりんの状況に押し込められていた」のを知るのです。また、私たちは、最近採用されたスロヴェニア共和国とそこに住む人びとの悲願の象徴が、いつの日かマトヤッチ王を目覚めさせるためにクリスマスの夜に一時間だけ咲き誇るという、あの菩提樹の青葉になった、という事実にも驚かさかされます。本書はこうして、民族・経済・政治・文化・歴史とさまざまな要素でもって構成されていますが、最終的には、この作品のいたるところに散りばめられ、あらゆる読者の心に重要な意味を持って訴えてくる要素、国家とか場所とかいう枠をとり払って地球人に共通する普遍的な核心があります。
それはほかでもありません、
The Native’s Return(帰郷)の持つ意味です。人はいろんな理由で、いずれは生まれ育った家を離れます。新天地にはまた別な生活があり別な人生が待っています。それでも人はいつの日か、長い年月を経て、少なくとも一度は生まれ故郷に帰り、  旧い「台所用具」に気づき、「ここで……ぼくはノートや鉛筆を……ロールパンやりんごを買ったものだった。……ここには母がいつも買物にやってきていた」ことを思い出し、同時に、「あらゆるものが私の心に蘇ってきた」と、深い感慨をおぼえるにちがいありません。
つまり、このことこそ、私たちがこの本から得られる最大の恩恵なのです。  
そして今回、初版から五六年目にして日本語版が出版されることになったのは、ルイス・アダミックを愛してやまない私にとって、誠に感慨深いものがあります。一九八九年晩秋 H・A クリスチャン(ラトガーズ大学教授)  The Native’s Returnは、一九四二年にレベッカ・ウェストの『黒い仔羊と灰色の鷹』が出るまで、ユーゴスラヴィアについて英語で書かれた、最も情報量の多い、重要な、先見性のある本でした。しかも、アダミックの本はレベッカのそれよりもはるかに予言に満ちたものだったのです。

The Native's Returnは14歳でアメリカへ渡った著者が19年ぶりに故国に帰り故国を発見するドラマチックなルポルタージュ作品だが、「オデッセイア ルイス・アダミック」と題しても雑誌に掲載された。アダミックは見事にその役 割を果たしたことになる。

作品からの引用
▽移民たちには、はるか異国から祖国よりも、故郷を想う気持ちのほうが強い。国家は人工的なものだが、ふるさとは自然で本能的なものなのだろう。たとえ石をもて追われたとしても 
▽14才で単身渡ったアメリカから19年ぶりに「作家」となって帰郷する。そこで待っていたのは、
「一九一二年に別れを告げたと「同じ中庭の同じ場所に立っていた母の姿は、私の胸にぐさりと突き刺さった。母は年をとり、身体も縮み、髪も白く薄くなっていて、目や頬のあたりの皺はいちだんと深まっていた。だがその抱擁は昔と変わらずしっかりと強かった。..父も白髪が進み、身体も縮んではいたが、震える皺だらけの手は意外としっかりしていた。そして笑って、「お前、やっと帰ってきたな」と言った。 さらに妹たちが待っていた。...  
「そして、一流の詩人や著名な作家たちを招いて、「放蕩息子」アダミックの帰郷の、ささやかな祝宴が催される。
...歌声がやむと、詩人の一人がグラスを片手に立ち上がった。私たちはみな黙して詩人の口元に注視した。詩人はこの麗しい午後のひとときを、山から吹いてくるそよ風や満開の林檎の木を、料理を、そしてグラスのなかのワインを、表現豊かに謳い上げ、さらにはブラト村と村人たち、とくに私の父と母に感謝の言葉を述べ、ふたたび村の周囲にひろがる草原や自然の素晴らしさにまで言及した。そして最後に、私のそばに歩み寄って、アメリカへ旅立ったころからこのたびの帰郷に至るまでの物語を語ってくれた。私にはもはや返す言葉はなく、感激の涙を押さえきれなかった。
「詩人は結んだ。
「さあ、グラスを飲みほそう!」グラスは飲みほされ、そうしてみんなして歌いはじめるのだった。 

「いつの時代でも、スロベニア人たちは二つのことだけを願ってきた。まず第一に、この土地が彼ら自身の完全な所有物であること。第二に、自主独立の地位-つまり、言語(それはセルボ・クロアチア語に似ている)と文化の独自性-を、保障することであった。この二つは、愛する国土に対する、彼らの誇りの証であった。」

《スロヴェニア農民の死》
「スロヴェニアにある全ての教会はカトリックであるが、近くからあるいは遠くから重なり合って鳴り渡ってくるそれらの音を聴いていると、特別な宗教とか、決められた教義などはどうでもいい、生きとし生けるものに共通の、鎮魂のメロディーに聞こえるのだった。これが死だった。これが人生だった。― 生...死...生 ― 
 私は、自分が生きていることを強く実感しながら、はじめて、恐れや、憎しみや、偽りから解放された虚勢のない死について考え、感じたのである。」
「...一九三二年という時代を考えれば、たしかに君のいうように、アメリカでは死神はギャングだね、まったく!
 アメリカ人が周囲の環境とうまくやっていけず、人生は連続するものといった健全で良識ある考えを持たないかぎり、死神はギャングであり続けるだろう。ともかく、もう遅すぎるよ。アメリカが巨大なスロベニアになるなんてことは...。僕にしても、妖精みたいなものの存在はどうしても信じられないしね。 
 もっと、考えを変えて、一つの巨大な国家が環境とうまく平和にやっていくためには、別な方法があるかもしれないがね。もし、そんなことが可能になれば、ここの農民たちと同じような死を持てるだろうけど。」  
 ヤンス伯父が死んで二日目に、遺体は黒く塗られた松の木の棺におさめられた。その棺は、伯父がこの日ために数年前に、みずから森へ出かけ切り出した一本の木を挽いて準備していたものだった。棺のなかの頭の下には、自分の畑から持ってきた一握りの土が詰められていた。
これでもう、伯父は「自分の土に還った」のだった。
美しい日だった。 
墓地からの帰り途、人々は朗らかだった。話題もぐるっと転じて、ヤンス伯父とはまったく関係のないものが多かった。特に女たちが話しているのは、昨夜、村で生まれた双子のことでもちきりだった。
オルガ伯母でさえ、その話に夢中になっていた。「そりゃねおめでたいことだね。さっそく見に行かなくちゃ。」「なにしろ、ブランコボでは初めての双子なんだから...。」

The Native's Return (1934)は、原文(1937年以降)そして邦訳もここで終わっている。
There was s touch of spring in the air. The birds were flying back from the south. Carniola looked very lovely,...Near the track, to reorient Japan toward Asia. His party's campaign manifesto calls for an "equal partnership" with the United States and a "reconsidering"  as our train sped Trieste-ward, we saw apesant plowing.He looked like my brother Stan, tall, husky, bent over the plow-handles. There was a great dignity in his task. Why couldn't the world be organized to permit him to plow and produce in peace all his life?   A we passed him he reached the end of a furrow. He glanced up and waved....I had an enormous lump in my throat.

「大気には春の肌触りがあった。小鳥たちはふたたび南から帰ってきた。カルニオーラには昨年の五月に見たよりも黒ずんだ感じであるが、とても美しく見えた。  汽車の 窓から、畑を耕す一人の農夫の姿が見えた。背が高くがっ しりした体格で、弟のスタンのようだった。彼は鋤の取っ 手を握り、ゆるぎない威厳に輝いて土にひたすら取り組ん でいた。 彼の一生は幸せに平和にやっていけるだろうか...。
突然
 、彼は腰をあげ、こちらに顔を向けると、白い歯をむいて 大きく手を振った。 
私は喉のあたりにぐっとこみ上げてくるのを感じた。」 

▽アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが 「移民の国」であることがよく理解できるようになる。また、出版と同時にアメリカの読者の大きな反響がそのことを物語ってもいる。 そしてアメリカと同様に、様々な民族宗教文化が入り交ざった多民族国家ユーゴスラヴィアの重要性をはっきりと認識するようにもなる。この旅で発見した祖国の貴重な体験が、晩年彼が命がけで関わった、東西冷戦下の外交問題のきっかけになっている。 

▽アダミックは1937年(スターリンの粛清が始まった年)に、The Native's Return(1934)の最後のロシアよりの文章が含まれている約10頁の削除を出版社に命じている。邦訳も著者に従いカット、その削除された部分から一部引用してみる。ニューヨーク港に着く前に妻のステーラにこう語る。以下はその中の一部。

"We have contributed to America's greatness not only with our brawn, but with our brains as well: our genius. Nikola Tesla and Michael Pupin are Yugoslavs. Their inventions doubtless are the most important factors in the modern life of the United States. Tens of millions of electrical horsepower are generated in the United States by the Tesla motors every year; and but for Professor Pupin's inventions, our telephony would be less efficient.
"...I love America. I think that, with Russia, she will be the most important factor in the future of the world and mankind.... I love Yugoslavia and I think Americans should be interested in it - should try to understand its problems and its importance (with the rest of the Balkans and eastern Europe) in the international situation - should appreciate the intrinsic worth of its people and thus perceive how it happened that we have contributed so much to the greatness of the United States...." 


▽アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。

▽1930年代独裁政権下のユーゴで、マラリアで荒廃した国土を撲滅に奮闘するクロアチア人医師「ドクター・ヘラクレス」なるアンドリア・スタンパーを紹介したが、解任後、中国南京にマラリア撲滅に派遣され、国連の...。戦後の偉業はこのサイトから 
http://bit.ly/cvObek 
The Epic of Kossovo  Louis Adamic- 「コソヴォの叙事詩」翻訳。ブログから http://bit.ly/br6y7N

The Native's Return 1934は、大恐慌下にもかかわらず全米のベストセラーとなり、40年代まで続いた。アメリカが「移民の国」であることを、アメリカ人たちが再認識したことにもなったといえる。

 私たちはクロアチアに三月中旬まで滞在した。...粉雪が舞っていた。...ドイツではヒトラーがいよいよ全権を把握しつつあった。そこではユーゴで進行していることよりも数百倍のテロが頻発していた。バルカンの政治、社会、経済改革をしきりに求めてい人たちは、ヒトラーについて一様にこう語った「我々すべての者にとって、時計の針をますます逆回転させている。これまでもひどかったが、これからはもっとひどい状況がやってくるだろう。」「きっと、新しい戦争を誘発するに違いない。それから混沌、革命、そして新しい秩序だ。それしか道はないのかもしれない。」 1932年

「私たちはさらにザゴーレの奥地に踏み入っていった。山はいっそう険しくなり、土地はゴツゴツ乾いている。人びとの生活はもっとひどくなり、どの家も赤貧洗うがごとしの暮らしだった。...人々は貧しいが、それを恥じてはいない。健全な天性の文化を持ち、生き生きとした想像力によって耐えがたい環境を美しい物語や紙編や唄に潤色しながら生きている。...誰もがやせ細っているが頑丈で誇り高く、ユーモアのセンスだってちょっぴりあわせ持ち、礼儀正しく、やさしい自愛に包まれている。「南スラヴ人の心の文化」 1932年
*1933年、アダミックはクロアチア出身の国際的なオペラ歌手、ミルカ・トルニナの家を訪ねている。トルニナはアダミックと同じニコラ・テスラの友人でもある。すでにトルニナは70歳を過ぎてリタイアし重い病気を患っていた。もう私の栄光のことなどニューヨークでは誰も覚えていないと思っていた。" .   A woman of great simplicity and dignity, she said she could not understand why I should want to see her..." - Milka Ternina


The Native's Returnのロシアよりの最終章の一部の削除を出版社に命じた。大恐慌のベストセラーであったが、日本では全く紹介されていなかった。
* Bearing all in this mind, it's grand to be a Yugoslav-American and to come back after a visit to the old country. I love America.
  If nothing else, the vast industrial equipment which we Yugoslav immigrants have helped to creat in America will make her go Left and .   I think that, with Russia, she will be the most important factor in the future of the world and mankind....America will have to go Left. 
  revise her social system. She will go Left, too, because Americans, like Slavs, are essentially constructive-people of the future.



◇"Who Built America? Profiteers, Professionals Patriots or "Vile Immigrants" Common Sense,Ⅲ 1934by Louis Adamic


『南スラブ人の心と情』 
南スラブ人のハーツ・アンド・マインド物語5篇を収録。『南スラブ人のこころと情 』 (1)ドクター・ヘラクレス (2)農民の天才―イヴァン・メシュトロビチ (3)わが友よ 誇り高きヘルツェゴビナ人 (4)二つの祖国(5)スロヴェニアの愛

「…わが子よ、青白い顔になるな、猫背になるな、勉強に夢中になって試験のことなどくよくよ悩まないように。できるだけ自然と親しみなさい。戸外に出て、野原や村や山や森に入り、湖や川へ出かけ、鳥や蛙や昆虫、魚などありとあらゆる種類の生き物たちと、 岩や樹木やすべての草花と、大地そのものと、そして大地の恵みをうけている人たちと、またそういう人たちの日々の暮らしぶりにできかぎり親しむように。…詩人 オトン・ジュパンチッチ。」―「スロヴェニアの愛」

▽1934年、米国ルーズベルト政権下のFLIS行政委員の地位についている。FLIS(Foreign Language Information Service)外国情報報道局。彼のリーダーシップによってこの組織は激変する。


「苦闘」(1935年)
New Yourk Evening Post1934,各国語に翻訳され国際的な反響をよんだ"Struggle" Los Angeles:Arthur Whipple 1934。例えばWith Georgi Dimitrov and Piere Van Passen,Louis Adamic on the Bloody Fascist Terror in the Balkans. Detroit: The Macedonian People's Leage of America 独裁国王アレクサンダルはマルセイユで暗殺され、ユーゴ独裁政権は事実上崩壊の道を辿る。

▽暗黒の1930年代。「蟹工船」の小林多喜二の時代だ。コミュニストや反政府主義者に対する凄まじい拷問。
▽「コミュニストだけでなく国家主義者もだ。独裁政権の恐怖政治を暴露している。アレクサンダル王は自らの恐怖政治が臣民の生活の竈の灰まで支配していたのを知っていただろうか。私が王宮で会見した時そのようなことを訊ねる馬鹿な真似しはなかった。 「まえがき」-アダミック 

▽しかしアダミックの本の出版を恐れていたのは まぎれもなく独裁国王自身であった。ベオグラード政府の政治犯に対する抗議文、署名は錚々たる米作家や編集者大学教員ら48名。この作品によってもアダミックは命を狙われるようになる。


『バルーカス族の王ルーカス』(1935年)

フィリピンを舞台にしたエスニック物語だ。副題は「不思議な王国の物語」。フィリッピンの1930年代を意識した物語。あるいは祖国スロヴェニアも...。解説はpro.H.A. Christian 前書きはスロベニア語版訳者pro.Tine Kurent

「艦は数時間マニラに停泊した。私は友人のウェーバーに無線連絡をとると、
 彼は待ち受けたかのように埠頭にやって来て、
「お前にこうして会いに来たのはな...」と、ウェーバーはにやりと笑って、
「或る王国を飢えさせる必要があるからなんだ」と云った。
 彼はにやりと笑いながら、
「まあ、どこか話しのできるところへでも----」と促した。

▽コンラッド風の、僅か25頁ほどの短編だが、迫真性はある。
1930年のアメリカによる植民地下フィリピンを舞台。登場人物は、語り手の軍曹ウェーバー、ルーカス大佐、アメリカ黒人ジャクソン、フィリピンの先住民バルーカス族の酋長、ルーカス王。「ルーカス王」に収斂された「時代、無知、飢饉、政治、他の部族、そして恐らく自分と同じ黒い肌の中隊によって引き起こされていると思われる偏見の、極限化された苦悩」(Prof.Christian)を描く。

▽1930-35年間に、数種類の雑誌に掲載、また数種類の英語版、スロヴェニア語訳版として出版され、さらに50箇所余りの修正、省略の改訂版を経て、最後にロサンゼルスの小出版社ホイップル社から出版される。限定350部、アーティスト、エリザベス・ホイップルによる製作の木版画入り、定価一ドル(当時としては豪華版)で販売された。そしてアメリカ黒人の経済学者エイブラム・リンカン・ハリス氏に献呈されている。
▽ホイップル版のスロベニア語訳は1986年に、*翻訳ティネ・クレント、挿絵マリヤン・アマリエッティ、タイトル「Lucas Kralj Balukov」でリュブリャーナ市プレゼノバ・ドゥルズバ社から出版された。*Tine Kurentはアダミックの甥で、著名な建築学の研究者。


 『孫たち』GANDSONS』(1935年)
-スロヴェニア系アメリカ移民の孫たちを「この美しいアメリカの大地にすばやく過ぎ去る影」と表現した。1935年の段階ですでに移民二世三世の問題を論じている。
"Second generation Americans, children of immigrants of most nationalities, had a tendency to feel ashamed of their parents and repudiate their racial background, to draw away from people of their own blood; while third generation Americans, the immigrants'grandchildren, tended very strongly to return--or, rather, to seek out people of their racial strains and discover their backgrounds."
アダミックはすでに1935年に、スロヴェニア系移民の根無し草の「三世」を扱った小説『孫たち』を書いている。もとのタイトルは「暗黒の草原」。

 1935年に、アダミックは小説"Grandsons"で、スロヴェニア移民三世を「影の人間Shadow-Person」と呼んで〈アメリカ社会の病弊〉を告発し、1952年に、黒人作家ラルフ・エリソン"Invisible Man"で、黒人たちを「見えない人間」と呼び、 アメリカ社会の〈黒人差別〉を告発した。そして、『アメリカの人種的偏見―日系米人の悲劇』の著者でアダミックの親友、カリフォルニアの人権作家・活動家ケアリー・マックウイリアムズは1935年に、"Louis Adamic & shadow-America"を出版した。


「人生のゆりかご」(1936年)「アンティグアの館」(1937年)

▽日本人の観光客がたくさん訪れるそうです。 ANTIGUA GUATEMALA---MONUMENTAL CITY OF THE AMERICAS The House in Antigua.  http://www.rutahsa.com/antigua.html

アダミックは1937年にグアテマラを旅し『アンティグアの館』という本を書いている。が、数ヵ月滞在後、トロツキー関係でほとんど強制送還の形でアメリカに着いたとしている。
知人らが勝手にアダミックの名前をアメリカの作家や知識人らとともにトロツキー支援名簿にサインしていたのだ。だからゴサの延長を申し出るとグアテマラ政府からほとんど強制送還同然の形で追われた。アダミックにはとって大迷惑、それで抗議している。


*トロツキーは同年1月にメキシコに潜伏している。その数年前ラディカルなエール大学の「エールレビュー」誌に、アダミックは「王様商売」と題するユーゴ独裁国王体制を弾劾する記事を書いているが、その次のページにはトロツキーが論文を掲載されている。何か接点はあるのか、興味深い。

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Louis Adamic *1933 December 4.―S. and I have very little money-and I owe〔various people〕nearly twelve hundred dollars!...

December 16.―Last night I learned The N.R. is the Book-of-the-Month selection for February!
I guess my financial worries are over for a while, anyhow.
Suddenly I feel very calm... In one month some fifty thousand copies will be distributed....
S. terribly happy....



Fルーズベルト政権下、.アダミックが「海外広報行動局(F」LIS)の行政委員として働いていたのは1934-41年までである。アダミックほど適任の人物はいなかった。彼自らさまざまなプロジェクトを企画し、アメリカの文化の規範となった「多様性による統一」を強力に推進していくことになる。
.アダミックはすでに1935年に『孫たち』の中でスロヴェニア系アメリカ人の二世や三世の問題を論じている。更に他の日系人など少数民族集団についても『三千万の新アメリカ人』、1938年に『私のアメリカ』、1940年に『多くの国々から』の中でも論じている。以下は『孫たち』から。
."Second generation Americans, children of immigrants of most nationalities, had a tendency to feel ashamed of their parents and repudiate their racial background, to draw away from people of their own blood; while third generation Americans, the immigrants'grandchildren, tended very strongly to return--or, rather, to seek out people of their racial strains and discover their backgrounds. " 1935 

1936年のアダミックの講演から
「私は教育というものが、量的なものでなく、質的な、価値ある人間を創造していくべきだと懇願してやみません。...人は、ヒューマニズムを死滅させはしまいかと恐れて、お互い、如何に闘うか、といった策謀にエネルギーの大半を費やすことを止めなければならないことを知るでしょうし、〈感じる〉でしょう。そして、一つの目標に向かって、各自の理想に向かって、更には自ら真に願う世界と、またそういう世界を創りたいと思う方向に、心を向けなければならないことを知るでしょうし、感じるでしょう。」



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