Saturday, October 05, 2013

《翻訳》ルイス・アダミック国際会議・シンポジウム---人生・作品・遺産----「スペクトラム」 ミネソタ大学移民史研究所編(IHRC)The International Conference & Symposium on L Adamic


「ルイス・アダミック国際会議・シンポジウム---人生・作品・遺産」---「季刊スぺクトラム」 ミネソタ大学移民史研究所編(IHRC)

 

 
 

 

   Louis Adamic(1898-1951):His Life ,Work,
  and Legacy-SPECTRUM
  Immigration History Research Center--
  University of Minnesota 1982

  翻訳 田原正三 Trans: Shozo Tahara

 



 

20世紀 移民のアメリカと故チトーのユーゴスラヴィアを代表する著名な作家、改革者、そしてスポークスマンでもあるルイス・アダミックは、1930年代初頭からその死の1951年まで、文化的、政治的に重要な人物であった。ごく最近アダミックは、アメリカにおいて、目下流行しているエスニック・リバイバルの主要な先駆者として、また、ユーゴスラウィアにおいては、新連邦共和国を代表する海外からの強力な唱道者として、熱烈な歓迎を受けています。
 
こうした新たな関心のために、アダミック没後30周年を記念して、アメリカのセントポール市ミネソタ大学移民史研究所(IHRC)とユーゴスラヴィアのリュブリャナ市エドヴァルド・カルデリ大学は、二つの国際会議・シンポジウムを計画しました。その一つは、ミネソタ州セントポール市において1981年5月29、30日両日に開催され、もう一つは、スロヴェニア共和国の首都リュブリャナにおいて1981年9月16、17、18日に開催されました。
 
 今回発行の本季刊誌『スペクトラム』(Spectrum) は、ルイス・アダミックに焦点を当てました。彼の人、作品、そして遺産を、シンポジウム参加者が口頭でポートレイトすることによって報告します。それはまた、今後さらに研究を深めるために、参加者の提言に注釈を付け、手短に当研究所他に現存する資料を論評します。

 



「人と遺産」(概略)

 
 ルイス・アダミックは、1898年3月23日、元オーストリア・ハンガリー帝国の一公爵領(現在のスロヴェニア共和国)に、比較的裕福な農家の長男として生まれた。1913年ママ、15歳のとき、 Alojzij または "Lojze" Adamicは、しかしのちに Louis Adamic と名乗ることになるが、アメリカへ単身移住した。最初は、ニューヨーク市のスロヴェニア語系の新聞社『グラス・ナローダ』で働き、その後、肉体労働に従事した。1916年、合衆国陸軍に志願し、1917年に米国市民権を取得した。軍隊には1923年までとどまった。
 
 軍隊にまだとどまっていた時から、スロヴェニア作家の翻訳や彼自身の作品を発表し始めた。アプトン・シンクレアやH.L.メンケンらに励まされ、そしてケアリー・マックウィリアムズのようなカリフォルニア作家を目指しながら、若きスロヴェニア系アメリカ人は、1920年代に作家としての地位を確立し始めた。世界恐慌が起きた1929年末、カリフォルニアを後にニューヨーク市に住むようになった。
 
 すでに1931年までに、アダミックはその後の人生を特徴づけるような、荒々しい境遇に身を置いていた。その年、最初の重要な作品、『ダイナマイト』Dynamite: The Story of Class Violence in America が出版され、そして、ユダヤ系アメリカ人のステーラ・サンダースと結婚する。自伝的な作品『ジャングルの中の笑い』Laughing in the Jungle は1932年1月の段階ではまだゲラ刷りであったが、5月までにアダミック夫妻は、受賞したグッゲンハイム財団フェローシップによりヨーロッパへ旅立つことになった。
 
 フェローシップ年の間、20年近いご無沙汰であった故国の、温かいがしかし批判的な物語、『帰郷』The Native's Return (1934) を手がけはじめた。その作品は、月間図書選書に収められ、2年間の全米ベストセラーとなった。それによってアダミックは、アメリカとユーゴスラヴィア両国における、文学的な才能を持った、論争的な人物として定着されるようになった。その本の成功により、全米の講演依頼が彼にもたらされた。重度の"どもり"にもかかわらずアダミックは、1930年代を通して、頻繁にそして広範囲にわたって講演旅行を行なった。
 
 この十年間アダミックは、4種類の本と、膨大な量の記事を書き、さらにユーゴスラヴィア君主制に対するレジスタンス運動の長編の翻訳を手がけた。なかでも最も重要な作品は、『私のアメリカ』MY AMERICA (1938)で、そのなかで、『ジャングルの中の笑い』以来の彼自身のアメリカでの長期滞在のことを語り、また、『ハーパーズ・マガジン』のような定期刊行物に講演旅行のことや、さまざまな調査に関する記事を掲載することによって、その物語を1928年から1938年間のドキュメンタリーのようなものへと拡大させた。大恐慌下時代にアメリカを理解する多くの著作のなかで、『私のアメリカ』は、おそらく、最も知覚鋭い作品であろう。1930年代のアダミック作品は、一般民衆の普遍的な関心事の一部でもあった。たとえば、ユーゴスラヴィアのストライキ、アメリカの労働運動、ユーゴスラヴィアの政治に関して徹底的に書いたが、なかでもとくに知覚鋭く書いたのは、「新」移民とその子供たちについての、『三千万の新アメリカ人』"30,000,000 New Americans" という影響力のある作品で、その記事は1934年11月号の『ハーパーズ』誌に掲載された。
 
 こうした移民の社会的重要性にたいする深い関心によって、アダミックは、1934年に「海外情報報道局」Foreign Language Information Service (FLIS) に加わり、共に力を合わせることになった。「海外情報報道局」は、第一次大戦以来、「アメリカを在留外国人に、在留外国人をアメリカの意に解する」ように努めてきた、連邦政府の行政機関である。アダミックの関心もまた、彼自身の移民としての経験と、彼ら在留外国人とアメリカとのあいだの適応を詳細に記録する、壮大なプロジェクトを思い付かせるようになった。そのプロジェクトの成功を手助けするために、彼は全米のありとあらゆる人々から情報を求めた。数千におよぶ機関や個人がこの求めに応じ、また、「すべてのアメリカ人に文化的な民主主義を」というアダミックの求めに答えてきた。これらは、1940年代初めに書いた4冊の本の基になり、そしてそれらを、ウォルト・ホイットマンがアメリカを「多民族による一つの国家」と記述した、その呼称の元に分類することにした。
 
 第二次世界大戦が脅威になると、アダミックは、戦争が国内でエスニック・グループ関係におよぼす影響と、海外の小国の保全に、とくに祖国ユーゴスラヴィアに及ぼすその影響に、次第に関心を持つようになった。「多民族国家シリーズ」のなかで、「旧いアメリカと新しいアメリカの知的、感情的統合」と自ら呼んだものに帰着する、アメリカ史の改定に着手した。彼の見解では、エリス島は、アメリカ人たちに敬意の念で崇められているプリマスロック同様に、シンボルとなるべきであった。さらに、出版物によってこうしたアメリカの自画像の改定を唱導しつつ、それを成し遂げるべく、自らも支援した、以前のFLISを新しい形に組織変えした「アメリカ統一のための共同評議委員会」Common Council for American Unity を通じて、また、この初代編集長となった新しい組織の機関誌『コモン・グラウンド』Common Ground  を通じて、とりわけ精力的に取り組んだ。アメリカ初のエスニック季刊誌、『コモン・グラウンド』誌(1940-1949)は、国内の知的な教育者や、公民権活動家や、エスニックの作家たちにとって、きわめて重要なフォーラムになったのである。
 
 「多民族国家シリーズ」の第一巻、『二つの道』 Two-Way Passage (1941) のなかで、アダミックは、アメリカの果たすべき戦後再建の役割を、旧いアメリカと新しいアメリカの統合という観点から、正確に定義づけた。エスニック・アメリカ人たちは、彼らの出自であるそれぞれの祖国においてアメリカが再建するその努力に対し責任がある。そして、それに関連して、アメリカの民主的な理想を彼らの祖国の再建に最も効果的に吹き込むべきだ、というものであった。
 
 戦争中のユーゴスラヴィアに対する関心により、次第にアダミックは、自分がヨシップ・ブロズ・チトー率いるバルチザンを代表して、アメリカ高官のロビー活動に係っているのに気づいた。『わが祖国』My Native Land (1943) のなかでアダミックは、パルチザンにたいする支持と、戦後のユーゴスラヴィアにたいする自らの希望を説明した。この大義を押し進めるために、アダミックは組織化を手助けし、その後、新しく創設された「南スラブ系アメリカ人統一委員会」United Committee of South Slavic American の代表に選ばれることになった。これは、アメリカにおけるユーゴスラヴィア系アメリカ人最大のロビーであり、アダミックはその組織の機関誌『ブルティン』Bulletin を自ら創刊し編集した。
 
 戦争中そして引き続き戦後も、チトー支持の立場をとりながら、その上アメリカが、公正な社会として又世界のリーダーとしてあるべき国家であるべきはずなのに、その約束が崩壊として見たアダミックの批評は、米国内で次第に非難を浴びるようになった。1948年に米大統領候補ヘンリーA.・ウォレスの「進歩党」を支持したことで、アダミックはアメリカ政治の主流からはずされることになった。彼は、議会とメディアの双方から、コミュニストとして攻撃を受けたのだった。
 
 一方、アダミックは、海外における戦後の再建と、ユーゴスラヴィアが東西の陣営から次第に孤立していくことに、深い関心を寄せるようになった。1949年の下半期に、彼はユーゴ全土を旅して回った。ユーゴが、ソ連邦によって操られていたコミンテルン(欧州共産党情報局)から1948年6月に追放されたその影響を、じかに判断したかった。最後の作品となった『鷲とそのルーツ』The Eagle and Roots は、彼の死後1952年に出版されたが、これはこの旅のあいだに体験した審判を含んでいる。この本は、もう一冊の本『欺瞞』The Big Lie を含む、実際にはさらに大部の遺稿の一部にすぎないが、そしてそれらは今も出版されていないけれど、アメリカの評価の尺度となっている。
 
 アダミックの最後の数年間は、精神的な苦悩が影のように付きまとっていた。政治的圧力が彼の身に重くのしかかり、それと同時に個人的な心配事に悩まされていた。最後の本は概念上の問題が彼を苦しめた。煩わされた結婚、そして長年にわたるオーバーワークが、彼をすっかり疲労困憊させてもいた。1951年9月4日、ニュージャージー州の農場の自宅で、銃弾に倒れた。それが殺人によるものか、それとも自殺によるものか、今なお議論が続いている。

  


 

「遺産」


ルイス・アダミックの作品は、アメリカやユーゴスラヴィアの知識人たちにとり長年標準的な読み物であったが、死後ばったり、少なくともアメリカではほとんど読まれなくなった。このようにアメリカで無視されたのは、一部には、1950年代初頭のマッカーシズムが原因である。「共産主義者」のプロパガンディストならともかく、軽量級の通俗書の著者としてならとっくに忘れ去られたであろう。しかしながら、彼の人生と作品にたいする関心は、近年、アメリカとユーゴ両国で静かに高まりつつある。
 
アダミックは、今日、多くの理由で関心を持たれている。大西洋を挟む両側の国々の歴史や、文学、公的(政府による)政策を学ぶ学生たちは、アダミックを重要な人物として発見しつつある。1930年代および1940年代の現代アメリカ史研究の多くは、エスニィティが政治や文化に及ぼした影響を研究している。頻繁ではないにしても、こうした影響がまさに危機を孕むそうした状況の際に、アダミックは発見されるのです。アダミックは、アメリカ・エスニック文学のパイオニア作家として、その擁護者として再発見されている。一方、ユーゴスラヴィアでは、彼の評価は現代スロヴェニア文学の主要な力として成長し続けている。アメリカにおける「旧家柄 (old‐stock) 」とエスニックとの文化間の媒介者として果たした彼の役割は、アメリカとユーゴスラヴィア間同様に興味をそそるものだ。米国・ユーゴ両国政府の公的政策に影響を及ぼしたアダミックの、エスニック・リーダーとして、また、教養あるリーダーとして果した営為もまた、興味を惹きつつある。
 
アメリカではアダミックは、主として、今日のエスニック・リバイバルにおいて称賛された多元主義的アメリカの初期の預言者として、注目されている。われわれの時代のエスニック運動は忘れやすいものだ。ハーバード大学の研究陣による 『アメリカ・エスニック・グループ・ハーバード百科辞典』 The Harvard Encyclopedia of American Ethnic Group (1981)  は、その序文で、アダミックがすでに My America (1938) のなかで同様のプロジェクトを提案していたことを発見する前に、彼らの仕事と考えが一致していたことに敬意を表した。
 
ユーゴスラヴィアでは、アダミックは同様に同時代的な重要性を持っている。目下、ポスト・チトー時代へと動いているが、ユーゴスラヴィアの初期の友人として、新政府誕生の国外からの時代の証言者として、読み継がれている。故国での声価の基準となるのは、最近出版された往復文書に関する広範なコレクションであり、『鷲とそのルーツ』 The Eagle and Roots  の再版であり、そして、新しく学問的な解説を付した、アダミックのほとんどの著作の再販が計画されていることである。



 
 
 

「シンポジウムについて」(THE ORIGIN OF THE SYMPOSIA)

 

アダミック国際会議に際し、まずその案として、1977年にエドヴァルド・カルデリ大学の Prof. Vladimir Klemencicとミネソタ大学のProf. Rudolph J. Vecoliの二人の対話から始まった。彼ら両大学の総長および学長は、引き続き両国の研究者を含む形で、大西洋を挟んで催された、二つのシンポジウムの共同スポンサーに同意した。
Prof. Vecoli は、「セントポール・シンポジウム」を、コーディーネーターの Willia C. Beyer IHRC のスタッフSandra KeithPatricia Wasson と共に組織した。National Endowment for the Humanities による多額の研究助成金と、Slovene National Benefit Society および Progressive Slovene Women of Americaによる財政援助が、セントポール会議を可能にしてくれた。さらに多くの個人、機関が地元での準備、祝賀会、そしてアダミックの記録の展示等に協力していただいた。会議セッション、晩餐、展示がInternational Institute of Minnesota で開かれたが、そこでは、アダミックが1941年に絶賛して書いていた、有名な民族の祭典 (Festival of Nations) が披露された。
スロヴェニアの大学学長会員で、リュブリャナの法学教員の民法学者Prof. Vida Tomsic は、ユーゴスラヴィアにおける「ルイス・アダミック没後30周年記念委員会」Committee for the Commemoration of the 30th Anniversary of the Death of Louis Adamic の準備を指揮した。Prof. Janez Stanonikは、Jerneja Petric その他助手らとともに、アカデミックなシンポジウムを計画した。「リュブリャナ・シンポジウム」における手際のよい組織化、そしてあたたかいもてなしには、数々のディナーや、正式に催された二度のレセプション、コンサート、そして現在小さな記念館となっているアダミック生家への訪問が含まれていた。
 
 



 

「セントポール・シンポジウム」(THE ST. PAUL SYMPOSIUM)

 

セントポール市でペーパーを提出した22名の研究者のうち6名が、正式のユーゴスラヴィア代表団を構成した。その代表団には、前ユーゴスラヴィア国連大使 (Dr. Joza Vilfan) 、アダミック家の代表 (Prof. Tine Kurent) 、国立大学の研究者 (Prof. Ivan CizmicProf. Janes Stanonik) 、そしてさらに若い大学教員 (Matjaz klemencicJerneja Petric) らが含まれていた。セントポールを後にした一行は、シカゴ、ピッツバーグ、ニューヨーク市の小規模なアダミック祝賀会に参加した。
本誌の手短な報告のなかで、セントポールで朗読された22のペーパーとリュブリャナで朗読された39のペーパーが、すべてではないけれど、要約された。リュブリャナ会議の議事録はユーゴスラヴィアで出版され、セントポールの議事録の出版は現在計画されている。本シンポジウムでは、アダミックの行動と思想の中心的な面に焦点を合わせた、プレゼンテーションがなされた。
セントポール・シンポジウムは、Janez Stanonic によって略述されたアダミックについての研究概観と、Henry A.Christian による感服せざるを得ないアダミックの人物ポートレイトで始まった。プリンストン大学図書館のアダミック・ペーパーを監督されているChristian は、アダミックの原稿や出版物から慎重に選り抜いて引用し、ニュージャージー農場で撮影されたホームビデオから引き合いに出すなどして、アダミックの人間像を呼び起こした。
引き続きセッションのなかで、スロヴェニア系アメリカ人に関する記事をHarvard Encyclopedia of American Ethnic Groups に執筆したRudolf Susel は、アメリカへ渡ったスロヴェニア人の移住の概要を述べた。その後のセッションでは、アダミックの文学遍歴、文化的民主主義運動に没頭したこと、チトーのパルチザンを唱道したことなど、そうした話題の周辺にまとめられた。
参加者の大部分はアダミックを、小説家または文芸批評家のいずれかの点で、一流とまではいえない作家として置いた。彼の二つの小説、Grandsons1935) Cradle of Life (1936)は、メロドラマ風で、説教的で、プロパガンダふうの失敗作であると非難された。アダミックは、「これらの小説に自己の芸術的限界を超えたと見た」のではないか、とRose Possen は推断した。
文学的な影響を鋭く分析するなかで、Danica Dolenc は、アダミックの圧倒せんばかりの個性と、彼の自称弟子で同胞のスロヴェニア系アメリカ人作家、Frank Mlakar のより大きな才能を挫く、アダミックの了見の狭い文芸展望を発見した。Dolenc は、Mlakar の唯一の小説He the Father を、アダミックの小説よりも優れているとみなす。Jerneja Petric は、アダミックを文芸理論家でも洞察力の鋭い文芸批評家でもない、と評した。その主な理由は、「芸術作品をもっぱらイデオロギー的な視点から評価したから」と述べた。
アーティストとしては欠けているものがあるにせよ、しかし時事問題に関しては、アダミックは人を惹きつける解説者であり、知覚鋭いリポーターであったことが認められた。表向き自伝的なLaughing in the Jungle (1932) を他の研究資料と比較しながら、John L Modic は、アダミックの執筆が何故それほどに魅力的なのかを明らかにした。「人はアダミックの第一人称の語りの中における細部を疑う者がいるかもしれないが、しかし、真実のエッセンスは、超自然的な方法では、常にそうしたものの中にある」と述べた。
アメリカの労働運動についてアダミックの視点を分析しつつ、Rudolh V.Vecoli は、アダミックは労働者の心理を鋭く理解している、と力説した。1930年代にアメリカの労働者たちは革命を準備している、と多くの者が信じていたが、アダミックはそういう考えに惑わされなかった。アダミックの労働者にたいする共感のために、"共産主義者"とレッテルを貼られたけれど、彼はマルキストではない、とVecoliは論じた。実際、アメリカに代わるコミュニズムにたいして堂々と反対したからだ。それに代わって、アメリカのプラグマティズムは国内問題に解答を提供できる、とVecoliは考えた。Ivan Cizmicによる、現代生活についてのアダミックの知覚鋭い明敏な記述は、シンポジウムの話題をさらった。Cizmicは、The Native's Return (1934) の聡明さ、1930年代初頭のユーゴスラヴィアにおける洞察力の鋭い人物描写を賞賛した。
参加者たちは、幾つかのセッションで、アダミックが「新アメリカ人(新着の移民とその子供たち)」を代表して唱導したこと、また、エリス島 がプリマスロックと同様に重要であるという、彼のアメリカについての考えを論じた。Richard Weiss は、文化的な民主主義を目的とする運動におけるアダミックの役割を明らかにした。このWeissが発見した運動とは、多元的な社会を育成するというより、むしろ分裂を克服して、「新アメリカ人」たちを国家的な文化に融合させることを狙ったものであった。
それとは対照的に、Nicholas V Montalto Wiliam C. Beyer は、アダミックの理想像とする多元主義の規模を強調した。Montalto は、戦時中に多元主義教育運動を代表するアダミックの努力において、彼の多元主義の信ずべき根拠を発見した。Beyerは、「アメリカ統一評議委員会」Common Council for American Unityの創設と、その季刊誌『コモン・グラウンド』Common Ground 誌刊行に力を尽した、アダミックのダイナミックなリーダーシップを評価し、アメリカの文化的多様性に関して彼は、その季刊誌に将来の明るい展望を定義している、と考えた。
Fred Mattthews Robert F. Harney は、アメリカの多元主義について思考するアダミックのその貢献に話を向けた。Matttews は、エスィニティの経験主義的現実を喝破するアダミックの洞察力を賞賛した。アダミックを Horace KallenMichael Novak と比較して、Mattthews は、「実行可能な多元主義社会の特徴となる意識とアイデンティティ感覚の性質を記述したものは……アダミックのほうがより豊かで歴史的にも正確である」と結んだ。アダミックのエスニックについての歴史記述に共感しつつも批判的な議論のなかで、Robert F Harneyは、あらゆるアメリカ人に民族的誇りとルーツの意識を与えた彼の熱意において、先祖を過度に崇拝しているのでは、と主張した。そのような過去のセラピー的なやり方(社会的緊張を解きほぐすための仕事)は、あらゆる人に帰属意識を与える包括的なアメリカ史に欠乏していると信じるアダミックの信念の論理的帰結であった、とした。Robert F. Harney は、アダミックは出生の多元主義を歓迎していたけれど、「アメリカの終局の目的が多元主義だと考えることはできなかった」のではないかと思うと。彼の究極の情熱は、多様性から統一を現実化させるかもしれない文化の融合を目的としたものであった、と述べた。
人生最後の十年間、アダミックは、次第にユーゴスラヴィアの運命に巻き込まれるようになった。二つのセッションでは、第二次世界大戦中そして大戦後に、ユーゴスラヴィア系アメリカ人関連の外交政策や世論に影響をおよぼした、アダミックの営為を論じた。Matjaz Klemencic はプレゼンーションで、祖国の出来事に対するスロヴェニア系アメリカ人の反応や、支持するために発生したユーゴの政治的事件に関する彼らの葛藤を浮き彫りにさせた。Klemencicはまた、ルーズベルト政権同様に、スロヴェニア系アメリカ人のあいだで果たされた、チトーと彼のパルチザンの主要な唱道者としての、アダミックの役割を述べた。
アダミックのワシントン政府におけるロビー活動について、Lorraine M. Lees によってさらに十分に論じられた。Leesは、戦後ヨーロッパに一種の民主的な秩序を確立させるために、アメリカのエスニック・グループを使用するように米国政府を説得し、同様に、チトーによって率いられたレジスタンス運動を支持させるように米国政府を説得したアダミックの営為を、文書によって証明した。アダミックが、いずれの面でも合格点をとれなかったのは、彼のアイディアにメリットがなかったからではなく、それらがアメリカの歴史とルーズベルト政権の戦時政策の面で遅れていたからだ」とみなした。スロヴェニアのカトリック教徒やその聖職者の指導者たちは、考えが統一されていたわけではなかったが、次第にパルチザン運動に反対するようになったのは、それがコミュニストによってコントロールされていると信じたからだ。このテーマを扱うにあたって、Bogdan C. Novak は、アダミックがパルチザンを支持したがゆえに、スロヴェニア系アメリカ人カトリック教徒たちの彼に対する敵意が次第に増していった、ということを論じた。
戦後何年か、アダミックは、冷戦下の気をめいらせる政治状況にも関わらず、チトーのユーゴスラヴィアを擁護する闘士として働き続けた。しかしながら、彼の不動の信念は、米国内において生じていた反共ムードのせいで、大いなる代価を払わざるを得なくなった。Vlasislav A. Tomovic は、アダミックは1930年代から証拠なしに"共産主義者"と名指しで攻撃を受けていた、と述べ、1940年代後半になるとそれがいっそう激しさを増すようになった、ということを検証した。
こうした非難や幻滅によって受けた代価について、当時アダミックと深い親交のあった、二人のスピーカーによって述べられた。このシンポジウムのアメリカ側のユーゴスラヴィア代表団長である、前国連大使Joza Vilfanは、アダミックとユーゴについて議論する非常に多くの機会があった。Vilfan はじつに鮮明に記憶していて、アダミックのある将来にたいするペシミズムを、次のように語った。「内なる論理により独裁的な支配へと追いやられた二つの超大国は、……独立するために、また、自国の天然資源を自国の発展のために利用せんとする、そうした発展途上国の衝動とその決意を理解していない」と述べた。
アダミックの全体的に希望を失わせたものの一例として、当時のVilfan にとってショッキングであったのは、彼の考えであった。それは、アダミックが1948年のソ連とユーゴスラヴィアの決裂は決定的で、肯定的ですらあった、ということである。そしてVilfan は、その分裂を、超大国への従属に対するレジスタンス運動の前触れとして、のちに「非同盟政策」となったものの始まりとして見る、アダミックの先見性を信じた。




 

「セントポール・シンポジウム」に提出されたペーパー
   THE St.Paul Symposium, May 29-30, 1981
 
 










 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「リュブリャナ・シンポジウム」THE LJBLJANA SYMPOSIUM

 
去る9月にリュブリャナへ旅した公式アメリカ代表団には、Henry A. Christian, John L. Modica, Rose Mary Prosen, Rudolph J.Vecoli, William C. Beyer らの教授陣が含まれた。これら5名のリュブリャナへのアメリカ代表団の他に、35名の研究者が、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、そしてユーゴスラヴィアの各地からペーパーを提出した。
ルイス・アダミックの実弟France Adamicは、教区教会の記録や、家族のドキュメント、口碑から引用しつつ、学問的なプレゼンテーションをリュブリャナで行った。ルイス・アダミックが移民したのは、一部には、自然災害や高出産率、自営の木材業の斜陽によって引き起こされた、家計逼迫が原因であったことに言及した。
引き続きセッションでは、これを基に、それにふさわしい個人的な始まりへと話題をひろげた。ペーパーは地元の歴史から、アダミックの文学的技法とその影響、アメリカ観、さらにはアダミックと新ユーゴスラヴィア体制の関係へまで及んだ。
第一次世界大戦前のスロヴェニア・エスニック地区の人口統計学上の研究では、Vladimir Klemencic Rado Genorio は、約30万人のスロヴェニア人が永久移住したのは、農家の人口過剰、経済的衰退、ハプスブルグ家による文化的圧迫が原因だとした。Boris Kuharは、アダミック生家のコミュニティGlosuplje の1890-1930年間の小研究で、そうした研究結果を裏付けた。Mojca Ravnikによる、Glosuplje教区民および移民の親類ら25名とのインタビューの精査により、「出移民の経済的、社会的、個人的理由の複雑さ」を浮かび上がらせた。移民しない親類には負担が増え、しかもスロヴェニアへ送金されまたもたらされた「アメリカン・マネー」からは、僅かな財政的利益を得るにすぎなかった。
アダミックは1932年に、そして1949年に再び帰郷した折、何か手ごたえのないものを持ってきたことは明らかだが、しかし、いわゆる「アメリカン・マネー」以上に決定的な影響をもたらしたのは、彼の帰郷そのものであった。二人の若きジャーナリスト、Mile Klopcic Sait Orahovacは、アダミックが初めて帰郷した際に当時の様子を記憶していた。Mileは、スロヴェニア系アメリカの刊行物を通じてアダミックのことを知り、アダミックとの最初の出会いをスロヴェニアの文芸誌に載せていたので、アダミックがどのようにしてスロヴェニア人たちにアメリカで現代文学や社会状況を熟知をさせたのか、また、それとは反対に、スロヴェニア人たちが彼にどのように大戦前ユーゴスラヴィアの内なる視点で与えたか、そうしたことを回想した。
スロヴェニア国立劇場Slovene National Theatreのメンバーで、アダミックの甥に当たる Andrej Kurent は、アメリカの著名な劇作家Garson Kanin, Arthur Miller, Tennessee Williams らによる台本が、国立劇場のまさにそれにふさわしい「杮落とし」となった、と述べた。それはアダミックの紹介によるものであった。
他のプレゼンテーションでは、アダミックのおよぼした文学的、文化的な影響に注意を向けた。Franc Zadravec は、スロヴェニアの著名な詩人 Oton Zupancic の人生と美学を、アダミックのそれと比較し、Zupancic のアダミック作品にたいするあこがれを評した。Zupancicは、Laughing in the Jungle を読んでいるうちに、「現代スロヴェニア文学に、もっと笑いを、もっとユーモアを呼び戻させる」ような思いになった、と述べた。大戦間のセルボ・クロアチア文芸批評を検討しながら、Omer Hadziselimovic は、アダミックが右翼の批評家たちから最低の批評を受けたことを発見した。……彼らは、アダミックの「社会文化論的洞察」に一般的に敬意を表しつつも、The Native's Return の作品を認めなかった。
アメリカ文芸問題におけるアダミックの影響は、John L. ModicIvan Dolenc二人のブレゼンテーションによって注目させた。コモン・グラウンド』についてのプレゼンテーションで、Modic は、その季刊誌にうわすべりなオプティシズムと教訓主義が広がっているのに気づき、その原因の多くをアダミックに責任を負わせている、と述べた。Dolencは、アダミックの『アメリカン・マーキュリー』誌に掲載された小品 "The Bohunk" (1928) を、可能性に富むスロヴェニア・アメリカ文学作品と評価し、アダミックの観察は論争を燃え上がらせ、真実を高らかに語り続けている、と述べた。
大多数のペーパーは、アダミックの文学的技法の真相をさぐるべくメスを入れた。アダミックから妹の Tonchika kurent へ送付された現存する手紙類について、息子の Tine Kurent は、「1913-1932年間の家族との交流は、再会したとき、どんなに嬉しくまた誇りあるものであったかを強調するために、The Native's Return の作品では控えめに書いている」と結んだ。
Mirko Jurak は、Laughing in the Jungle の用意周到な芸術性を論証し、アダミックの自伝的技法がなぜそのように幅広くアピールしたのかを示すために、作品を分析した。Marija Stanonik は、アダミックが作品のなかでユーゴスラヴィアのフォークロアを用い、それをアメリカの読者にたいしてユーゴに関する心理的な洞察を解するように用いていることを発見した。
Jerneja Petric Ivo Vidan は、アダミックの文芸理論と性格描写のそれぞれの力量の弱さを認めた。「単なる事実が必ずしも真実でないと悟ったとき」アダミックは、Petric によれば、「いかに文学的な形式で真実を伝えるべきか」という首尾一貫した態度でそれを解決しようとした。少なくとも1930年代の終わり頃まではそうであった。それは彼が、「一般に小説や文芸理論から離れ」始めたときである。Vidan は、アダミックの文芸作品にひどくひびを入らせているのは、彼が登場人物を代表させるために彼らの間で一緒にドラマをつくるというより、むしろ「彼らにシンボリックな意味を負わせている」からだ、ということを発見した。もしこの弱点が、「二つの世界にいる」というアダミックの感情に帰するのであれば、彼は自立性に価する小説をつくるために、どちらも十分に獲得されなかったのではないか、とVidan は考えた。
アダミックと二人の別なユーゴ移民作家との際立った相違は、Dragi Stefanija Drago Druskovic によるペーパーのテーマであった。Stefanijaは、アダミックとマケドニア系アメリカ作家のStoyan Christoweによる、マケドニアについての文芸論述法を検討した。アダミックに「マケドニア問題」を理解させてくれたのは、Christowe Heroes and Assassins  (1935)である。Druskovic は、ルイス・アダミックと Lovro Kuhar (Prezihov Voranc) はともに移民のスロヴェニア人作家であるけれども、出移民にたいする文芸的アプローチにおいては、二人はかなり異なっている、と論じた。Kuharは、農村に帰郷する一時的な移民を描くヨーロッパの社会的現実の慣習を用いたが、一方のアダミックは、高度に工業化された合衆国にとどまっている移民を分析する上で、ジャーナリスティックな手法を用いている、と述べた。
リュブリャナのプレゼンーションのほとんどが、やはり、アダミック作品のユーゴ方面に焦点を当てた。しかし、何人かの研究者は、アダミックのアメリカ観を検証した。アメリカの「工業化時代の暴力使用の一般的な問題」に話題を向けながら、Dirk Hoerderは、アダミックの『ダイナマイト』の記述が正確であったのは、「合衆国の労働者の闘争が暴力的(violence)」であったから、と答えた。スラヴ系アメリカ人の炭鉱労働者の暴力は、「仲間の労働者間の団結を保障することと、非個人の法人組織経営者に対する労働者の不平を抑えること、その両方の一手段として理解されなければいけない、とHoerderは俯瞰した。
Anna Maria Martellone Malcolm Sylversは、アダミックのアメリカ観に対する二人のイデオロギー的性格が異なっていた。Malcolm は、アダミックの「著書は厳密にはっきりした回答の態度を表明した階級分析の所産ではなく」、むしろ、「アメリカの社会的現実に対する彼の経験主義的なアプローチの成果である」と述べた。それとは対照的に、Sylvers は、アダミックのアメリカにたいする概念がどのように展開していったかを、奥ゆかしくたどりながら、こうした流動的で、改革を受け入れる余地のある、民主的な社会としてのアメリカに対する考えは、「実際の社会的現実からではなく、むしろ階級に関係なく、大部分のアメリカ人たちの思考に由来している」ようだ、と結んだ。
Gudrun Birnbaum もまた、アダミックのアメリカ観をたどった。アメリカ経験について重要な解釈をしている或る書評を前置きして、Birnbaum ペーパーは、アダミックが自らの未来像のために用いたメタファーの結果をたどった。アタミックの未来像とは、アメリカは約束の土地だが不幸の土地であるという二重のイメージから、「ジャングル」としてのアメリカへ、根こそぎされた「影」たちによる人々のアメリカへ、永い道の過程(プロセス)にある文化へ、、そして「多様性の中の統一」を約束するアメリカへ、である。
シンポジウムのアカデミックな進行は、「アダミックと新ユーゴスラヴィア」と題するセッションで閉じた。Tihomir Telismanは、チトーのスラヴ系アメリカ人ロビーとなっている、在米「クロアチア会議」Congress of Croats の重要性を再検討した。1943年8月、同ロビーは、アダミックのリーダーシップの下に、「南スラヴ系アメリカ人統一委員会」the United Committee of South Slavic Americansとして組織化された。Janez Tomsicは、ユーゴスラヴィア国内のSlovene Littoral Istriaを再統合する領土問題についての、アダミックの希望と結果的な絶望をたどった。Sloban Nesovic は、アダミックが第二次世界大戦初頭にロンドンに置かれたユーゴスラヴィア亡命政府およびユーゴにおいて認知されたそのレジスタンス・リーダーに自ら距離を置いたのは、ユーゴ内部の情報源がアダミックにチトーによって率いられた運動の情報をもたらし始めたときであった、そうしたことを論証した。
シンポジウム主催校であるEdvard Kardelj Univesity は、その同名の人物にあやかって付けられたのだが、それに関係して、Henry A. Christianは、革命的もしくはラディカルな文学の主要な例として、アダミックの『苦闘』Struggle の出版史を詳述した。作者不明の若きコミュニストは、1933年に独裁政権下のスロヴェニアでアダミックに促されてその小品を書き、アダミックはその後それを翻訳して、アメリカ合衆国全土に、ユーゴスラヴィア各地に、そして国際的に広める手助けをした。アダミックは、その若い著者エドヴァルド・カルデリが新ユーゴスラヴィアの副大統領の地位にあったことは、1946年まで知らなかった。カルデリは、ユーゴスラヴィア共産主義の当代きっての理論家であり、同政権に1979年の死までとどまった。
 
 
 


 
 

「リュブリャナ・シンポジウム」に提出されたペーパー

 The Ljubljana Symposium, September 16-18, 1981

 
 




























 
 
 
 
 
 
 
 
ミネソタ大学移民史研究所コレクション

   IHRC COLLECTIONS AND ADAMIC

 
ルイス・アダミックに直接関係のある当研究所IHRCの所有物は、それほど大きくはないが、それにもかかわらず重要である。少なくとも、あるコレクションは他のどこにもない貴重な資料を保存している。
IHRCのアメリカのエスニック新聞や定期刊行物のコレクションは、アダミックによるまたアダミックについての記事を提供している。これらの記事は、彼が最初に寄稿したスロヴェニア語日刊紙Prosveta(シカゴ)や、セルビア語新聞 Slobna Rec (ピッツバーグ),Glas naroda(ニューヨーク)のようなスロヴェニア語日刊新聞、そしてスロヴェニア語雑誌Mladinski List(シカゴ)を含んでいる。アダミックのひときわ違った見解の選り抜きの記事は、社会主義週刊誌Protetarec(シカゴ)とカトリック教徒日刊紙Ameriska domovina (クレヴァランド) であろう。
IHRCは、アダミックが1942-1950年間に刊行した、ばらばらのまとまっていない発行物を保存している。しかしながらそれは、アダミックが発行に尽力した二つの定期刊行物、『コモン・グラウンド』Common Ground と「南スラヴ゙系アメリカ人統一委員会」の『ブルティン』Bulletin of the United Committee of South Slavic Americans の完全なセットになっている。
アダミック著作の大半はIHRCに保存されている。その多くは、元Protetarecの貸し出し図書室か、もしくはスロヴェニア系アメリカ人作家の新聞編集員Ivan Molekの個人コレクションから寄贈されたものである。Molekから寄贈されたThe Native’s Return の初版には、アダミックの手書きで、「あなたは私に関心を持ってくれた最初のスロヴェニア人です。きっとこの本をお気に召されると思います。ルイス・アダミック ニューヨーク市にて 1934年1月15日」と記されている。
20年近くアメリカに移り住んだクロアチア人作家Lupis Vukicのマイクロフィルムの書類のなかには、アダミックからまたアダミック宛に差し出された、大量の往復書簡が収められている。Henry A Christianは他のところでそのことについてコメントしている。
Zlako Balakovicの書類には、数枚の書簡と、二人が1940年代半ばに分かち合った友情の品々が含まれている。クロアチア系アメリカ人であるBalakovicは、コンサート・バイオリニストであり、「南スラヴ系アメリカ人統一委員会」の代表であったアダミックの後を引き継いだ。
The Jugoslav Federation of the Socialist Party of the U. S. A のその資料のなかには、アダミックと同連邦の公的機関誌であるProletarec のさまざまなスタッフ間で交わされた興味深い往復信書が含まれている。スロヴェニア語と英語の両方で書かれた書簡には、1924-1926年間と1940-1945年間の日付が記入されている。その初期の往復書簡のなかで、 ”Ivan Adamic” の名で知られる駆け出しの作家は、Proletarec の図書室から Ivan Cankar の本を借りている。後者の往復書簡には、読者に自分の本を転売するために新聞社に卸売りする実務家としてアダミックの意気込む様子が表われている。
IHRCのアダミックに関して最も重要なものは、America Council on Nationalities Service (ACNS) の文書である。ACNSは、前身のForeign language Information Service (FLIS) の最も新しい機関であり、アダミックは1934年から加わり、そして1939年にCommon Council for American Unity と組織替えを手助けした。このACNSコレクションには、1930年代後半から1940年代前半のアダミックについての、よそでは手に入らない情報が含まれている。アダミックとRead Lewis間の相当の量の往復書簡は、1936-1944年におよぶ。LewisFLIS-CCAN-ACNSの長期にわたる行政官であった。同コレクションにはまた、多少の宣伝用写真、新聞切り抜き、記事の下書き、そしてFLIS またはCCANを通じて出版されたパンフレットが含まれている。それらはすべて、アダミックによる、あるいはアダミックについてのものである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ルイス・アダミックに関するアーカイブ資料を概説

A Brief Survey of Archival Sources Concerning Louis Adamic

by Henry A. Christian

Department of English

Newark College of Rutgers University

 
1951年のルイス・アダミック死後まもなくして、ニュージャージー州ミルフォードのアダミック住居の著作の中身は、スロヴェニアの生家の「ルイス・アダミック記念財団」The Louis Adamic Memorial Foundationの寛大さによって、「プリンストン大学図書館」The Prinston University Library に置かれた。その図書の所有物は、現在、"Papers of Louis Adamic and Supplementary Materials" と呼ばれ、世界のアダミック資料の唯一最大のコレクションとなっている。同コレクションには、アダミックの著作のほとんど全てに近い版とアダミックが章や解説に寄稿した巻、それに彼の定期刊行物の約75パーセントも同様に含まれている。彼自身の多くの翻訳、記事の自筆の文書、タイプ原稿が、ほとんどの著作の校正刷り、ゲラ同様に研究に役立つ。
内容の充実した往復書簡もまた、プリンストン大学コレクションを代表している。1921-1951年間に、家族や出版物やプロジェクトに関してのアダミック宛またアダミックから差し出された書簡------有名あるいはさほど有名でない作家や批評家、学者、そして出版社、組織、政府関係、連邦役人、また友人、賛美者、政敵らからの書簡が保存されている。そのなかにさらに、アダミックが移民やその子供や孫たちに質問した、アメリカ市民からの返答も含まれている。それは、受賞作品『多くの国々から』From Many Lands のなかで取り上げた人たちや、『サタデイ・イヴニング・ポスト』誌The Saturday Evening Postや『ウーマンズ・デイ』誌Woman's Day に掲載した人たちのように、特殊な移民の事例に対する背景や思いについての質問事項である。
プリンストン大学にはまた研究細目の一例として、クリッピング、モノグラフ、ドキュメント類がある。それは、アダミックが自分自身のさまざまな関心から、またプロジェクトのために、手に入れたものである。1931年の初めに、アダミックはあるクリッピング・サービスに寄付をしている。したがってそのコレクションは、アメリカからは彼の作品についての書評や彼について書かれた記事の大部な選集を、ユーゴからは少なくともそのような細目を代表する寄せ集められた大部な選集を、提供している。アダミックのスクラップブックと他の個人的記録も公開されている。
プリンストン大学コレクションの補韻細目には、記事、書籍(アダミック作品のより新しい版が含まれている)、アダミックのシンポジウムに使用したブログラム、リポート、テープ、その他類似の資料から成っていて、それらはたえずアダミックの主要な文芸内容に加えられている。同図書館の Gilbert Chinard collection もまた、アダミックに関連する小さな資料を含んでいる。
アメリカにはほかにもアダミック関連する幾つかの、小さいがしかし重要な資料室が散在している。IHRCについては本誌の他のところで触れられている。
The Chicago Historical Society は、Ivan Molek とアダミック間の広範な書簡を保管している。Molekはアダミックの初期の翻訳をPRすることと、アメリカでのイヴァン・ツァンカルの『イェルニーの正義』Ivan Cankar's Yerney's Justice のアダミック翻訳の最初の出版を手配すること、その両方に義務を負うていた。
クレヴァランドのThe Western Reserve Historical Society には、アダミックと故Janko N. Rogelj の往復書簡を保存している。Rogeljとは、アダミックは1930年代半ばに会っているが、彼は Slovene National Benefit Society の会長であり、第二次世界大戦中に創設された幾つかの スロヴェニア・ユーゴスラヴィア系アメリカ人の諸組織の関係者でもあった。
The Department of Cultural Resources, Archives and Records Section, State of North Carolina, Raleigh は、Black Mountain College とのアダミックの関係についてのドキュメントと書簡類を保管している。
テキサス大学The Humanities Research Center には、Contempo 誌の刊行のことや、他の作家の作品、そしてアダミックの後年の経歴に関係する幾つかの事柄に関しての、アダミックの往復書簡が収められている。
フランクリン・ルーズベルト大統領夫妻とのアダミックの交流および往復書簡についての情報は、ニューヨーク市ハイドパークの「フランクリン・D・ルーズベルト図書室」 F. D. R. Library のファイルで入手できる。
ニューヨーク市のカーネギー、グッゲンハイム、ロックフェラーの各財団は、アダミックへのそれぞれの研究助成金に関係する資料を保存している。The Manuscript Division of the New York Public Library は、H. L.メンケン書簡コレクションのなかに幾つかの項目があり、それらは、プリンストン大学コレクションに保存されている、メンケンとアダミックの二人のやりとりを補強する。インディアナ大学Sinclair Collection of the Lilly Libraryのアプトン・シンクレアとアダミック間の書簡も同様に有効である。
The Elmer Gertz Collection in The Library of Congress には、Gertzとアダミックの間に交わされた往復書簡が含まれている。大部分はフランクン・ハリスについてのGertzの作品に関してである。The National Archives, Federal Bureau of Investigation その他ワシントンD.C.の政府機関は、目下、Freedom of Information Act を下にアダミック資料に取り組んでいる。
若干の資料がアダミックの出版社二社、Doubleday and Company J.B. Lippincott and Companyに保存されていた。しかしながら、Harper and Row社では、調べてみたが、最後の十年間の価値ある項目を失っているようである。
プリンストン大学コレクションに続く、第二の規模のアダミック資料は、スロヴェニアにある。アダミックは1948-1949年間に二度目のユーゴ訪問をした際、数個の大きな資料を持ち帰っていた。それは新生ユーゴスラヴィアへの寄贈をあらわす彼の思いであった。現在、これらの細目は、リュブリャナの国立大学Narodna in Univerzitetna Knijiznica に保管されていて、アダミックによるまたアダミックについての記事や、ユーゴスラヴィアについての記事、そして彼からまたは彼宛への書簡、さらに僅かな手書きの項目がある。資料のほとんどは、プリンストン大学のものと重複するけれど、さらにリュブリャナの多くはユニークだ。
また、スロヴェニアのGrosuplje 近郊Praproceにある、著者の生家「アダミック資料館」 Adamic Museum Room にもまた、特別なアダミック資料の小さなセレクションがある。ここにはアダミックの家族が集めた出版物や手紙、写真、言行録などが保存されてあり、それらはアダミックの生前また死後に家族の者に手渡されたものである。
クロアチアの首都ザグレブのNacionalna i Svecilsna Bibliotekaで利用できるのは、Ivo Lupis-Vukic とアダミックとの間に交わされた書簡の広範なセットである。Lupis-Vukicがアダミックに最初に接触したのは1933年で、アダミックがグッゲンハイム研究生としてユーゴに訪れたときである。彼らは何度か会い、その後も交流を続け、その一部は Nova Europa誌や他のユーゴスラヴィアのジャーナルに掲載されたアダミックについての、Lupis-Vukicの作品の基になっている。
コルチュラ島の「マホ・ヴァンカ資料館」Maxo Vanka Museumには、もう一つの小さな書簡のセレクションがある。主にアダミックからのもので、大部分はアダミック夫妻が1933年にザグレブで会った、クロアチアのアーティストVankaについてである。Vankaはのちにアメリカへ移住した。
The Slovenska Izselienska Matica in Ljubjana は、Janko N. Rogeljとアダミック間の、初期の頃の日付が記されている手紙のコピーを保存している。
「南スラヴ系アメリカ人統一委員会」のファイルは、最近、リュブリャナのSlovene National Archives で公開された。そこで発見されたアダミックに関する関連情報や、同様に彼が1940年代に率いたそのアメリカの組織に関する関連情報は、さらなる研究資料が他のユーゴスラヴィアのアーカイブスから現われることを示唆している。
最後に、ここに挙げたルイス・アダミックに関する情報源の要約のいずれも無視することはできない。著者が没してわずか30年余りであり、彼の関心や交流は多様で国際色豊かであり、接触していた多くの人は今でも健在である。したがって、時が過ぎ、新しいより完全な原稿や、印刷物、写真、記録された資料などが公的な書庫から発見されるであろうし、そして、何よりもアダミックの資料はもっと知られるべきである。この調査にあたって、さまざまな発見をここに報告することができて、嬉しい。
 
 












 
 

 
 
 
 
 
 

 

《ルイス・アダミック年譜》

*詳細年譜 Louis Adamic in Japan
http://www.synapse.ne.jp/saitani/neupu.htm


















《ルイス・アダミック主な著書》

 

『ダイナマイト』1931
『ジャングルの中の笑い』1932
『帰郷』1934
『暗黒の草原』1935
『人生のゆりかご』1936
『アンティグアの館』1937
『私のアメリカ』1938
『二つの道』1941*
『わが祖国』1943*
『あなたの名前は?』1944*
『多民族国家』1945*
『鷲とそのルーツ』

 *「多民族国家」シリーズ

 











 
 






 







 




 

《付記》
 
上記の訳文は、1981年にルイス・アダミック没後30周年を記念して開かれた国際会議・シンポジウムの特集号「ルイス・アダミック人生・作品・遺産」(ミネソタ大移民史研究所)Louis Adamic (1898-1951) : His Life ,Work, and Legacy - SPECTRUM Immigration History Research Center--University of Minnesota の一部です。しかしここには、もちろん、その後のアダミックについての新しい研究や発見されたこと等は一切触れられていません。とくにユーゴスラヴィア民族紛争後、たとえば、アダミックによって予見されていたユーゴの崩壊に関するさまざまな問題、スロヴェニアの独立、そして「EU」の誕生、あるいはアダミックが生前提唱していた米ソに従属しない「非同盟」(もっともアダミック没後10年後にユーゴで第一回非同盟会議が開かれたのだが)……等は記載されていません。












 

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