Thursday, December 07, 2006

Japanese American and Two Homelands-日系アメリカ人と二つの祖国


二つの祖国を持つ日系アメリカ人二世の苦悩

[改訂新版]「日本人の顔をした若いアメリカ人」
第二次世界大戦前夜、苦境に立たされていた二つの祖国を持つ日系アメリカ人二世の物語、電子ブックの案内です。ボーダレスな国際化時代を向かえ、ますます重要な作品となりました。

New Version Ebook
A YOUNG AMERICAN WITH A JAPANESE FACE,1940 by Louis Adamic
Translation: Shouzou Tahara (Japan)
Introduction: Dr.Henry A.Christian (Rutgers University)

エスニック文学(ethnic literature) 
日系アメリカ人と二つの祖国-Japanese American and Two Homelands
[改訂新版](既刊 日本図書館協会選定図書&全国学校図書館選定図書 PMC社1990年)
アメリカ人として生まれ、アメリカ人として育ち、教育を受けた「ぼく」は、ある日突然、自分の体内に東洋の血が流れていることに気づかされた。英語を話すジャパニーズ、父の心が解せないアメリカ人の「ぼく」は、いったい何者なのか!? 引き裂かれた心と肉体をひきずった「ぼく」は、どこからも受容されず排除される存在、異端者/ストレンジャーとして、ただただ一九三〇年代の流れゆくアメリカを彷徨するばかりだった。 若いアメリカ日系二世の心の葛藤をあますところなく記録し、この巨大なアメリカ社会の中で共に生きる未来を発見しようとした旧ユーゴスラヴィア(スロヴェニア)出身の移民作家、「三〇年代アメリカ文学界の騎手」のひとりでもあったルイス・アダミックによる傑作。

国境を超えた人 

「世界の人種関係において最も重要な作品」として」アニスフィールド賞受賞

This volume won the John Anisfield Award as "the most signicant book of 1940 on race relations in the contemporary world.

 日米開戦前夜、人種的偏見の苦境に立たされていた数多くの日系アメリカ人たちの心暖まる全面的な協力の下に完成されたエスニック文学の傑作。実在の主人公チャールズ・菊地は、著者アダミックに後年こう書き送っている。「あなたおかげで、より肯定的な人生哲学と、この国だけでなく世界中のマイノリィティ・グループ(minority groop)に共通する問題についての認識を得ることが出来たと思います。」
原題『A YOUNG AMERICAN WITH A JAPANESE FACE,1940』の翻訳版です。大河ドラマにもなった山崎豊子『二つの祖国』の原点ともいえる作品でしょう。

(初出季刊「汎」(国家を超えて=地球的視点で人と文化を考える/PMC社)第14号1989年9月掲載)


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目次

本訳書を元季刊「汎PAN」編集長 今井和久氏に捧げる――訳者
Ⅰ 彼は自分の人生を語り始める 
Ⅱ 父と子 
Ⅲ 仕事と大学 
Ⅳ 何たる国だ!
Ⅳ プリマス・ロックとエリス島(アダミック1930~40年全米講演要約)
解説「エスニック文学とルイス・アダミック」ヘンリーA・クリスチャン

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解説「日本人の顔をした若いアメリカ人」
 
「アメリカエスニック文学とルイス・アダミック」
ヘンリーA・クリスチャン(ラトガーズ大学)
田原 正三 訳
 
 
 一九三六年、ルイス・アダミックは『私のアメリカ』My America : 1928-38.と題する原稿の進展について、ハーパーズ社の編集者に手紙を書いた。その作品は一九三八年までには刊行されなかったが、アダミックが一九三六年までに読者に語り得る世界があると思っていたことは、興味深い。
 一八九八年に、現在のスロヴェニア共和国として知られているユーゴスラヴィアの一部、カルニオーラに生まれたアダミックは、一九一二年にアメリカに渡り、ニューヨーク市の遠い親戚筋の家に寄宿した。アメリカでは正式の教育は受けなかったが、彼の知的な成長は街の通りやスロヴェニア語系新聞の編集室で成し遂げられた。その後、アダミックは、親戚との関係を絶つと、一九一六年に陸軍に志願した。合衆国市民権はその翌年に認可された。七年間の兵役後、陸軍内での将来を約束されていたにもかかわらず、自らの希望をかなえるために、軍隊を去った。こうしたことは人間としての尊厳であり、また、一般に移民たちが体験する典型的な行動でもあった。彼の性格と才能が自らを作家になるように仕向けていったのは、このときだった。そして、彼が考え執筆したものは自らのアメリカ生活の二十数年間の集積そのものであり、彼の生涯とその作品は、アメリカのエスニック文学を考えるうえで、欠かすことのできないものになっている。
 アダミックの作家としての出発は、一九二五年に、カリフォルニア州サンペドロで始まっている。主にスラブ圏の作家たちの翻訳を手がける傍ら「アメリカン・マーキュリー」誌の歓迎する寄稿者となった。その後、一九二九年に『ロビンソン・ジェーファーズ――ある肖像』Robinson Jeffers:A Portrait.を、三一年に『ダイナマイト』Dynamite : The Story of Class Violence in America.(アメリカの階級の暴力についての物語)を、三二年に『ジャングルの中の笑い』Laughing in the Jungle:The Autobiography of an Immigrant in America.(アメリカ移民の自伝的物語)を出版した。初期の頃のアダミックの作品では、ノンフィクションかフィクションかで文体が揺れていたが、どちらにも定着できなかったので、その両方を書き続けることになった。彼の特徴は、かなり早いうちから、母国語で文学活動を続けたかったわけでも(実際にできなかった)、同胞の移民や彼らの置かれている特殊な状況だけを物語とか評論の形で描きたかったわけでもなかったが、現実には彼はそういうものを書いたし、しかも十分すぎるほど書いたという点にある。
 ジョン・T・フラナガンは述べている。「移民を描く最も優れた小説は、とくに〈移民〉の出である小説家が、彼自身の人生に肉迫することである」と。なぜなら、主人公と語り手が「経験と視点を共有しているから」である。このコメントは、いかなる民族の背景を背負っていても、あるいはいかなる時代を語ろうとする作家にとっても、同様に言えることであろう。しかし、アダミックは、オール・ロールバーグやメアリー・オースティン、あるいはジーン・トゥーマーなどの経歴に例証されるような、狭隘な道を辿ったわけではなかった。彼らの作品は将来のことを考えるうえで重要な貢献をしているが、結局のところそれらは、アダミックが考えていたことのほんの一部分にすぎなかった。そして、アダミックが発展させた架空の語りの世界における「私」は、アメリカ生活体験の個人的な実話を重視することと並んで、結果的に彼を、一九六〇年代に花開く「ニュージャーナリズム」の予言者としたのである。
 一九三三年にアダミックは、小説の分野でグッゲンハイム財団奨励金を受賞したが、その賞は、帰化した国にしっかり根づいたこととアメリカ作家になったという二つの到達点を表わしている。おそらくエスニック文学にかかわる人たちにとっては、アダミックがアメリカ作家になった、と述べるほうがより適切かもしれない。たしかにグッゲンハイム財団奨励金は、彼にとって、アメリカで作家になったこととアメリカ人になったことを意味していた。なぜなら彼は、その奨励金を使ってその年をユーゴスラヴィアで過ごし、故国を成熟した大人の目で再発見したからである。
 この発見の所産は『帰郷』The Native’s Return : An American Immigrant Visits Yugoslavia and Discovers His Old Country――一九三四年二月の月間図書選書に収められ、ユーゴスラヴィアについての書籍に関しては一九四〇年代まで続いたベストセラー作品――であった。この本はアダミックを最も重要なユーゴスラヴィア系移民作家として注目させ、彼のなかにひろがる関心――つまりアメリカとアメリカ人について――を追求させることができた。彼は海外情報報道局(FLIS)の後援を得て、アメリカ国内の講演旅行を続けた。彼が聴衆に話した題目――「一移民の見たアメリカ」「移民――私たちはアメリカの偉大さに対し何を貢献し得たか」「祖国を愛し続けることは移民にとって反米なのか」「移民に対する偏見はなぜ存在するか」は、当時の彼の社会に対する鋭敏な感覚と将来の展望を明らかに示している。
 一九三四年一一月号の「ハーパーズ・マガジン」誌に寄せた『三千万の新アメリカ人』のなかで、アダミックはアメリカ生まれの移民の子どもたちを取り上げながら、こう記している。「彼ら大多数の者は、旧移民の血を引く同胞市民たちとアメリカ生活の主流に対し、一般に人生の間題に関して、やり場のない劣等感に悩まされている。それは彼らにとって不幸なものだ……この国にとってもいっそう不幸なものだ」と。その結果、アダミックは、新アメリカ人たちに、「彼ら自身の遺産……についての情報」を与え、「旧移民の血を引くアメリカ人たちの側から、彼らに対して同情的な理解を生み出せる」一つの機関の設立を提案した。この計画では「この国のほとんどすべての人」に浸透しなければならなかったし、またアメリカにおける多様な文化的、人種的社会の持つべき誇りと調和が、「われわれの国民生活を……高める」ことになるはずだと、繰り返し述べられていた。
 そして、アダミックはかなりすんなりとした形でその計画にとりかかった。そのための最初の講演旅行は多くの人たちに感銘を与えた。二、三のスロヴェニア人友愛ホールを手はじめに、さまざまな国籍の商人、労働者、教育機関のグループの参加へと発展していった。また、ヨーロッパ移民の最初の到着地、プリマス・ロックとエリス島がともにアメリカであることを何度も明確にさせた。この考えは、その後の作品――『孫たち』Grandsons : A Story of American Lives.、『人生のゆりかご』Cradle of Life : The Story of One Man's Beginnings、『アンティグアの館』The House in Antigua:A Restoration、『私のアメリカ』My America:1928-38.――はじめその他多く書かれた評論のなかに織り込まれている。
 アダミックは、アメリカにおいて外国に素姓を持つ人たちにアイデンティティを与えた作家だと知られていた――それはアングロサクソン系の人たちをも含むが、ただ彼らもアダミックもそれに気づいていなかった。この分野における研究者のなかでは、彼ほど大勢の人に接触した人はいなかった。たとえば、プリンストン大学図書館のアダミック・コレクションに保管されているもののなかに、彼自身が記した、ある午餐会での後援者リストにまじって多くの姓についてのエスニックの遣産がある。講演後のひっきりなしの夕食会とか「軽食会」の間、アダミックを招待した人たちや聴衆は自分たちの人生を彼に語ったものだ。彼はこういった人たちの多くを、その後の取材とか手紙を通して追跡調査している。そして、講演旅行の間にもよく立ち寄って、自分の言葉や自分について書かれた新聞記事に答える素朴な、しばしば文法に反する言葉を話す人たちに会っている。それを彼は「ブロードサイド」――自分の考えを証明し、移民やアメリカ生まれの先祖や「古い血統のアメリカ人たち」についての特別な問題を調べるための質問事項――に発展させ、その結果を、返事が予想されるあらゆるところに送付した。彼はまた、「黒人についての特別質問事項」を送付し、そのなかで、アメリカ文明の発展の鍵は黒人間題を解決することにかかっている、と注意深く述べていた。この国が必要としているのは、とアダミックは次のように書いている。
 
 五十余りの人種、国籍で構成されているアメリカというのが、われわれ自身の新しい意識である。……つまり、このようなさまざまな民族的、人種的集団を、単に寛容にというのではなく、はっきりと認め受け入れること、われわれの人口の多様性が望ましいことに気づくこと、外国人を排斥するやり方には断固として反対の立場をとること、新移民や彼らのアメリカ生まれの子どもたちが、古い血統のアメリカ人たちと同様に、この国の一員たることを認めること(なぜなら、アメリカはここに住むすべての人たちの国だからだ)、どういう人であれアメリカに対しアイデンティティを持たせること、そして、一つの方向にでなく、いろいろな方向へ自然に動くような、ゆるやかな同化もしくは文化的溶解への国家的統一――国民生活に恐怖を与えることには反対すること――を目指すこと、そういうアメリカナイズの思想である。
 
 このように、アダミックはまずアメリカにおける移民の社会的、政冶的、経済的役割についての間題を提示したあと、アメリカ社会についての全体的な考察にとりかかった。その結果、彼は「多民族国家」シリーズというタイトルで数冊の本の出版を計画し、一九三九年に最初の本『多くの国ぐにから』From Many Lands.にとりかかった。この本におけるアダミックの狙いは、彼の考えていた、南北アメリカの素晴らしい潜在力、〈多様性による統一〉の概念を、はっきり打ち出し発展させることにあった。しかし、多くの素材と多様な考えからは、一体どのような文学形式が生み出されるのだろうか。多くの移民と彼らの出身国についての事実はかなりはっきりしていたので、退屈なものだった。それなら、その形式はフィクションにすべきか? 移民たち自身はノンフィクションやらフィクションを書いていたが、それはふつう彼らの民族集団内における彼ら自身の世界だけのことだった。それは全体に貢献してはいたが、全体ではなかった。もちろん、自ら選んだ分野で成功した移民たちは誉めそやされるべきだろう。しかし彼らの本は、アメリカ社会に生きる無数の人たちについてはほとんど描いていなかった。アダミックが目指す文学形式は一九三九年時点では書くことが難しかったが、その一〇年後にオスカー・ハンドリンが『根こそぎにされた者』(ピューリッツア賞受賞作品)を計画したときですら、「むずかしかった」と記していることは興味深い。現にその本のスタイルは、フィクション、ノンフィクションの相反する手法が合成されたものだった。アダミックが選んだ道は、自分の経験をたどることであった。彼は小説家がするように、名前を変え、場所を変え、いくらか事実を変えた。しかしどの物語も、「実在の人物」を扱っていると記した。
 『多くの国ぐにから』の最初の章は、「窺地に陥った男」The Man in a Quandaryと題する、医師エリオット・スタインバーガーの物語である。アダミックは、成功したドイツ系ユダヤ人移民の息子スタインバーガーの、かなりユニークな幼年から青年時代、裕福な家庭の若者としての人生を追うなかで、商業社会に向かない性格と、その結果として医師の道を選び、そして成功するまでのプロセスを描く。しかし、その語りを通して絶えず現われ、スタインバーガーの人生の大部分を支配しているのは、彼自身も言っているように、「まぎれもなくユダヤ人であるという事実」である。結局、彼は自力で成功をおさめ、実際に国際的にも名声を得るが、それにもかかわらず、スタインバーガーは、ユダヤ人というものはユダヤ人であることを忘れることはできない、とアダミックに話す。「私はたんにユダヤ人を弁護するのは嫌いだ。だけど私の印象では……大まかにいって、ユダヤ人の派閥性は三分の一が、衝動と行動の間題、つまり商業その他の面でお互い助け合いたがっている結果であり、そして三分の二が、自分はユダヤ人ではない、といった態度でそれを他人に押しつけることである。……(キリスト教徒たちのなかにいるとき)、私は自分がひどく臆病か、もしくは挑戦的になっているのを意識している――つまり、いつもの自分ではないのだ」と。スタインバーガーにとって、自分がユダヤ人であるための抑制心とか逆に大胆な行動は大きな負い目であった。
 『多くの国ぐにから』の第二章は、「アメリカの迷宮にいる人たち」Figures in the American Mazeと題する、八人の物語体で、アメリカがいく種類もの移民により形成されていること、民衆もまた集団的に差別されていることを描いた。フィンランド系アメリカ人、フロリダで海綿産業に成功し、重要な民族的要素を形成しているギリシャ人、アイオワ州ペラの町に繁栄を築いたオランダ人などの民族集団に関するものがあり、さらにクロアチア、ボヘミア、ポーランド、スロヴェニア、アルメニアからの個々の特殊な移民の男女の物語である。
 これらの物語は小型の伝記――アメリカヘの到着、文化変容、就職、結婚、子供、孫など――と呼べるくらいに完璧に描けていた。しかし、従来型の英雄的なものとはかなり異なっていた。つまりアダミックは、基本的に、一〇〇〇万の新アメリカ人たちの家庭を表現すると同時に、ふつうの人たちの物語を考えていたのだ。
 この本の第三章と第四章はそれぞれ、「日本人の顔をした若いアメリカ人」A Young American with a Japanese Faceと「ルーペ・バルデス、ヘレン・スミスに出会う」Lupe Valdez Met Helen Smithという題が付けられている。後者は、メキシコ人の若者が、彼を「U・S・アメリカン」に回心させようとする周りからのあらゆる試みに絶えず抵抗しながら、しだいにアメリカでの自分の人生を見出す様を描いている。最後に彼は、アメリカ人の娘ヘレン・スミスに出会い、二人は結婚する。物語は、雑婚に見られる相互の歩み寄りに関する追跡でもある。
 しかし、それ以上に感動的な章は、「日本人の顔をした若いアメリカ人」であろう。まず最初に、「日本人の顔をした若いアメリカ人が何を意味するのか」を語りたいといってアダミックのもとへ「ぼく」なる日系二世の青年がやってくる。サンフランシスコ生まれの根無し草の若者による第一人称の語りである。物語の初めの部分は、その若者と父親との確執に関するものだが、読者は、やがてその対立が、とくに彼の個性から生じる葛藤と同じほどに、社会状況の結果であることに気づく。「ぼく」は、日本人移民の父と「写真花嫁」の母との間に生まれた八人の子どものうちの二番目(長男)である。わずか七歳にして勘当され、「両親別居家庭や貧困家庭の子どもたちの施設」で成長する。一〇年後、高校を卒業すると、不完全な形で家族に再会する。しかし、一九三四年に仕事をさがすとき、きまって「お断りだ! ジャップは雇わん! ……たとえ君が白人であっても雇うことはできん!」といって断わられる。結局、ハウスボーイとして雇われ、大学教育を受けている間、若者は憤りを抑えて自由に生きようと試みる。アメリカに対する希望はひろがり、そして自分の家族を「みじめな困難な状況に巻き込まれた家族というより、むしろ興味深い個性をもった集団」と見るようになる。もちろん、若者はもう一度「ハウスボーイ」にもなれるが、彼はならない。日本軍の中国侵略によってアメリカ人たちの激しい反日感情のなかで、教育を受けた他の二世たちがせざるを得なかったように、恥を忍んだ行動、たとえば、「グランド・アヴェニュ・スレイブ」として、チャイナタウンの日本美術品店で「観光客に安っぽい美術品」を売るようなセールスマンとして働いたりはしない。若者は自問しながら、次のように考えるのだ。
 
 ぼくらはアメリカ人だ。他のどんな人間になり得ようか? ぼくの例を考えてみよ。もしぼくがアメリカ人でないとすれば、ぼくは一体何者なのだ? ぼくにはこの国のあらゆる教えが染み込んでいる。これまでのぼくの経験、教育のすべてがアメリカ人であったし、民主的なものだった。……たぶんアメリカニズムとは、環境によって妨げられない、どこまでも耐えられる、内部の調和から生じる気持ちの持ち方だろう。ぼくにはそのような調和はない。東洋人の血を引く第二世代の大半の者にもそれはない。ぼくらはみな心理的に孤児だ。ぼくらは、移民の両親の過去に戸惑い、困惑し、自分の顔に悩まされている――もちろんこれは、アメリカ全体をも含んでいる真実だ。アメリカは自らの過去に当惑している。アメリカ自身、依然として、人口の大多数がアングロ・サクソン系のアメリカ人だった、五〇年か一〇〇年前のアメリカだと思っていることからくる困惑の自己矛盾を抱えている。
 
 若者の語りは、まず海兵隊に、次に海軍に、それから陸軍に志願しようとするところで終わる。「あなたは東洋系アメリカ人の忠誠に疑問を持っているのですか?」と若者は海軍士官に尋ねる。「東洋系アメリカ人?」と軍曹はけげんな顔つきで、「君はアメリカ人だ」と答える。しかし若者は、どの軍隊からも拒絶され、物語は終わる。今日私たちは、日系二世に対するその後の数年間の激動――日米開戦、強制収容所、財産没収、そして限りない屈辱の数々、合衆国に対する忠誠、米軍兵士としての活躍などの歴史を見るとき、読者はこの作品が一九四〇年に発表されたことを知って、当惑するにちがいない。
 『多くの国ぐにから』に丸みをつけるために、アダミックは本の初めに、一頁の統計資料と移民公文書からの一五葉の写真を添えている。そして「プリマスロックとエリス島」ついての講演記録、「ブロードサイド」の質問事項に対する代表的な返事、最後に自ら組織化を手伝った「アメリカ統一のための共同評議会」の展望を付け加えることでこの作品を完成した。この新しい組織が目指した五〇余りの目標のなかには、「共通の市民権から生じる統一と相互理解をアメリカ国民の間に」創ること、移民と「新アメリカ人たち」に関する記録を遺すこと、「不公平な差別的な処置には反対の立場をとる」こと、フォークロアを奨励し、さらに「われわれの人口のより新しい血統について充分な認識とそれに対する紙面を提供させるために、アメリカの歴史教科書を修正する」こと、等があった。
『多くの国ぐにから』は、「今日の世界の人種的関係において一九四〇年度の最も重要な本」として、ジョン・アニスフィールド賞を受賞した。しかしアダミックには、その栄誉に浴する時間はほとんどなかった。彼は「アメリカ統一のための共同評議会」の機関誌、『コモン・グラウンド』誌の初代編集長となり、『ピーブルズ・オブ・アメリカン・シリーズ』誌の編集主任となった。そして、『ウーマンズ・デイ』誌に「彼らは自由を信じた」という連載物を執筆しはじめた。「多民族国家」シリーズとして、一九四一年には『二つの道』Two-Way Passageを、一九四二年に『あなたの名前は?』What's Your Name?、一九四三年に『我が祖国』My Naitve Land.を書き、そして一九四五年に『多民族国家』A Nation of Nations.を著わしていくのである。(Henry A.Christian, “Adamic’s FROM MANY LANDS:Ethnic Literature Then…and Now?、” Modern Language Studies ,8 (Winter 1977-78). )



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「訳者あとがき」から

 日本ではほとんど知られていないユーゴスラヴィア出身のアメリカの作家で一九三〇年代を中心に活躍し、一九五一年に没した、ルイス・アダミックに私が出遭ったのは偶然のことだった。

 一九八〇年五月、私はまだ学生で、東京・高円寺の下宿近くの馴染みの古本屋さんの前を通り過ぎようとしたとき、ウインドーのなかに一冊の英語の本がちょこんと置かれているのに気づいた。ボロボロにすり切れ、すすけたようになったカバージャケットの本ではあったが、私は啓示に打たれたように魅き寄せられ、ふらふらと店内に入り、その分厚い本を取り出してもらった。タイトルにはThe Native’s Returnとあり、聞いたことのない作家の名前が目に飛び込んできた。それがルイス・アダミックだったのである。

 正直言って、そのとき以来、私はこのスロヴェニア出身の作家にすっかり惚れこみメロメロになってしまった。The Native’s Returnに書かれたユーゴスラヴィア探訪記は、若くして故郷を出奔し、アメリカで作家生活を始めたアダミックの、生まれた土地や人々や民族の魂・文化に対する深い愛情と、ユーモアに満ちコクのあるその英語の文体は、アメリカ・エスニック文学の昇華を嗅ぐことの喜びを私に与えた。南の島に生まれた私にとって、その探訪記は島に帰郷したときの自己体験に重なって、私を促えたからかもしれない。

 一九八三年、私はアメリカヘ旅立った、ルイス・アダミヅクの研究者として著名なニューアークにあるラトガーズ大学のヘンリー・A‐クリスチャン教授に会うためだった。そこで私は教授から作家の生涯と作品群を詳しく教えられた。ニューヨーク市ではもっばら古本屋巡りに時間を費やし、アダミックの本を買い求めた。ほとんどが戦前に、ハーパー&ブラザーズ出版社から出された作品である。なかには戦後のリプリント版もあった。

 From Many Landsを手に入れたのもニューヨークでだった。本作品が収録されているこの本は、ホテルに帰り、ベッドの上で拾い読みする、その大都会では一時のストレンジャーにすぎない私を身震いさせるほど感動させた。その感動がどのようなものか、この小品を読んでいただければ十分わかっていただけると思う。

 ニューヨークを発った私は、その足でヨーロッパに渡り、アドリア海に面してひろがるユーゴスラヴィアに入った。アダミックの生地訪問が目的である。スロヴェニアの田園地帯の一隅に建つ生家は、いま「記念館」となっていて、弟のフランツ・アダミッチ博士が出迎えてくれた。いかにも純朴で誠実な感じのする博士の姿に、私は、アダミックもこのような姿かたちで、このような声で話したんだろうな、と感慨にふけることしきりであった。

 日本に帰ってからの私は、手に入れた作品群をかたっばしから読み漁り、ますます、この作家を身近に感じるようになった。そして日本ではまだ知られていないアダミックとその作品を何とか紹介できないものかと思い、手はじめに翻訳を開始した。

 アダミックの作品中、主なもののほとんどは一九三○年代に集中して書かれたものである。世界恐慌、貧困、大国間の緊追、戦争への危惧におののくこの時代にあって、アダミックは移民としての自己体験を通して、アメリカという国を、そこに住む多種多様な人種の人びとを、そして世界全体の行く末をどのように感じ、どのように促え、予測していたのかが、それらの作品群のなかにぎっしりつめこまれ、たしかな洞察力、たしかな哲学として輝いているように思える。

 境界人あるいはストレンジャーとして生きることを強いられたアメリカ日系二世の主人公の語りで構成された本作品は、そうした彼のたしかさが凝縮した代表作といっていいものである。民族・文化・国家・個人……について、新しい世界のあり方が求められている今日、同じ問題を啓示のようにして提示している本作品が五○年余も前に書かれたということは、いまさらながら驚かざるを得ない。「ぼく」の生き方、考え方を通して、読者の皆さんが、アメリカ日系二世の心理的苦悩と心の痛みを理解し、ここを出発点に、日本が「何たる国だ!」でなくなるためにはどうしたらいいのかを、コスモポリタン的な気分で考えていただける一つの入口になれば幸いである。そして私と同じようにこの作家を好きになっていただければ……。
 ルイス・アダミックの作品については、今後、一冊ずつ紹介していく予定である。

 最後に、この作品の日本語版出版にあたって、解説文の転載を快くお引き受けくださったヘンリー・A‐クリスチャン氏には深くお礼を申し上げます。と同時に、永長にわたって私をご指導くださった多くの先輩の皆様に心からお礼を申し上げます。

一九九〇年二月

追記――この作品の出版を目前にして、語り手である「ぼく」が実在の人物であることが偶然のことから編集者の調査でわかった。「ぼく」は、戦争中は強制収容所に入り、戦後はニューヨークに移って実業界で活躍、つい一年半ほど前に他界したとのことであった。夫人は、ニューヨークにあってブロードウェーにも出演するなど日系ダンサーとして知られ、その愛娘もまた、いま舞台で活躍中であることもわかった。この実在する人物の発見を通して、ノンフィクションとフィクションの境界/マージナルで文学的新天地を開いた一九三〇年代、アメリカ・ニュージャーナリズム文学の旗主、ルイス・アダミックを改めて再認識できたのは思いがけない収穫であった。

My purpose...is to begin exploring our American cultural past...imaginatively and creatively, with eyes to the future, ... to sink our roots into our common American subsoil, rich, sun-warmed and well watered, from which we still may grow and flower.

L Adamic (1940)



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◆推薦サイト
Japanese American National Museum
Japanese American From Wikipedia, the free encyclopedia!
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Copyright c Shouzou Tahara http://immigrantebook.blogspot.com/


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