Friday, July 16, 2010

ルイス・アダミック雑録⑤- Louis Adamic on Twitter

ルイス・アダミック雑録-Louis Adamic on Twitter
アダミックと祖国との国家的関係・A Free World State・アメリカ文化に貢献・進歩党・マッカーシズム・東西冷戦・アダミックと「非同盟」思想・アダミックの謎の死・REX STOUT 等
①アダミック雑録 ②アダミック雑録 ③アダミック雑録 ④アダミック雑録 ⑤アダミック雑録

更新中

Louis Adamic (1898-1951)
作家・ジャーナリスト


アダミックと祖国ユーゴスラヴィア・スロヴェニアとの国家的関係
を大まかに辿ってみると、

①大戦前、1908年11月、オーストリア帝国主義に反対する革命的「南スラブ国家独立運動」の学生デモに参加し、逮捕拘留され、ギムナジウムを退学される。14才で単身アメリカへ移住。この一連の運動は第一次世界大戦を起こしたサラエヴゥ事件につながっている。

②1932年に19年ぶりの帰郷。The native's Return 1934、Struggle 1934 を出版 し、ユーゴ独裁政権崩壊へ導く。アレクサンダル独裁国王は仏マルセイユで暗殺され、独裁政権崩壊、王子はロンドンへ亡命。
*To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-アダミック編集「解放――ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)の名誉会長となる。

My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与。だが一方では、メディアやユーゴスラヴィア系アメリカ人から「コミュニスト」とレッテルを貼られ、さんざん叩かれる。アダミックが著書で主張していたものは、実に民主的なものであったが。

③1941年「新ユーゴスラヴィア」建国樹立のメンバー、Frano Petrinovic, Stoyan Pribichevich, Nicholas Mirkovich, Vaso Trivanovichに加わり、民主的な新しい国家案をロンドン亡命政府、ペータル国王のもとへ送付。
*Two-Way Passage 1941 の中で詳細に述べられている。ユーゴ、南東欧、欧州に対しての声明文は、民主主義体制に基づいた各民族の平等、市民権とか、自由、平和、人権、正義などに配慮されたもので、ユーゴ系移民の将来のために米国民の前でその「保障」の公言を求めている。

④第二次世界大戦下。1941年-1945年 故郷スロヴェニアがナチドイツに占領されると、戦局の悪化とともに、ファシストと闘うパルチザンをアメリカで初めて支持。ユーゴスラヴィア系アメリカ人統一委員会議長に選出され、同委員会の機関誌「ブルティン」を自ら編集し創刊する。「"Ed.Liberation. Death to Fascism! Liberty to the People! Picture Story of the Yugoslav People's Epic Struggle Against the Enemy-To Win Unity and a Decent Future,1941-1945" 1945」-編集「解放―ファシズムに死を! 人民に自由を!…」南スラブ系アメリカ人統一委員会-を編集し出版。またスロヴェニア系アメリカ人国民会議(SANS)名誉ある代表として、スロヴェニア民族解放闘争遂行するためにアメリカ当局とルーズベルト大統領の間をとりなす。My Native Land 1943 を出版。ユーゴスラヴィア人民解放委員会から統一勲章を授与される。

⑤1948年-1951年1949年1月、17年ぶりに二度目の帰郷をし、新政権のトップの指導者らと政治、経済、歴史、文化について討議した新ユーゴスラヴィアのドキュメント。最後の本『鷲とそのルーツ』(1952年 死後出版)、未出版『激震の中のチェスゲーム』さらに500頁を超える引用、関連文、注など。*国際的にも冷戦をスタートさせる戦後史の最も重要な時期であり、アダミックがいかにそれに関わったか詳細は後で 。

⑥1991年6月にスロヴェニア独立宣言。The native's Return 1934(邦訳タイトル『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』)で、「いつの日か...」と予見されている。

⑦2004年 EU(欧州連合)誕生。1941年11月8日アダミックはニューヨークでその詳細 を講演。アダミックのプロジェクトの一部「アメリカ復興使節団」としてヨーロッパ連邦を提言。郵便、貨幣、統一などEUに類似。スロヴェニアは2007年1月にEUに加盟。東欧諸国その他が続く。

⑧「世界の多様性の統一」アダミックは1930、40年代アメリカの「多様性による統一」の最大の推進者であり、エスニック研究のパイオニアであった。"Adamic is the pioneer spirit of ethnic studies in the United States "(H.A.Christian)。それは実現にこぎつけることができたが、しかし世界の「多様性による統一」は、見果てぬ夢となって残った。 "The future, ours and the world's, is in unity within diversity."

1942年にアダミックはこう語っている。
「私は、完全に排他的でも、完全に分離されたものでもない、あらゆる人間の強烈な独立意識を根底においた世界の一部でもある、パレスティナの自由なユダヤ人の国土に賛成である。「私はまた、自由な世界政府の一部である、自由なヨーロッパ連邦の、自由なバルカン連合あるいは南東欧連合の、自由なスロヴェニア、自由なクロアチア、自由なセルビアに賛成である。」  1940年代、アダミックの「世界の多様性による統一」は最終的には、「真の国際連合」の創造にあった。

A Free World State
"… I am for a free Jewish homeland in Palestine which is not anything exclusive and separate but a part of of a world organized upon the basis of an intense consciousness of all people's interdependence and also for a free Slovenia, a free Croatia, and a free Serbia in a free Balkan or southeast-European confederation in a free United Europe, which is part of .of a free World State."-The New Palestine,November28,1942- Louis Adamic

アダミックは旧ユーゴの最も危機的な時代のスポークスマンであったし、彼ほど海外から祖国に貢献した人物はいなかった。もし第二次大戦中に、アダミックがチトー率いるパルチザン支持を、米政府ルーズベトに(ということはチャーチルに)説得できなかったとしたら、戦後の「非同盟諸国」も「第三世界」も存在しなかったかもしれない。

*「世界の多様性の統一」-しかしそのフレームワークは、思いの外、早く実現するかもしれない。いまや世界はインターネットによる情報高速化時代を迎えている。そろそろ国連は、世界各国の有識者もしくは大学の研究機関と協同して、「世界の多様性による統一」のための「世界政府シャドーキャビネット」を準備すべきときではないだろうか。ひょっとすると、唯一の被爆国、日本は政治や環境、文化などの面でそのリーダーシップをとれるチャンスがあるのでは、と夢想したりするのだが...。

○アダミックがかかわり遂行させた、祖国のユーゴ独裁国王政権打倒から民族解放、そしてチトーの新ユーゴ政権樹立まで、およそ10年余(1933-43)の歳月を要している。

○マイノリティたちが夢に見たエスニック・アメリカの権利回復とアメリカ合衆国の「多様性による統一」まで10年(1932-42)の歳月を要している。そしてその文化の多様性と民族グループの誇りの社会運動が現実に花開くまでに、さらに2、30年の歳月を要している。

○アダミックが「アメリカ復興使節団」のプロジェクト-ヨーロッパ復興について、1941年11月にニューヨーク市で後援してからおよそ半世紀余り。アダミックが思い描いたような国境のない欧州連合(EU)が実現。http://bit.ly/9tvYVe

☆アメリカ移民の象徴である「自由の女神」が来年10月から安全対策工事のために1年ほど閉鎖する。1930~40年代、Lアダミックほど「自由の女神」のその価値を米国民に普及させた人物はいなかった。彼が成し遂げたこと、成し遂げようとしたそのスケール。「肖像画」を掲げよとメールしておく。


アメリカ文化に貢献
アダミックがFルーズベルト政権下の「海外広報行動局(FLIS)」「アメリカ統一共同評議会」の行政委員として働いていたのは1934-44年まで。1940年にその局のトップの監督責任者となる。アダミックほど適任の人物はいなかった。彼自らリーダーシップを発揮してさまざまなプロジェクトを企画し、アメリカの文化の規範となった「多様性による統一」を強力に推進していくことになる。

*アダミックが1938年に提案していたプロジェクト「エスニック・グループ百科事典について、1980年にハーバード大学陣が完成させた。大戦中アダミックは祖国のチトーのパルチザンを支援で基金が打切られ、国内政治や国際的な問題にかかわることになり、そのプロジェクトを完成させることができなかった。詳細は以下のサイトで読めます。
Harvard encyclopedia of American ethnic groups 著者: Stephan Thernstrom

Louis Adamic and the Contemporary Search for Roots" Rudolph Vecoli (University of Minesota アメリカ移民史研究所所長) Ethnic Studies 2(1978)

"Once American history and society are viewed from a pluralistic perspective, inequities, abuses, and repressions spring into focus. The new ethnicity is not simply a form of therapy to soothe bruised ethnic egoes. Rather the formation is a new historical consciousness, as in the case of Black Americans, is the very basis for concerted group action to correct traditional neglects and injuries. The new ethnicity, therefore, leads to the realization of a more fully democratic society committed to a pluralism of equality among groups as well as individuals. And that, I believe, was the essense of Louis Adamic's new conception of America."

"In 1973,the Congress of the United States enacted the Ethnic Heritage Studies Bill, a historic measure which for the first time committed the federal goverment to the principle of pluralism rather than assimilation. The Ethnic Heritage Studies Programme provides grants to school systems and other institutions for the development of curriculum materials and the training of teachers. After only four years, this Programme has had a substantial impact upon what is taught in many schools about American history and culture.(Rudolph Vecoli)E PLURIBUS UNM: Louis Adamic And The Meaning Of Ethnic History by Robert F. Harney (President of the Canadian Ethnic studies Association)

"The editors of the Harvard Encyclopedia of American Ethnic Groups end their ingenuous description of the Nation of Nations Project by citing Adamic's wistful opinion that his Project would be done somehow. They coclude: "the job has been one somehow. If they really believe that they have done the job Adamic the historian and public philosopher set out to do, the renovation of America's of herself, then they are as blind to his true purpose as are the new ethnicity's partisans." Journal of Etnic Studies 14:1(1986)

◇J.B.Lippincott Companyは1943年に「The People of America」シリーズ9巻を刊行することになり、アダミックはその編集主幹となる。合衆国のあらゆる民族(エスニック)・人種グループのルーツや起源を引き出し、正統なアメリカ文化構築へ向けてのもの」だった。しかしアダミックは1947年に以下の前書きを書いただけだった。「オランダからのアメリカ人」」(1947)「ハンガリーからのアメリカ人」「日本からのアメリカ人」(1948)。その他の巻は「わが英国の遺産」(1949)や「彼らは最初にやって来た-アメリカインディアンの叙事詩」」(1949)「メキシコ以北-スペイン語を話す合衆国人」」(1949)「スウェーデンからのアメリカ人」」(1950)「ノルウェーからのアメリカ人」(1950)そして「彼らは鎖で繋がれてやって来た-アフリカからのアメリカ人」(1950)等があった。

*第二次大戦の真っ只中、ルーズベルトにインパクトを与えたアダミックの戦後ヨーロッパ復興プロジェクトについて論議された。もしかしたら1941年1月19日、Fルーズベルト大統領夫妻が用意したホワイトハウスでのアダミック・チャーチル会談が、戦後「冷戦構造」のターニングポイントだったのかもしれない...。それとも移民のヒーローであるアダミックを、ルーズベルトとチャーチルは戦争のためにアメリカ統一のダシに使ったのか。もしアダミックの多文化思想によるプロジェクトがヨーロッパ復興に取り入れられていたなら、戦後の冷戦構造はどうなっていただろう。英米の協力による戦後の戦争世界は一変していたはず、なぜルーズベルトはチャーチルを説得できなかったのだろう。非常に興味深い。やはりアングロサクソンによる英米同盟ということがあったのだろうか。二人にはアダミックの思想は受け入れ難い危険なものだった 。

マッカーシズム
あの赤狩りで「共産主義者」として告発された映画関係者はチャップリン、ウィリアム・テイラーをはじめ数百人にのぼる。チャップリンは「殺人狂時代」を映画化しアメリカを去った。ヘンリー・フォンダやハンフリー・ボガート、グレゴリー・ペック、フランク・シナトラ、ジュティーガランド、キャサリン・ヘプバーン ... などが反対運動を起こした。アダミックはすでに1947年の早くから非米活動調査委員会により嫌疑をかけられていたが、その反証をどの新聞雑誌にも掲載できなかった。当時アダミックは「正統マルクス主義者」の敵としてみなされてもいた。

*アダミックは1931年から年一冊の割でコンスタントに本やパンフレットを出版し、さまざまな雑誌や新聞等に「洪水」のごとく寄稿していたが、それが1947年から死ぬ1951年までは一冊の本も出していない。新聞雑誌等への寄稿も数える程度である。ただ自分の定期刊行物に掲載しているだけである。1948年、アダミックは彼自身のジャーナルT&T: Trends & Tides、に「アメリカのレジスタンス運動の先頭に立つ」“spearheading an American resistance movement”としてマッカーシズムに対し、徹底抗戦をこころみる。

◆進歩党
そしてアダミックは1948年の大統領選挙に出馬したヘンリーA・ウォーレスの進歩党綱領委員会の委員に任命される。その勝敗はすでにわかっていたが、Progressive Partyは黒人参政権や国民皆保険などを掲げていて今でも興味深い。
*アダミックもニューディーラーであり、進歩党綱領を一週間夜を徹して書いたと言っている。外交面や人種などの点でアダミックの何らかの影響が見られるかもしれない。バルカンや多国間外交や国連主導...。アダミックは1932年~50年間にロシアへの入国ビザを何度も申請したが、生涯一度も認可されなかった。もしアダミックが民族主義的なスターリンのロシアに入国していたら、その後の世界は一体どうなっていたのだろう。 そして1946年には「鉄のカーテンを引いた」チャーチルからは文書誹謗の廉で訴えられる。
*「異端の副大統領ヘンリー・A・ウォーレス─ ポスト冷戦時代の視点から─」安藤次男。

*FBIやCIAなど諜報組織の監視下にあったアダミックの政治活動。
"Adamic’s politics, firmly on the left, were always contraversial. His membership during the 1930s and 1940s in a multitude of“Popular Front”organizations, with known Communist membership and sympathies, brought him under the surveillance of the FBI and other intelligence agencies. "
Immigration History Research Center, College of Liberal Arts, University of Minnesota
http://www.ihrc.umn.edu/research/vitrage/all/aa/ihrc95.html
(冷戦下の状況において、アダミックは個人として、国際政治のまさに最前線、真っ只中にいたわけだ。彼には世界の動きがすべてよく見えていた。米国政権中枢部からのトップ情報、左翼の米国代表からのトップ情報、ソ連から追放されたユーゴからのトップ情報を入手できた。CIAからの誘いも蹴る。)

アダミックと「非同盟」
*ユーゴがソ連から除名された1948年当時、アダミックをよく知り、ユーゴについてさまざまな議論をする機会のあった、元駐米ユーゴ大使YOZA VILFAN の証言は重要だ。1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムでこう語る。「アダミックはユーゴがソ連から除名されたことをむしろ積極的、好意的に捉えていた。そしてその分裂を、米ソ超大国に従属しないレジスタンスの先触れとして、《非同盟》政策となるものの始まりものして見るアダミックの先見性」を信じた、としている。
"...at the 1981 Minesota Adamic Symposium I heard the late Joza Vilfan good for Yugoslavia. In the last forty years it has been important and necessary to understand Adamic's significance to the New Yugoslavia." Prof H.A.Christian  *Joza Vilfan 元駐米ユーゴスラヴィア大使

*アダミックはユーゴについてすでに、米ソ超大国に従属しない「非同盟」政策の、明確な自主独立路線の考えを持っていたわけだ。アダミックは1949年1月にユーゴへ旅立つ。そして新政権まもない時期に、チトーをはじめ政権トップのあらゆる大臣閣僚と、ユーゴ・ソ連問題などさまざまな国際問題について討議をする。6ヶ月の滞在で彼ほど時間をかけて新国ユーゴスラヴィアをつぶさに目撃し、旅し、多くの討議を重ねた者はいなかった。そして『鷲とルーツ』と『激震の中のチェスゲーム』の二冊の本を書き上げる。しかし彼はその出版をついに目にすることはなかった。

◇1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムの冊子に、ビフランの証言についてこう載っている。An exception to Adamic's general discouragement was his view -shocking to Vilfan at the time - that Yugoslavia's break with the Soviet Union in 1948 was decisive, even positive, Vilfan credited Adamic's foresight in seeing the split "as a harbinger of the resistance against subordination to superpowers, "as the beginnings of what became "the non-aligned policy."

"Adamic's pessimism for a future in which the "two superpowers driven by their internal logic toward domination... did not understand the urge and the determination of undeveloped countries to be independent and to utilize their natural resources for their own development."

*東西冷戦が始まる1948年当時である。米ソは軍拡競争へ、そして1992年 ついにソ連の経済は破綻し崩壊、冷戦は終結する。

☆アダミックは生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。1932年と1948年に、あらゆる努力を試みたがビザを取ることができなかった。アダミックの最後の本『鷲とそのルーツ』の一章見出しに、"really wanted to go to Russia first, but---"と。そして本文入る前頁の余白に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for.--"Laurence Stern

*アダミックにとって故国に帰ってはじめて、アメリカが「移民の国」であることがよく理解できるようになる。そして同様に、様々な民族や宗教が入り交ざった多民族国家ユーゴスラビアの重要性をはっきりと認識するようになる。
"Freedom--honesty," I said; "there's almost nothing more difficult for writers to achieve and practice than that. In America , too. Especially in a period like this.1949 Especially freedom and honesty together. There are various definitions of each. But to hell with it!" - in English. I'm in no shape to go into all that. Tito's smile was half a scowl.  "I think I like this man," I thought.

アダミックは1947年のインド独立にも関心を払っていたようだ。インドは、ゆくゆく第三世界、非同盟諸国の強力なのメンバーとなる。

遺著となった『鷲とルーツ』から。アメリカではマッカーシズム吹き荒れ、祖国ユーゴはコミンフォルムからの追放...ベルリン封鎖、朝鮮動乱、そして東西冷戦への時代に、アダミックは一作家として「自由に、正直に」書き遺した。
"Freedom--honesty," I said; "there's almost nothing more difficult for writers to achieve and practice than that. In America, too. Especially in a period like this.1949 Especially freedom and honesty together. There are various definitions of each. But to hell with it!"-in English. I'm in no shape to go into all that. Tito's smile was half a scowl.  "I think I like this man," I thought.

もしアダミックの1948-51年間の外交努力が実現していたら、戦後世界はどのようになっていただろう。1945年のアメリカの広島・長崎原爆投下により、世界がすでに核時代に入ったことをアダミックはきっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造で はなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索し ていた。しかし「鉄のカーテン」が引かれ、世界は東西のイデオロギーの対決により、軍拡競争、軍事ビジネスへまっしぐらに進むようになる。1947年1月アダミックは、ニュージャージー州オレンジのユニタリアン教会で次のように講演する。
「Whether or not we can avoid World War Ⅲ, I don't know; but I feel that if we don't at least try to avoid it, nothing else is worth doing.  If we don't try to avoid it, it is vain to wonder about the kind of curtains you will hang up in the spring. ...  before the Committee on Un-American Activities....」The Eagle and the Roots

これが記されている『鷲とそのルーツ』はアダミックの死の九ヶ月後、1952年に出版された。
その中の大部分は、Marshal Tito, Vladimir Dedijer, Edvard Kardellj, Boris Kidric, Milovan Djiasその他、政治、経済、文化の代表者らとアダミックとのさまざまな討議の要約である。
ユーゴスラビア-ソビエト危機を背景に、討議は一方は、マルキストによるイデオロギーの立場から、他方は、政治的独立の見解に立つアメリカ作家、という形で闘われた。(Zitnik)

☆アダミックが、国家も、人種も、宗教も、イデオロギーも超えて、命尽きるまで闘った1947-1951年は、戦後世界史のターニングポイントでもあったようにみえる。
☆アダミックの死の原因ともなったといわれる『鷲とそのルーツ』だが、編集者が三分の一削除したと書いているそのタイプ原稿もまだ見つかっていない。ユーゴ政府による明らかな検閲。「チトーの役割」や最も肝心の論争が削除され、その原稿もまだ行方知れず。Zitnikの論文から読み解いてみる。

アダミックにとって、生涯一度も(スターリン治下の)ロシアに入国できなかった。あらゆる努力を試みたが、ビザを取ることができなかった。アダミックの遺著『鷲とそのルーツ』の一章の見出しに、"I really wanted to go to Russia first, but-”とある。本文入る前頁に、"I think there is fatality in it--I seldom go to a place I set out for." --Laurence Sterne 《A Sentimental Journey》 とある。

*長い歴史からすれば60年余はほんの一瞬にすぎないが、東西冷戦によってもらされた人類、地球環境その他に対する莫大な損失、殺戮、無駄...は計り知れない。歴史の無駄なのか


*アダミックは1941年にルーズベルト大統領、チャーチル首相とホワイトハウスでの会談を回想した著書「Dinner at the White House」(1946年)の中でこう述べている。
 「(構造的に、また影響力のある人たちの思想慣習において幾らか変革した形の)アメリカ資本主義と (将来の展望において幾らか変革した形の)ソビエト社会主義は、双方の最高の相を包含しながら、一つの類似の生き方に達するまで、長い期間共存できるはずである。両国は、思想感情の別な型の、より良き理解を必要としている。」と。そしてもし国際的に「アメリカにとって"中立"の道がないとすれば、われわれの内部にさえ存在しないのである。」
 「いわゆる正統派マルクス主義者は、階級対階級、すなわち、資本主義に対し社会主義、帝国主義に対し世界革命が正しいと認めるだろう。国の内外でわれわれは、左右の原則の下に、物事の決着がつくまで闘争を強いられるだろう。」
 そして、その闘争は、「引き続き起こるかもしれない全体的な破壊の悪党役を演じるアメリカの原子爆弾でもって、ただ第三次世界大戦に導くのみである。」と述べた。
 アダミックは、「ユーゴ(その一党支配の不完全さを許容しつつも)が戦後世界の二大勢力間の理解の架け橋になることができる」と信じていた。アメリカは多様性による世界統一のために導きはじめるだろうし、ユーゴはそれを発展させる機会と援助を与えられる...と。しかし、トルーマンドクトリン、マーシャルプラン...と次々と冷戦構造が確立され、米ソが超大国化へ進むに従いアダミックは次第に希望を失っていった。

*Adamic's cosmopolitan spirit was damped by the Cold War. 東西冷戦の終焉は、八九年東欧革命、ベルリンの壁の崩壊、九一年のソ連解体で完成される。

スロヴェニア独立とアダミック

妻ステーラからルイス・アダミックへの手紙Jan.14’1949
 Henry Wallace「世界連邦」「世界政府」への道-米ソの共存があって.. World Federation or World Government Movement http://bit.ly/9Vw0GF

1946年、アダミックは世界がすでにイデオロギー対立でなく核の時代」に入ったことをはっきりと認識していた。従って「東西冷戦」構造でなく、米ソが共存できる、世界の「多様性による統一」への道を模索していた。1941年にスタートさせた戦後ヨーロッパ復興プロジェクト  「アメリカ復興使節団」、アメリカ大統領選に出馬した進歩党ヘンリー・ウォーレス支援、アメリカとともに世界を主導させようとユーゴに働きかける...等もそうであった。しかしアダミックの思いに反し、米ソはますます超大国化し、イデオロギー闘争と軍拡競争へと突き進むことになる。

そして1989年ベルリンの壁崩壊、1992年ソ連崩壊により東西冷戦が終結。目下、世界の「多様性による統一」への道の途上にあるといえる。

1947年から時代がガラリと変わる、冷戦が本格始動。1930年の出世作『ダイナマイト』から1946年の『ホワイトハウスの晩餐』まで、アダミックはほとんど毎年のように本を出版していたが、47年から51年の死ぬまで一冊の本も出版していない。というより出版出来なかった。

雑誌新聞にもほとんど掲載できなかった。そしてその年まで一度も米政府と衝突したことはなかった。しかし「私は、物事の真実を捉え、物事を理解しようと努力する探求者である」「...何かために、何かをするために自己を燃焼させたい」とかつて記したように、混沌とした国際政治へ身を投じていく。

◆「アダミックと進歩党」Progressive Party
アダミックは1948年に黒人参政権や国民皆保険などを掲げて大統領選に出馬したヘンリー・A・ウォレスの進歩党の「綱領委員」のメンバーだった。因みに国民皆保険はオバマが実現させた。
(In 1948, Adamic served as a member of the platform committee at the Progressive Party Convention and was one of the five authors of “Peace, Freedom and Abundance: The Platform of the Progressive Party.”)
「米国進歩党綱領草案」の準備には総数70名余の人が携わったが、アダミックは草案起草者の5人のメンバーの1人に任命され、ほとんど最終稿をチェックする立場にあった。執筆にもっとも苦労したのは、「democratic」なことについてだった、とアダミック。
フィラデルフィアで4日間缶詰になり、日夜80人ほどの報道陣に監視され、2日間は一歩も外に出れず、また謄写版印刷室はだれも入れぬようにガードされ、そして1948年7月24日の土曜日の朝に完成された。最終的に草案のタイトルは「Peace, Freedom and Abundance: The Platform of the Progressive Party,1948, New York: Progressive Party,1948」となって発表された。
さらにそれは、Mir Svoboda in Izobilje, Chicago: Slovenian American National Council-Slovenian American for Wallaceスロヴェニア語に翻訳され、新聞にMir Svoboda I Obiljeのタイトルで掲載された。以上Prof.HCの著書から抄訳。


◆《東西冷戦》
*ユーゴがソ連から除名された1948年当時、アダミックをよく知り、ユーゴについてさまざまな議論をする機会のあった、元駐米ユーゴ大使YOZA VILFAN の証言は重要だ。1981年に開かれたアダミック国際会議・シンポジウムでこう語る。
「アダミックはユーゴがソ連から除名されたことをむしろ積極的、好意的に捉えていた。そしてその分裂を、米ソ超大国に従属しないレジスタンスの先触れとして、《非同盟》政策となるものの始まりものして見るアダミックの先見性」を信じた、としている。
*アダミックはユーゴについてすでに、米ソ超大国に従属しない「非同盟」政策の、明確な自主独立路線の考えを持っていたわけだ。

*アダミックは1949年1月にユーゴへ旅立つ。そして新政権まもない時期に、チトーをはじめ政権トップのあらゆる閣僚大臣と、ユーゴ・ソ連問題などさまざまな国際問題について討議をする。6ヶ月の滞在で、彼ほど時間をかけて新しく誕生した国ユーゴスラヴィアをつぶさに目撃し、旅し、多くの討議を重ねた者はいなかった。そして『鷲とルーツ』と『激震の中のチェスゲーム』の二冊の本を書き上げる。しかし彼はその出版をついに目にすることはなかった。

◇1946年 チャーチル「鉄のカーテン」演説。5年前ホワイトハウスでチャーチル、ルーズベルトと会談したときのアダミック回想録『ホワイトハウスの晩餐』を出版。その年の暮れ、ギリシアに関する記述でチャーチルに「文書誹謗」の廉で訴えられる。◇1947年1月ロンドンで敗訴。

 3月トルーマンドクトリン。6月共産圏を封じ込め政策、マーシャルプラン発表。10月コミンフォルム設置。 ◇1948年4月ソ連、ベルリンを封鎖。西側諸国、西ベルリンへの大空輸を開始。6月ユーゴ、コミンフォルムから追放、米国大統領選挙-アダミックは進歩党ヘンリーA・ウォーレス支援。

◇1949年4月NATO調印。10月 中華人民共和国成立。ソ連が原爆実験に成功。◇1950年2月マッカーシズム。6月 朝鮮戦争勃発。
◇1951年9月4日アダミックの死体で発見される。(死因は今も不明) ◇1952年5月『鷲とルーツ』出版/スロヴェニアでは20年後に翻訳出版されるが、ユーゴでは40年後まで発禁となる。



◆1949年1月から50年9月までのアダミックの行動範囲祖国ユーゴを再訪。

 1949年1月12日、アメリカからチェコのプラハへ、そしてプラハからユーゴ政府の手配した専用機でベオグラード空港に到着する。空港にはおびただしい人の数、盛大な歓迎を受ける。
 1932年にグッゲンハイム研究生として帰郷したときにも小説『暗黒の草原』を書くつもりであったが、軍事独裁政権下の緊急な祖国の情況を目撃してThe Native's Returnを書かざるを得なかった。そして今回も、10年間構想しすでに出版社から前金を受けていた小説『ミカエル・ノバクの教育』を書くつもりであったが、到着するなり新しく誕生したチトー率いるユーゴスラヴィアについての『鷲とルーツ』を書くことを決意する。8ヶ月余りユーゴに滞在。1934年と同様に今回もセルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ...全土を旅し、新しく誕生したユーゴ政府を記録して回る。

 6月末から7月半ばまでフランスに滞在、そしてイタリアへ。

 8月にアメリカ帰国、ニュージャージー州ミルフォードの自宅に戻る。異常な情熱で執筆にとりかかる、ユーゴ新政府がアダミックの本のために24人の助手らよって集めさせた資料の量は400ポンド(180キロ)に上る。ところがアダミックはほとんどそれを使用していない。500余りの引用/索引は自ら集めた資料と記録したものである。そして最初の原稿は1950年春までに完成する。

 しかし、突然自宅へ4人のエージェントが車で乗りつけ、本を出版するなら「命の保証はない」と脅迫うける。さらに右からも左からもさまざまな脅迫をうける。

 ミルフォードの自宅は危険だと判断して、車で妻の病気療養していたカリフォルニアへ向かう。10年ほど前に、地球2周半に及ぶ距離を旅し肌で知った「私のアメリカ」-しかしこれが最後の旅となる。

 ロサンゼル近くのマンハッタンビーチに家を借り潜伏。日夜、数時間仮眠して執筆にとりかかる。深夜、散歩中にいきなり二人の男から暴行をうける。またも脅迫。
十年間自ら刊行し続けた季刊誌、月間誌も、資金難のためにすでに停止していた。
一方、戦時中にチトーのパルチザンを支持したために、あの最も価値のある「エスニック百科辞典」のプロジェクトに対するカキーネギー財団による助成金も止められた。新聞雑誌などにはほとんど掲載できない。マッカーシー旋風のなか、ロサンゼルスタイムズ紙はアダミックを「悪名高いアカ...」と67回も叩いた。そんななか、ようやく新しい原稿が完成。

 6月、再び出版社と最終的な打ち合わせのためにニューヨーク市に戻る。身の安全のためニュージャージー州ミルフォードの自宅へは戻らなかった。しかし、たまたま加筆した原稿を秘書に渡すために自宅へ向かった1951年9月4日、遺体で発見される。ベッドにライフル銃を抱えた状態で、すでに頭部から太ももにかけて銃弾が貫通していた。何もかも不思議なことだらけだ。資料の散乱する家には、火がつけられ、すでにガレー ジは焼け落ちていた。炎の中でアダミックは発見されている。

 最初の原稿に関心を持っていたダブルデイ社の編集者は、なぜか「タイミング悪く」リタイヤしている。出版は、アダミックの死後9ヶ月たってから、妻のステーラとダブルデイ社のティモニー・セルデスに編集による。しかし「前書き」で三分の一を削除したというが、そのタイプ原稿が発見されたのはずーと後になってだった。そして更なる原稿が発見される。もちろん、ユーゴでは半世紀発禁書だ。不審な点は沢山あるが、アダミック研究者Dr.Janja Zitnikは、「ユーゴ政府の検閲が入ったことは確かだ」と結論づけている。そして中心部分のタイプ原稿もまだ不明。

◆『鷲とルーツ』の二つの祖国の書評-Dr.Zitnik
 他の同時代の作家たちと違い、アダミックの言動、執筆活動は、常に二つの祖国の「監視」下にあった点で非常にユニークだ。Dr.Zitnikの論文から引用。アダミックの遺著『鷲とルーツ』の書評は、相反する反応をもたらした。アメリカでは、アメリカの国内政治に対し不当に批判をしたこと、
 ユーゴに対しては主観的、理想的な状況の表わした、ということで大部 分拒絶された。一方ユーゴでは、アメリカ状況に対する批判が欠如している ことと、ユーゴの政治生活において受け容れがたい批判を行った、というこ とで完全に無視された。
 今日、『鷲とルーツ』(1952)が出版されて四十年以上経つ が、アメリカとスロヴェニアのアダミック研究者たちの判定は、この作家の 見解に、かなり接近してきている。文芸作品の真の重要性は、時間の経過での み評価されることができる。」


*「未出版のまま残された最も長い章『激震の中のチェスゲーム』A Game of Chess in an Earthquakeは書籍としても十分な長さであるが、しかし肝心な中心的テーマが欠落している。」とアダミック研究者Prof.Dr.Janja Zitnik は論文で指摘している。

「非同盟政策を採用した当時のチトーの国際的な役割は、『鷲とそのルーツ』の中では依然として論じられないままである。またその作品の中で論じられていた幾つかの重要な問題、つまり東欧社会主義のインパクトについても、或いはユーゴスラヴィアのような産業的後進国に対して西洋が経済的に援助する必要があるといったことなどについても同様だ。」と。 そして最後に Dr.Zitnikは、最も肝心なテーマがユーゴ政府の検閲により削除されたのではないかと結論づけている。

*そして政府が集めさせ準備させた資料類は膨大な量にのぼる。新生ユーゴ政府にとってアダミックへの期待がいかに大きかったかを物語ってもいる。それらをアメリカに持ち帰って、アダミックは「異常なまでの情熱」で本の執筆にとりかかる。しかし、「面白い」のは、アダミックはその資料を全くといっていいほど使用しなかったこと。使用したのは、アメリカで自分が集めた資料と、実際に自分の目で見、聞き、訊ねて取材した記録と、自分の記憶だけである。「情報」の価値を充分知り尽くしている、アダミックらしいところだ。


◆「アダミックの謎の死」
▽アダミックは、1952年9月4日午前四時、ニュージャージー州ミルフォード (Riegelsville, N.J.)の農家の自宅、二階の書斎で死体で発見された。ライフル銃を抱えた状態でベッドに横たわり、銃弾は頭部から腿に貫通していた。資料が散乱するなか書斎にはすでに石油がまかれ、発見されたときは炎に包まれていた。ガレージはすでに焼け落ちていた(その映像がネットに公開されている)。タイプライターに遺されていた最後の言葉は「Now is the time」。

▽例えば、同じ第一次世界大戦に従軍したローストジェネレーション世代で同年生まれ*のヘミングウェイは、1961年に猟銃自殺している。アダミックのちょうど十年後である。*アダミック は生前1899年の生まれで通していた。しかしアダミックの死は今も依然不明のままである。

▽スロヴェニアのアダミック研究者ジトニック女史Dr.Zitnikは、アダミックの遺著となった最後の作品『鷲とルーツ』の「編集」の後を克明に辿り分析した結果、何者かによる「殺害」と断定している。編集者は何を削除し何を削除していないのか、全ては遺された著作から解明している。

最初の原稿に関心を持っていたダブルデイの編集者は「タイミング悪く」リタイヤしている。妻のステーラとダブルデイ社のティモニー・セルデスに編集によって、アダミックの死後9ヶ月たって出版される。。勿論、ユーゴでは半世紀の間発禁書だ。しかし三分の一を削除したというが、そのタイプ原稿はずーと後になって発見された。そして更なるもう一冊分に相当する原稿が発見される。不審な点は沢山あるが、Dr.Zitnikは「ユーゴ政府の検閲が入ったことは確かだ」と結論づけている。

アダミックは、1952年9月4日、ニュージャージー州ミルフォードの農場の自宅、二階の書斎で死体で発見された。ライフル銃を抱えた状態でベッドに横たわり、銃弾は頭部から腿に貫通していた。自宅は石油がばらまかれ、発見されたときは炎に包まれていた。ガレージはすでに焼け落ちていた。アダミックは1930~40年代FBIその他アメリカ諜報関係の監視下にあったが、公開されているFBIファイルを読むと、アダミックのミステリアスな死についてやはり、「自殺」でなく海外の何らかのエイジェントによる「暗殺」ではないかと疑っている。

さまざまな疑問点
・果して、引き金を引いて後ライフル銃を抱えた状態に戻すことができるだろうか。
・ライフル銃の引き金から指紋は検出されなかった。
・銃弾の角度からして自分で引き金を引くことは無理。
・石油缶からは指紋は全く検出されなかった。
・最初に発見した消防士らは火災の状況から自殺を不審がる。
・遺体はすでに冷たく硬くなっていたという報道もある。
・死後数年たって、友人から借りていた$12000余りの金が廃墟となった家から発見された。なぜ死ぬ前に返さなかったのか?...
・ニューヨークタイムズ紙は「アダミックは殺害されていたが、検視官は自殺と断定した」。
・ニューズウィーク誌は「連邦検察は自殺と断定したが、ユーゴから弟が再調査を依頼、その結果、米連邦検察は自殺を撤回し不明とした。」
・アダミック夫人は再調査を依頼しなかった。
・さまざまな脅迫、そして何者かによる殴打の暴行も実際に受けていた。

◆REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies.
アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。英米の探偵小説界では、超一流の作家としてきわめて評価が高く、現在でも非常に人気のある作家、それに比べれば日本では未訳の作品も多く、不遇の作家の一人。
蘭と美食とビールをこよなく愛するネロ・ウルフは、ドアの外へ一歩も出ずに事件を解決するニューヨークの名探偵。どんなに金を積まれても動かないウルフ。だが、親友の死が彼の巨体を動かした。飛行機を乗り継ぎヨーロッパへ。ナップザックにチョコレートを詰め込み、アドリア海を渡る。チトー政権下のユーゴスラビアを目指して。『ザ・ブラック・マウンテン』ネロ・ウルフ著 翻訳: 西貝マリ Pb:しゅえっと(Chouette)
◇REX STOUT and ADAMIC were Friends And frequent Political Allies. According to John McAleer's Edgar Award-winning Rex Stout: A Biography(1977), it was the influence of Adamic that led Rex Stout to make his fictional detective Nero Wolfe a native of Montenegro, in what was then Yugoslavia. レックス・トッドハンター・スタウト(1886~1975)アメリカの小説家で、〈私立探偵ネロ・ウルフ〉シリーズの生みの親。

*日本語訳 『ザ・ブラック・マウンテン』The Black Mountain(1954) ネロ・ウルフ (Nero Wolfe) http://bit.ly/cwkD4i  Pb:しゅえっと(Chouette)

"Adamic was an interesing and complicated man, with genuine literary ability and great personal dignity. Tall and lanky, Adamic somewhat resembled Henry Honda, even moving with an awkward grace similar to the movie star's. Because he was five years older than I, he sometimes talked to me in a fatherly manner....He had a hearty explosive laugh and and loved to listen to jokes, though he himself was an an inept story teller who always ruined the punch line." - "Good-bye, Union SquareUnion Square   A Writer's Memoir of The Thirties" by Albert Halper 1970


*〈私立探偵ネロ・ウルフ〉はアダミックの影響だった。Nero Wolfe is a fictional detective, created in 1934 by the American mystery writer Rex Stout."I got the idea of making Wolfe a Montenegrin from Louis Adamic," Stout told McAleer. Everything Stout knew about Montenegrins he learned from Adamic's book The Native's Return (1934), or from Adamic himself, McAleer reported.


*アダミックは世界でもアメリカが最も進んでいる国だとおもっていた、しかし世界のどこにも「自由」の誕生を見なかった!マーチンルーサー・キング牧師もアメリカに「自由」の誕生を見なかった!


Michael Movak
--Adamic's outline for "The Education of Michael Novak" revisions this longing for heritage. Adamic portrays an accomplished ethnic American's impulse toward understanding, rather than a return to circumscribed ethnic roots.Through Novak, Adamic implied that one's culture is always being constructed and cannot be contained within geographical boundaries.-- Dan Shiffman, "Rooting Multiculturalism: The Work of Louis Adamic" 2003 Fairleigh Dickinson Univ Pr





▽ 生誕100年記念祖国スロヴェニアで切手となったルイス・アダミック。
Znamenite osebnosti - Louis Adamic 



Tuesday, July 06, 2010

ルイス・アダミック雑録③- Louis Adamic on Twitter

③ルイス・アダミック雑録- Louis Adamic on Twitter
『私のアメリカ1928-1938」・全米講演要約・『日本人の顔をした若いアメリカ人』・「多様性の統一」・The Common Council for American Unity (CCAU)・「共に生きる社会」・日系アメリカ人・(個人)定期刊行物ジャーナル1940-1950年・季刊誌「COMMMON GROUND」・『多くの国々から』FROM MANY LANDS
①アダミック雑録  ②アダミック雑録  ③アダミック雑録  ④アダミック雑録  ⑤アダミック雑録

改定中

1938年「私のアメリカ 1928-1938」
 "My America, 1928-1938"(1938)は、アメリカ建国200年記念の1976年に、Da Capo Press社からFranklin D. Roosevelt and the Era of the New Dealの記録としてリプリントされた。

▽1930年代大恐慌下のアメリカのルポルタージュの傑作。

▽評論家アルフレッド・ケイジンはこう書いている。
「東はメイン州のポーランドから西はオレゴンまで、北はデトロイトから南はメキシコ湾まで、またニューヨークからハリウッドまで、アメリカには見るすべての人々にとって、そのそれぞれの型がある。移民としての過去が傍観者的な好奇心と生き生きとした民主的友愛主義を与えることになった、ルイス・アダミックなる作家の印象記録の大作 『私のアメリカ』のなかでは、アメリカは不思議な、しかし本質的には「進展--長い果てしない」を示す希望の国として、その姿を示している。」p586『現代アメリカ文学史』 大橋/佐伯/杉木他訳 南雲堂 ALFRED KAZIN/ON NATIVE GROUNDS 

▽「私のアメリカ1928-1938」My America 1928-38の前書きでこう書いている。
Since 1931 I have traveled perhaps 100,000 miles in America, by train, by automobile, by plane, as well as afoot, pausing here and there to look and listen, to ask questions, to get "the feel of things"; and I have developed, I think, a fairly steady feeling about the vast place, which I hope the ensuing pages will at least partly convey to the reader.

1930年代の世界恐慌下のアメリカを、彼ほど方々を旅し多くの人に会った作家はいなかった! スロヴェニア人移民としてのアメリカへの思い。アダミックにとって1928年まではアメリカは「誰も知らない国」であった。「America was a Land Nobody Knew...」。しかし、地球二週半に及ぶ距離のアメリカを旅し、さまざまな経験からアダミックはアメリカを体で実感として知った。そして最後にこう結ぶ。「いつの日私はアメリカを芸術作品にしたい」 "I want America eventually to become a work of art."  "My America" p662


"In Adamic's eyes the Slovene nation is traditionally oriented towards art." Dr.Zitnik


"Here I continue my American adventure in go on, as long as I breathe" My America

Stella Sanders
On the night Lindberg flew across Atlantic-I had met a girl, Stella Sanders..After dinner, we sat on the porch late into the evening, talking. She was lovely, intelligent. She had read a great deal, including something I had written, which she was "pretty bad."I think I fell in love that evening.... We met a few more times in Los Angeles...In 1931 we were married. MY AMERICA

自由の女神(the Stature of Liberty )
"... the culture of unity celebrating ethnic difference within cio organizing drives, the radical journalism of Louis Aadamic and his campagin to make the Stature of Liberty a sacred symbol of national inclution, and ethnic festivals that portrayed immigrants and their childrens as "redemptive outsiders" rather than as unwanted aliens.

The futures of American studies : Donald E. Pease,Robyn Wiegman

「共に生きる社会」
「共に生きる未来を築く」にはいかにすればいいか、アダミックは教育機関に切り込もうと考える。学校や図書館などあらゆる教育機関に働きかける、生徒だけを対象にでなく教える側の教育者をも啓蒙する必要がある。さらにラジオや教科書、出版物など、さまざまな情報機関にも普及させる。
国内の数百の外国語新聞にエスニックに関する論考を掲載し、「ブロードサイド」というアンケート用紙を考案して、十数万枚を外国を素性に持つ人たち宛てその質問状を送付し、その返事を書き、またその人たちに会い、そして全米を講演してまわり、...彼自らも「多民族国家シリーズ」(5巻) として書き出版する。しかし、アダミックは戦時中ユーゴのパルチザンを支持したことでカーネギー財団による助成金が打ち切られ、「エスニック百科事典」は歓声することができなかった。しかし彼の遺したものは、ゆくゆく50年代後半から台頭する公民権運動へと引き継がれていく。


 〔アダミックが創るアメリカという国のかたち〕
.Adamic felt these "new American were often oppressed by feelings of inferiority in relation to citizens of older stock. " "They had neither the old world stability of their parents ... they were ashamed of their families..." To wipe away feelings of inferiority, Adamic proposed "an organization which would give these millions of New Americans a knowleg of, and pride in their heritage, an understanding of their make up,..."
The organization would be " a great educational - culture work, the basic aim of which would be... to harmonize and integrate, so far as possible, the various social and cultural strains in our population without suppressing or destroying any good qualities in any of them, by using and directing these qualities toward a possible enhancement o the color and and quality of our national life." the expanded article "My America: 1928-1938"

"They are different from the old stock American. Their old world heritage is not England, but Poland, or Italy or Bohemia or Armenia or the Balkans etc. And the beginning of their vital American background as groups is not the glorified Mayflower but the as yet unglorified immigrant steerage; not Plymouth Rock or Jamestown, but Castle Garden or Ellis Island or the International Bridge or the Mexican or Canadian border." p296 My America

1930年代初めからアダミックは、「differencies(違うもの、異質なもの)こそ価値がある」という言葉をよく使っている。1934年に「3000万の新アメリカ人」という記事をハーパーズに載せていたが、彼はついにこれをアメリカの文化の型にしようとする。 「アメリカを異質なものたちのために安全にする」 to "make America safe for differences." これは外国人、移民、異人、マイノリィティ、変人、弱者、異形、エスニック、アウトサイダー、被偏見・差別者、被疎外者...らの意味のことだ。

アダミックは日系アメリカ人のコミュニティを訪ね、頻繁に彼らとコンタクトし、そして彼らから学び苦境を理解する。日系アメリカ人史研究の第一人者Prof.Yuji Ichiokaは、アダミックについてこう語る。

"Despite Adamic's flawed treatment of Japanese Americans, he should be acknowledged as a forerunner of the 1960s and duly credited for popularizing the idea of accepting ethnic and
racial diversity within our society. "Unity within diversity" embodied Adamic's conception of a new America in which, in the words of Rudolph Vecoli, a leading historian of ethnicity in American
history, "a pluralism of equality among groups as well as individuals" ideally would be realized. We have yet to witness the realization of such an ideal form of pluralism."

アダミックは(ヨーロッパの人間として)日系アメリカ人二世について誤解もあったが、ただ、Adamic had a "genuine" interest in Japanese Americans.

▽E PLURIBUS UNM: Louis Adamic And The Meaning Of Ethnic History by Robert F. Harney (President of the Canadian Ethnic Studies Association) 

アダミックが1938年に提案していたプロジェクト「エスニック百科事典」について、1980年にハーバード大学陣が完成させた。大戦中アダミックは祖国のチトーのパルチザンを支援したために基金が打切られ、そのプロジェクトを完成させることができなかった。

"The editors of the Harvard Encyclopedia of American Ethnic Groups end their ingenuous description of the Nation of Nations Project by citing Adamic's wistful opinion that his Project would be done somehow. They coclude: "the job has been one somehow. If they really believe that they have done the job Adamic the historian and public philosopher set out to do, the renovation of America's of herself, then they are as blind to his true purpose as are the new ethnicity's partisans." Journal of Etnic Studies 14:1(1986)


"Louis Adamic and the Contemporary Search for Roots" Rudolph Vecoli (University of Minesota アメリカ移民史研究所所長) Ethnic Studies 2(1978)
"Once American history and society are viewed from a pluralistic perspective, inequities, abuses, and repressions spring into focus. The new ethnicity is not simply a form of therapy to soothe bruised ethnic egoes. Rather the formation is a new historical consciousness, as in the case of Black Americans, is the very basis for concerted group action to correct traditional neglects and injuries. The new ethnicity, therefore, leads to the realization of a more fully democratic society committed to a pluralism of equality among groups as well as individuals. And that, I believe, was the essense of Louis Adamic's new conception of America."

ルイス・アダミックの1930年代全米講演要約
   http://www.synapse.ne.jp/saitani/kooen.htm


アダミックが創るアメリカの「多様性の統一」の文化。戦時下のアメリカ、まさにターニングポイントの時だった。アダミックがその局のトップ責任者となり、彼のリーダーシップでアメリカ社会を激変させる。The Common Council for American Unity (CCAU) was established in 1940, a reformation of the Foreign Language Information Services (FLIS), founded in 1918. Louis Adamic joined the FLIS Board of
Trustees in 1934.
①To help create among the American people the unity and mutiural understanding resulting a common citizenship, a common belief in democracy and the ideals of liberty, the placing of the common good before the interests of any from group, and the acceptance, in fact as well as in law, of all citizens whatever their national or racial origins, as equal partnersin American society.
②To further an appreciation of what each group has contributed to America, to uphold the freedom to be different,and to encourage the growth of an American culture which will be truly representative of all the elements that make up the American people.
③To overcome intorelance and discrimination because of foreign birth or descent, race or nationality.
④To help the foreign born and their children solve their special problems of adjustment, know and
value their particular cultural heritage, nationality. 



1940年 「日本人の顔をした若いアメリカ人」
「日本人の顔をした若いアメリカ人」の主人公日系アメリカ人チャールズ菊池の人種的偏見に対する苦悩を最もよく理解した。1930~50年、作家アダミックは少数民族、マイノリィティたちの人種的偏見、差別の防波堤だった。 エスニックアメリカのチャンピォンだった。

☆アメリカ人として生まれ、アメリカ人として育ち、教育を受けた「ぼく」は、ある日突然、自分の体内に東洋の血が流れていることに気づかされた。英語を話すジャパニーズ、父の心が解せないアメリカ人の「ぼく」は、いったい何者なのか!?
引き裂かれた心と肉体をひきずった「ぼく」は、どこからも受容されず排除される存在、異端者/ストレンジャーとして、ただただ一九三〇年代の流れゆくアメリカを彷徨するばかりだった。
若いアメリカ日系二世の心の葛藤をあますところなく記録し、この巨大なアメリカ社会の中で共に生きる未来を発見しようとした旧ユーゴスラヴィア出身の移民作家、「三〇年代アメリカ文学界の騎手」のひとりでもあったルイス・アダミックによる傑作。

▽.『日本人の顔...』の主人公チャールズ・菊地は、著者アダミックに後年こう書き送っている。「あなたおかげで、より肯定的な人生哲学と、この国だけでなく世界中のマイノリィティ・グループに共通する問題についての認識を得ることが出来たと思います。」 http://bit.ly/b3ebYU

▽Before Internment: "Unity Within Diversity"Louis Adamic and Japanese Americans 日系アメリカ人歴史研究における第一人者 Prof.Yuji Ichioka http://bit.ly/cTVcWS

日系アメリカ人をnew Puritansと呼ぶ
"Among immigrant groups proper, American citizens of Japanese descent who lived in the western part of the United States were, exactly at the time that Adamic popularized the reinterpretation of the immigrants as new Puritans, stripped of the rights as citizens and property owners and interned in detention camps-as a RACE (unlike German or Italian enemy aliens, who were generally detained only on the grounds of individual affiliations or political acts)."
History and memory in African-American culture by Genevieve Fabre, Robert G. O'Meally    by Werner Sollors http://bit.ly/cNhPqS

当時、本来の移民集団のなかで、一人種として市民権を剥奪され、財産を没収され、収容所に抑留された合衆国西部に住む日本人の血を引く日系アメリカ人たちを、「新しいピューリタン」と解釈して普及させたのはアダミックであった。アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人たちを、アメリカ独立の礎ともなったメイフラワー号でやってきた「新しいピューリタン/新清教徒」と解釈するアダミック。

アダミックの1930年代、40年代の苦闘の数々が結実して、1960-70年代にアメリカ合衆国をはじめカナダやオーストラリアで、多文化主義(multiculturalism)や文化多元主義が新たな国民統合の形態を示す国是として採用されるようになっていったのだ。

▽アダミックは、ヘミングウェイとほぼ同じ年、ローストジェネレーション世代で、第一次世界大戦に志願兵として米陸軍に従軍している。しかし祖国はアメリカの敵国である。Butsの苦悶のすえ入隊する。「わが祖国の同胞のように、小国の権利を守り、世界に平和をもたらすため...」とウイルソンの思想を信奉してのことだった。だからアダミックは第二次世界大戦前夜の日系アメリカ人やその他のマイノリィティ、エスニックアメリカンの苦境を十分認識できていた。

移民の自伝的物語『ジャングルの中の笑い』(1932)を初めて読んだとき、第一章の文体がよく似ている感じがしてリチャード・ライトの『ブラックボー』(1940)を思い出したが、奴隷船でやって来たアフリカ系アメリカ人の血を引く20世紀アメリカの黒人作家の先駆者ライトは、『アメリカの息子』を、そして移民船でやって来たエスニック・アメリカの先駆者アダミックは、自民族以外のさまざまな民族の個々の物語『多くの国々から』を、それぞれ1940年に出版した。

アダミックがアメリカの同世代の作家たちと全く違うのは、常に「二つの祖国」-スロヴェニア(ユーゴ)とアメリカの存在があることだ。これが彼を国際的なパースペクティブな眼を開かせ、ユニバーサルな精神を持たせることになった。その中で彼はもがき、苦しみ、ついには己に与えられた務めを果す。

1939年に出版されたアダミックの『日本人の顔をした若いアメリカ人』は、大学在学中に社会学論文として提出していた日系アメリカ人二世チャールズ菊池の根無し草の人生遍歴に基づいていた。二人はサンフランシスコで会い、アダミックは菊池によって提供された草稿に基づき菊池の物語を書き直した。

アダミックは幾度となく日系アメリカ人たちのコミュニティを訪れ、そしてこの本は日米開戦前夜、人種的偏見の苦境に立たされていた数多くの日系アメリカ人たちの心暖まる全面的な協力の下に完成された。主人公チャールズ・菊地は著者アダミックに後年こう書き送っている。「あなたおかげで、より肯定的な人生哲学と、この国だけでなく世界中のマイノリィティ・グループに共通する問題についての認識を得ることが出来たと思います。」

▼第二次世界大戦前夜、人種的偏見で苦境に立たされていた日系アメリカ人のリーダーたちも『私のアメリカ』の「3000万の新アメリカ人」を読み、そして自分たちのことを何か書くらしいということでアダミックを招待する。アダミックは全米の日系アメリカ人たちに会い彼らから学ぶ。

Yuji Ichioka, Before Internment: Essays in Prewar Japanese American History. Stanford UniversityPress, 2006.カリフォルニア大学 Yuji Ichioka氏は日系アメリカ人歴史研究における第一人者。 本書の "Unity Within Diversity"Louis Adamic and Japanese Americansは、アダミックの「多様性の統一」について重要。特に日系アメリカ人たちが強制収容所に送還される第二次世界大戦直前までの、アダミックと苦境に立たされていた多くの日系アメリカ人たち(リーダー)との交流は大変興味深い。アダミックはさまざまな日系アメリカ人たちに会い彼らから学んでいる。そして当時カリフォルニア大学の学生であった、『日本人の顔をした若いアメリカ人』の主人公チャールズ・菊地を紹介される。

▼『日本人の顔...』の主人公、サンフランシスコの根無し草の日系二世の若者の独白
 「ぼくらはアメリカ人だ。他のどんな人間になり得ようか、ぼくの例を考えてみよ。もしぼくがアメリカ人でないとすれば、ぼくは一体何者なのだ?ぼくにはこの国のあらゆる教えが沁み込んでいる。
これまでの経験、教育のすべてがアメリカ人であったし、民主的なものだった。...たぶんアメリカニズムとは、環境によって妨げられない、どこまでも耐えられる、内部の調和から生じる心的態度であり気持ちの持ち方であろう。ぼくにはそのような調和はない。
 東洋人の血を引く第二世代の大半の者にもそれはない。ぼくらはみな心理的に孤児だ。ぼくらは、移民の両親の過去に戸惑い、困惑し、自分の顔に悩まされている--もちろんこれは、アメリカ全体をも含んでいる。なぜなら、アメリカは自らの過去に当惑し、そしてアメリカ自身、依然として、人口の大多数がアングロ・サクソン系のアメリカ人だった、五十年か百年前のアメリカだと思っているからだ。」
そしてその後の数年間、日系二世に対する強制収容所体験、財産没収、さらに限りない屈辱の事件や出来事が続いた。


アダミックが創るアメリカの「多様性の統一」文化
アダミックが、あらゆる移民問題を扱う米国政府機関FLIS(海外広報行動局)の行政委員としてその地位に着くことによって、アメリカ社会が激変する。彼のその裏方としての貢献は大きい。彼の遺したものが、ゆくゆくキング牧師ら公民権運動へと引き継がれてエスニックブームが花開く。

The Common Council for American Unity (CCAU)
「アメリカ統一のための共同評議会」が目指した目標の中には、
「共通の市民権から生じる統一と相互理解をアメリカ国民の間に創ること」
「移民と新アメリカ人たちに関する記録を残すこと」
「彼らの特別な文化的遺産を知り評価すること」
「各グループのアメリカ貢献への理解を推進すること」
「不公平な差別的処置には反対の立場をとること」
「フォークロアを奨励すること」
さらに「われわれの人口のより新しい血統について充分な認識とそれに対する紙面を提供させるために、アメリカの歴史教科書を改訂すること」等があった。

そしてその目標を達成するには資金その他の努力によるものとし、具体的な計画を列挙している。先に書いたように主に教育全般についてである。

こうして1970年代のエスニックブームが花開き、カナダやオーストラリアなど「多文化主義」を推進する国ぐにへひろがっていった。さらに今後国際的にますます重要になっていくと思われる。アダミックはアイデンティを与えた人物といわれているのだ。

The Common Council for American Unity (CCAU) was established in 1940, a reformation of the Foreign Language Information Services (FLIS), founded in 1918. Louis Adamic joined the FLIS Board of Trustees in 1934.

移民、外国人問題全般を扱う米政府機関FLIS(海外情報行動局)は1918年に創設されている。1922年からはRead Lewisなるold-stock Midwesternerの移民のエクスパート、エリート官僚が監督している。なるほど、その男アングロサクソン系かもしれない。
そして1934年、14才で単身スロベニアから渡り数々の苦労の末に作家となった若いアダミックが理事として着任する。その年からこの機関はガラリと変わる。アダミックの強力なリーダーシップによって、僅か5、6年でアメリカの文化の型「多様性による統一」を実際に形作っていくのである。

アダミックのリーダーシップでアメリカ社会を激変させる。 CCFAU 
To help create among the American people the unity and mutiural understanding resulting from a common citizenship, a common belief in democracy and the ideals of liberty, the placing of the common good before the interests of any group, and the acceptance, in fact as well as in law, of all citizens whatever their national or racial origins, as equal partners in American society.
To further an appreciation of what each group has contributed to America, to uphold the freedom to be different,and to encourage the growth of an American culture which will be truly representative of all the elements that make up the American people.
To overcome intorelance and discrimination because of foreign birth or descent, race or nationality.
To help the foreign born and their children solve their special problems of adjustment, know and
value their particular cultural heritage,


 ▼アダミック全米講演要約 ―1930年代」訳。アダミックはFDRルーズベルト政権下FLISの行政委員として活躍したが、講演はその局の後援によるもの。http://bit.ly/d04Jdw

▼定期刊行物1940-1950年
1940-50年の約10年間、アダミックは季刊誌、月刊誌など個人の定期刊行物を出していた。内容は彼がその時期に関わったあらゆる問題、国内の移民、人種、民族問題、文化、歴史、内外の政治、第二次世界大戦、外交などで、その目的は「啓蒙」にあった。読者には何度か非営利であることをその中で語った。 読者はアダミックからすべてを学び終え、またアダミックがユーゴとりわけトリエステ問題に関わるようになり資金難も重なり、廃刊となった。これらの刊行物は、かつて「何かのために...自己を燃焼させたい」と自ら書いていたように、彼自身の10年間のたたかいの燃焼し尽くした記録でもあった。

季刊誌 Common Ground(1940-42)、月刊誌 In Re:Two-Way Passage (1942-43) 月刊誌 War and Post-War、月刊誌 The Bulletin of the United Committee of South-Slavic Americas (1943-44)、新聞 Today & Tomorrow(1945-)、3号からタイトルを変えて T&T: Trends & Tides (-1950)。

COMMMON GROUND
季刊誌「COMMMON GROUND」(1940-49)は、「アメリカ・エスニィティ史のキーフィギュア(鍵となる人物)」ルイス・アダミックによって発案され刊行されたアメリカ初のエスニティに関する総合的な文芸誌である。アメリカの「人種的-文化的状況」を探求し、さまざまな素性を持った諸民族・人種間の統一とその相互理解の創造に貢献することが目的で、その雑誌からはのちにラングストンヒュージのような黒人作家や、日系アメリカ人を含むアジア系、アフロ・アメリカン...など、さまざまな人種のエスニック作家たちが巣立っていった。そのスポンサーは、主流リベラル組織、主としてカーネギー財団によって創設された「アメリカ統一共同評議会」(ommon Council for Ameican Unity)によるもので、そのメンバーには エレノア・ルーズベルト大統領夫人、作家アーチボールド・マクリーシュ、評論家ヴァン・ワイク・ブルックス、作家パール・バックらが名を連ねていた。アダミックは、第二次世界大戦の緊急な問題に関わり、初代編集長として実質1年半(1940-42)携わったにすぎない。

COMMON GROUNDの理事には、Adamic, Van Wyck Brooks, Pearl Buck, Mary Ellen Chase, Langston Alvin Johnson, and Lin Yutang; 定期寄稿者にはその理事以外にArthur P. Davis, Max Lerner,Carey McWilliams, Archibald MacLeish, William Saroyan, and Sigrid Undsetその他。
*参照The Editing Of Louis Adamic 's Book The Eagle And The Roots" by Dr.Janja Zitnik 。

*Common Groundは一般に殆ど知られていなかったが、1981年にアダミック国際会議・シンポジウムで発表されたWilliam C. Beyer(ミネソタ大学移民史研究所)の論文 "Louis Adamic and Common Ground,1940-1949"に詳しい。 

Common Ground was a journal founded by Louis Adamic and Margaret Anderson in 1940 to explore "the racial-cultural" in the US. "The magazine was the brainchild of Adamic, a key figure in the history of US ethnicity" ― Michael Denning The cultural front: the laboring of American culture in the Twentieth Century : Michael Denning

彼らを、そして他の権利を奪われたマイノリィティ・グループを、「Americans All」として「共通の立場Common Grounds」で擁護していった。

▽1939年、アダミックはさまざまなエスニックの各機関、個人宛てに十数万枚のアンケートを送付する。その返事の一部、スコットランド人、ドイツ人、ロシア人、ユダヤ人、イタリア人、ポーランド人...を「多くの国々から」に紹介しているが、以下は「黒人の教師」からの例。

「アメリカン・デモクラシーはある一部の民族集団によって享受されているだけです。黒人の教師たちは白人の教師同様にアメリカン・デモクラシーを指導するように求められています。しかしこういった理想主義は存在しません。学生たちはすぐにその授業の過ちに気づきます。機会の扉は閉ざされています。/...黒人は、陸軍にも海軍にも入隊できない、自分の国のために死ぬことさえできないのです。... 黒人たちが立ち上がるチャンスを与えられ、一人の人間として、彼らの潜在的な天性の能力、才能が発揮できるように...アメリカの心を、彼らがオープンにさせてほしいと私は祈っています。」

第二次大戦以降1940代に出版された作品
From Many Lands『多くの国ぐにから』(1940年)、Two-Way Passage 『二つの道』(1941年)、『What Is Your Name? 』(1942年) 、『Inside Yugoslavia インサイド・ユーゴスラヴィア』(1942年)、 My Native Lands 『わが祖国』(1943年)、 A Nation of Nations 『多民族国家』(1945年), Dinner at the White House 『ホワイトハウスの夕べ』(1946年) 


1940年 『多くの国々から』 FROM MANY LANDS

☆『多くの国々から』は「世界の人種関係において1940年度の最も重要な本」としてジョン・アニスフィールド賞を受賞。

▽アメリカの代表的な黒人作家リチャード・ライトは『アメリカの息子』Native Sonを出版し、アダミックは『多くの国々から』From Many Landsを出版した。アダミックはその中でドイツ系ユダヤ人の二世、日系アリカ人二世、フィンランド系、メキシコ系、ギリシャ系、オラ ンダ系アメリカ人、そしてクロアチア、ボヘミア、ポーラ ンド、スロベニア、アルメニアなどの個々の民族集団の物 語を扱い、さらには黒人やアメリカン・インディアンの問 題にまで言及した。

アダミックのアメリカの1930~40代のアメリカの文化的貢献は素晴らしい。ハーバート大学の編集陣は1981年に「エスニック民族辞典」を出版し、アダミックが1938年に『私のアメリカ』の中ですでに企画したプロジェクト(資金難で実現できなかった)を実現させた。その献辞は

☆"The future, ours and the world's, s in unity within diversity."...we have a chance to create a universal, a pan-human culture, more satisfying than anything humanity has as yet devised or experienced. 1940

『多くの国々から』の第一章は、 ユダヤ人である「苦境に立つ男-医師スタインバーガーの物語」だ。国際的に名声を得てもユダヤ人であることを忘れることができないユダヤ人。" The Jew is a great possibility." I asked him... He smiled."I don't mean only the Jew is a great possibility. Man-HUMANITY IS A GREAT POSSIBILITY."

"For one thing,the Indians‘invaded’Washington caring signs like:
一例を挙げれば、インディアンたちは次のような標示を掲げてワシントンに「侵入」してきた。「一体お前たちはどうして(自分の祖国)に戻らないのだ?お前たちはよそ者じゃないか?もう一度バッファローを放牧させろ!」-Lアダミッが論じたのはなんと70年前。

WHY DON’T YOU ALL GO BACK,YOU DEAN FURRINERS? LET THE BUFFALO GRAZE AGAIN!"  From Many Lands 



"The ultimate test of the American civilization probably will come with the success or failure of efforts to solve the Negro question." From Many Lands p309


"My purpose... is to begin exploring our American cultural past... imaginatively and creatively, with eyes to the future, ...to sink our roots into our common American subsoil, rich, sun-warmed and well watered, from which we still may grow and flower. " 

*奴隷船でやって来たアフロ・アメリカンの血を引くライトは『アメリカの息子』を、そして移民船でやって来たエスニック・アメリカの先駆アダミックは、自民族以外のさまざまな民族の個々の物語『多くの国々から』を、それぞれ1940年に出版した。

*アダミックのジャーナリストとしての本領を発揮するのは、1940年からの10年間だ。30年代から集大成としての人種、民族、マイノリィティらに対する偏見・差別との闘い、次に第二次世界大戦下のファシストとの闘い、そして1947年頃からアダミックの死までのアメリカ国内だけでなく国際的問題に関係する。最後も闘いは、ひょっとすると戦後の世界史においても重要かもしれない。

マッカーシーズムその他アメリカの国内政治問題、朝鮮動乱、スターリニズム、非同盟の道を歩み出したユーゴのとの関係、アダミックは朝鮮動乱を第三次世界大戦の始まりと見ていた。
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