①アダミック雑録-Louis Adamic on Twitter
アダミック記念館・生誕百年記念・記念切手・年譜・アダミックHP・E-BOOK・国際会議・シンポジウム・生家レリーフ・書籍・退学となった学生運動・14才米国移住・米国入国記録・米陸軍志願・帰化市民・名誉除隊・作家活動スタート・HLメンケンの「アメリカン・マーキュリー」掲載・Rジェフーズ等
改定中
Louis Adamic(1898-1951)
▽生家の「ルイス・アダミックの記念館」。
Louis Adamic Memorial room - Museum - Slovenia
- Official Travel Guide - http://www.slovenia.info/?muzej=6375
20世紀初頭のアダミック家。当時は大豪農だった。
▽「ルイス・アダミック年譜」改定中。
http://www.synapse.ne.jp/saitani/neupu.htm
▽スロヴェニア共和国
▽アダミックの全体像を知るには、古いが最初のルイス・アダミックの評伝として英語版、Louis Adamic: A checklist 1971 by Dr.prof Henry A Christian -邦訳は田原正三訳『「二つの世界に生きる』(上 No.57 p35-47)(下 No.64 p57-74)世界文学界会誌収載。
◇アダミック国際会議・シンポジウムの「Louis Adamic (1898-1951) :His Life, Work< and Legacy」。ミネソタ大学アメリカ移民研究所
◇スロヴェニア語版だが、アダミックの特に未開拓の晩年(1948-51年)を研究されている
PERO IN POLITIKA ZADNJA LETA LOUISA ADAMICA」1993。
◇以下の近年出版された、アダミックのエスニティや文化多元主義、ルーツを中心に論じた研究書「Rooting Multicultralism-The Work of Louis Adamic by Dan Shiffman 」などがある。
▽TOP ルイス・アダミックHP Louis Adamic In Japan
▽ 生誕100年記念祖国スロヴェニアで切手となったルイス・アダミック。
▽ これまで百科事典や人名辞典などに掲載されているアダミック項目の殆どが内容的に古くまた正確さに欠けるものだった。以下はアダミック研究者による比較的新しいもの。
*ADAMIC LOUIS(1898-1951) by Janja Zitnik編 The Greenwood Encyclopedia of Multiethnic American Literature: A - C 著者: Emmanuel Sampath Nelson
*他に同様にアダミック研究者H.A.Christian(ラトガーズ大学)の
◆「アダミックの国際会議・シンポジウム」
没後30年を記念して「アダミックの国際会議・シンポジウム」がスロヴェニアとアメリカで開かれていたのを知ったのは米ニュージャージーでクリスチャン教授に会って初めてである。
アメリカのミネソタ大学移民歴史研究所は季刊誌SPECTRUMで特集-「Louis Adamic(1898-1951):His Life, Work, and Legacy」-を編んだ。米国セントポール市とスロヴェニアのリュブリャーナ市で国際会議・シンポジウムが開かれた。セントポール市ではユーゴからの公式代表団を含むカナダ、アメリカ各地から約百五十名の参会者を迎え、初めにスタノニック教授とクリスチャン教授によるアダミックの生涯および研究の概観と報告があり、その後二十二名の研究者による論文が発表され、主にアダミックの思想と行動に焦点を当てて討議された。リュブリャーナ市においても同様に、アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、多数の参会者があり、アダミックの実弟フランツ・アダミッチ博士によるアダミック家についての詳細な報告後、39名の研究者による研究論文が発表され、主として、アダミックの文学的手法とその影響力について、アメリカに対するアダミックの視点、さらにアダミックとユーゴとの関係などが活発に討議された。
*これがアダミックの国際的な評価、研究の始まりである。ただこの時は、ユーゴスラヴィア民族紛争はまだ起きていなかった、ベルリンの壁も、ソ連も崩壊していない東西冷戦の只中、スロヴェニアの独立も、EUもまだ出現していなかった。アダミック評価の意味で、興味深い記録となる。
アダミックは名前の表記や呼称、生年月日、米国入国年、米軍入隊年、死因など不明確な点が多い。例えば生年だが、これまで百科事典や新聞雑誌などでは1899年となっていた、今でもほとんどがそうなっている。アダミック自身も生前その年で通していた。アダミックの生家の壁に彫られたレリーフも「1899-1951」となっている。しかし現在では「1898年」が正確。
アダミックの故郷グロスップレ(スロヴェニア)
▽名前 Louis Adamic
▽生家 Birthplace Praproce Castle near Grosuplje of SLOVENIA
生家は、現在のスロヴェニア共和国の首都リュブリャーナからバスで30分ほど行った町プラプロチェにある。当時はオーストリア・ハンガリー帝国下にあり、その後はユーゴスラヴィア下の小さな村ブラトにあった。生家は七百年近く続いた旧家で頑丈な石造りの建物で、現在は記念館となっている。建物は今では一つしか残っていないが、上に掲載したイラストのように昔は相当の豪農であった。以前アダミックの甥Prof.Tine Kurentからアダミック家の六百年余りに亘る系図が送られてきた。アダミック家系には音楽家が多く優秀な音楽家も輩出しているようだ。なるほど、アダミックのリズムカルな文体の意味がわかったような気がする。
▽生家の入口の壁に刻まれたレリーフ。FROM THIS HOME /VENT INTO THE WORLD /OUR UNFORGETTABLE /LOUIS ADAMIC HE FULFILLED HIS TASK/COURAGEOUS AND GREAT /AND FELL A VICTIM IN THE STRUGGLE/FOR THE RIGHTS OF PEOPLE http://www.slovenia.info/?muzej=6375 (「ここから世界へ旅立った 我等が忘れがたきルイス・アダミック/人民の権利のための闘いに、勇敢に偉大に、自らの務めを果たした」)
▽書籍
アダミック自身の編集したものや、新聞雑誌に掲載された記事、翻訳、エッセイ数はタイトルが500を越える膨大な量だ。 http://www.synapse.ne.jp/saitani/Louis%20Adamic%20Books.htm
▽世界が動いた激動の1898年、1990年... http://immigrantebook.blogspot.com/2010_01_01_archive.html
▽アダミックには観察力、凄い読書量、旺盛な好奇心、そしてつねに自分を高めようと向上心、「学び」の精神がある。時代を読む先見性、幅広い行動力、凄まじい情熱、組織やイデオロギーに捉われない、柔軟なリベラルな思想、なかなか一筋縄ではいかない複雑だが、いろんな面で魅力的な個性、本質的に自由人…、何となく坂本龍馬の国際版のような感じが私にはする。
▽アダミックの作品はアメリカ国内だけでなく、国際的な文化、文学、歴史、政治、外交にまでおよび、あまりにも規模が大きすぎて捉えきれない。
"Louis Adamic was one of the most complicated and provocative figures of the American literary world during the first half of the twentieth century." H.A Christian
▽アダミックの映画化を準備していた映画監督でTVディレクターのFranci Slak(Slovenian Film Director)の死は本当に残念である。彼はスロヴェニアの国民詩人プレシェレーンなどの映画化で監督として数々の賞を受けていたようだ。アダミックの映画化のことで何度かメール交換をしただけで個人的には全く知らないが、残念だ。私に娘のアドレスを教える、とメールがきたのが最後だった。
http://immigrantebook.blogspot.com/2009/10/franci-slak-slovenian-film-director.html
アダミックは小国スロヴェニア共和国の国際的な「人物遺産」といっても言い過ぎではないであろう。その生涯は「移民の国」アメリカの歴史の体現でもある。作品はもちろん刺激的だが、彼の波乱に富んだ生涯のほうが面白い。 映画化はいずれ必ず実現されなければなるまい。
▽The Cosmopolitan Mind of Louis Adamic by Prof.dr.Ales Debeljak (Slovenia) http://www.synapse.ne.jp/saitani/cosmopolitan.htm
▽"Adamic was an interesting and complicated man, with genuine literary ability and great personal dignity. Tall and lanky, Adamic somewhat resembled Henry Honda, even moving with an awkward grace similar to the movie star's. Because he was five years older than I, he sometimes talked to me in a fatherly manner.... He had a hearty explosive laugh and loved to listen to jokes, though he himself was an inept story teller who always ruined the punch line." - "Good-bye, Union Square Union Square A Writer's Memoir of The Thirties" by Albert Halper 1970
1908-1912年 14歳でアメリカへ
▽アダミックが退学となった運動とは、第一次世界大戦前夜にオーストリアの南スラブ地方で起きていた、汎革命的な「南スラブ人国家統一運動」である。冒険心に富んだアダミックは、リュブリャーナのギムナジウムに入学して間もなくして、その秘密の学生政治クラブに加わる。そして1908年9月20日その学生デモの最中、友人はオーストリア兵に射殺され、アダミックは数箇所負傷する。死者二人、重軽傷者4、5人、全員学生だった。
*ここにRUDOLF LUNDER、IVAN ADAMICが射殺された現場と彼らの遺体、記念碑の写真が掲載されている。IVAN ADAMICはアダミックのいとこ。彼らの葬儀には市民一万人余りが参加したという。Petkovanje #82 – smrt Adamiča in Lundra
http://ponpet.blog.siol.net/2007/10/21/petkovanje-82/
(1908年という年はオスマン帝国で青年トルコ人革命が起き、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州を併合している。1914年にあのサラエヴォ事件が、そして第一次世界大戦勃発。アダミックの「ヨーロッパの火薬庫」の関係はここから始まっている。)
*「自伝」では、オーストリア兵に射殺されたのを友人としているが、実際はRudolf Lunderと親戚の少年Ivan Adamicがいた。アダミックは拘留され退学。オースリアの全ての学校に入学することを許されなかった、そしてアメリカへ渡ってからも二度と正式の教育を受けることはなかった。
▽『ジャングルの中の笑い』(アメリカ移民の自伝)で、その熱狂的なリュブリャーナの学生生活をこう語っている。
ヤンコと僕は、その組織の秘密の集会に参加し、オーストリア政府の憲兵から目を付けられていた、この運動の大人の指導者やアジテーターによる興奮した演説を聞いた。僕らはほかの少年たちにまじって、ハプスブルグ家の紋章を踏みつけたり、オーストリア国家についての口汚いパロディを歌ったりした。夜には市中を歩き、チョーク差し棒で武装し、そして官庁ビルの前や壁の歩道にオーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝の名前にちなんで、侮辱する言葉を落書きした。しょっちゅう、僕らは警察から尾行されていたので、すごいスリルを感じていた。
一般に僕らは、「自由の女神」のロマンチックでまぬけな信奉者だった。僕はその運動の背後にある考えをあまり信じていなかった。...僕らは面白半分で-それが危険でわくわくさせたので-その運動に参加していた。
しばしば、秘密の集会でアメリカへの移民問題が持ち 上がった。運動の指導者は、「打倒、オーストリア! 打倒 、アメリカ! オーストリア政府は善良なスロヴェニア農民たちをアメリカへ送り込み、アメリカ政府は彼らを食い物にしている。大金がアメリカから流れ込んでいることは確かだ」と演説した。「だが」と、プロパガンディストは訴えた。「それはその価値に値するのか?アメリカは移民たちの肉体をボロボロ、ズタズタにし、魂まで侮辱し、移民たちの素朴な精神的、美的な感受性を奪い、祖国の美しい方言や習慣をも腐敗させ、そして
翌朝、何もかもがふたたび静かになった。嵐は過ぎ去っていた。父と母には、純朴な人によくある子を思う親心ゆえの、いじらしさがただよっていた。僕が退学になったことと、その後の神学校へ入るのをためらったことの彼らに与えた影響は、あの初夏のすさまじい雹の嵐で、わずか一瞬のうちにジャガイモや未成熟の玉蜀 黍が大部分駄目になったときと、まさに同じこ とだった。僕は雹の渦巻きに脅えている母の姿 を見ていた。母は涙を流しながら、戸口から聖 水をばら撒き、そして父は、母と呪文を唱えて いた。しかし、いつしか嵐は過ぎ、まるでうそ のように太陽が顔をのぞかせると、母は泣くのをやめ、父は祈りと呪文をやめた。それから、二人は雹でやられた作物を見ながら、畑の中を歩いていた。僕も一緒に歩いた。母のうれしそうな表情が、突然、晴れ晴れとなった。
ほら、ここは雹の被害をほとんどうけていないわ。大目に見たんだね。まだ大きくなるわ」
母は父ににこっと笑みを浮かべ、それから僕にも笑みを浮かべた。
「そうだな」と、父も頷いた。「こいつはまだ大きくなるよ」...。
▽14才のアダミックは、オーストリアの「臣民(subject)」になるよりも、アメリカの「市民(citizen)」になるほうを選ぶ。「In America everything was possible. There even the common people were "citizens," not "subjects,"...」
《米国入国記録》
▽「自伝」では1913年に入国したとなっていたが、その年の乗船記録にはアダミックの名前は載っていない。そしてアメリカ公文書に入国が詳細に記されていることがわかった。アダミックがニューヨーク港に到着したのは1912年12月28 日だった。
詳細引用は、Henry A.Christian (Newark, Rutgers University) "Literature, Culture and Ethnicity" Edited by Mirko Jurak "RANDOM COMMENTS ABOUT BOOKS, ARTICLES, IMMIGRATION, HISTORY, TIME, AND IDEAS: AN ADAMIC MISCELLANEA"による。*故クリスチャン教授は「自伝」を10回ほど読んだが、そのたびに事実とフィクションに惑わされた」と記している。
*「 S. S. Niagara sailing from HAVRE, DEC 16 1912, // Arriving at Port of NEW YORK, DEC 28 1912 163 Louis Adamic 」蒸気船「ナイアガラ号」でフランス、ルアーブル港を1912年12月16日に出港、ニューヨーク港に1912年12月28日着。
▽アダミックの米国移民官との29項目の一問一答は面白い。
*名前はAdamic-Louisの手書きで書いた紙をヨーロッパで準備してきていた。普通の移民たちと違って、すでにアメリカに到着する前から名前は決めていた。
・読み書きはできるか「yes-yes」/
・国籍は「オーストリア」 /
・人種は「"スロバーク"(分類上)-スロヴェニア人」 /
・年齢は「16才と8ヶ月」と答えている。実際は「14才と9ヶ月」だった。出国時の写真からも十分にその歳に見える。リュブリャーナ出国届けではなぜか「1899年生、13才」となっている。 /
・職業は「none Lab(labores)」/
・最終目的地は「ニューヨーク市/
・最終目的地へのチケットは持っているか「yes」。/
・渡航費用は誰が払ったのか「自分で/Self」/
・所持金は「$50」。入国費用「$17」/
・アメリカに友人親戚はいるか 「ニューヨーク市コートランド82に叔父Alois Skulj(実際は母方の遠い親戚)」がいる。そこはスロヴェニア語系の新聞社 「Glas naroda(人民の声)」がありそこの編集者だった。(後にその新聞社で働くことになる。)/
・これまでに刑務所または孤児院の経験は「NO」/
・一夫多妻か「NO」/
・アナーキストか「NO」/
・精神肉体の状態「Good」/
・奇形もしくは不具者か「NO」/
・身長「5フィート-6インチ」、肌色「white」/
・目の色「Brown-Chestnut/
・生誕地「Austria-Krain. Blato」等など。
▽「自伝」では、二等船室に「スロヴェニア人はピーター・モレクと僕だけ」と書いていたが、モレクの名前は名簿に載っていない。オハイオ州へ旅する二人の若者の名前があるだけ。アダミックは単身でアメリカへ渡っていたのだ。しかも十代の若者はアダミックだけである。
▽スロヴェニア出国記録に生年を「1899年、13歳」としているのは一体どういうわけだろう、何か意味がありそうだ。しかし米国入国の際には年齢を「16歳と8ヶ月」とごまかしている(実際は「14歳と9ヶ月」)。おそらく「南スラブ人国家統一運動」を支援する革命的な学生デモに参加して退学になっていたので、入国の不安があったのかもしれない。スロヴェニアの全学校の入学を禁止されていた、農民になるしか道はなかった。アダミックにとっては「脱藩」ならぬ「脱国」である。
ニューヨーク港に到着する前日、小説上の人物がアダミックに英語でこう言う。-「君ならアメリカでうまくやっていけるよ、たとえそこがジャングルであってもな」それを僕は、彼のほんのちょっとの助けで理解した。
そのあと、スロヴェニア語でこう付け加えた。「君はこれからアメリカへ感動と冒険を求めて行くんだ。恐れちゃだめだよ。君なら絶望はしないだろう。どれもたっぷり味わうさ」
1913年12月28日、-ニューヨークはからりと晴れて冷たかった。岸壁には雪が残っていた。
船が自由の女神像の前を過ぎるとき、ピーターと僕は甲板に出ていた。女神像の大きさがいやに目に焼きついた。僕はローアー・マンハッタンのスカイラインのほうへ目を向けた。ピーターは何やら話しかけていたが、僕は何ひとつ聞いていなかった。僕はもう、全身が震えんばかりだった。
「あれがビルディングだ」と、ピーターが言った。「ほら、霧の中、ウールウォースタワーだ。見えるかい?」船が自由の女神像の前を過ぎるとき、ピーターと僕は甲板に出ていた。女神像の大きさがいやに目に焼きついた。僕はローアー・マンハッタンのスカイラインのほうへ目を向けた。ピーターは何やら話しかけていたが、僕は何ひとつ聞いていなかった。僕はもう、全身が震えんばかりだった。
僕は頷いた。あまりの凄い景色に目が眩んだ。ナイアガラ号が前方の船に通過する合図の汽笛を鳴らしたとき、不思議な、意気揚々としたものを感じた。僕は、汽笛同じくらい、大声で叫びたかった!
色とりどりの民族衣装に身を包んだ移民たちは、背伸びして新しい国や街を一目見ようと車地やウィンチの間をぐるぐる回り、手すりに押し寄せ、また自由の女神像を見させようと子供や赤ん坊までも抱き上げ、女たちは歓喜でむせび、男たちは跪いて神へ感謝し、子供たちは歓声をあげ手をふり躍っていた。
船から艀で「移民を洗濯する」エリス島へ運ばれ、そこで2日間入国検査をうける。 「エリス島で過ごした日は、長い一日のように思われた。...移民たちの間で、ある者はアメリカへの入国を許可されず、ヨーロッパへ送還されるという噂が飛び交っていた。僕は何時間も冷たい椅子に座っていた。」
検査官はでっかい机を背にして、高い壇上に ふてぶてしく座っていた。まるで故国の役人に そっくりだった。...長い取調べ、そしてよう やく2日目に解放される。
「小型のエリスアイランド号は白波をけたてて全速力でバッテリ公園へ向かっていた。 僕はニューヨークに、アメリカにいたのだ。」
▽旧世界から新世界へ、ようやく辿り着いた「希望の国、涙の国」アメリカでの約40年間、アダミックは波乱の生涯を送ることになる。
▽1991年、ニューヨーク市で開かれたニューヨーク芸術祭に《移民の声》と題するエリス島のパフォーマンスで、アダミックの移民の自伝的小説『ジャングルの中の笑い』の一節が一世移民たちによって朗読された。アダミックの体験を通して、一語一語、かみしめながら...2000年NY市で催された「自由の女神コンサート」。* http://bit.ly/aCnCNR *Statue of Liberty(自由の女神像) American Dream: Andrea Bocelli's Statue of Liberty Concert http://bit.ly/d4e3VK
▽アダミックは14、5才でニューヨークのスロヴェニア語系新聞社「グラース・ナローダ」で働いている。最初は新聞配達や雑用だが、その後取材記事を書いたり、国際的なニュースを翻訳したりしている。
「16才の編集助手として、朝九時に新聞を刷る準備のために、午前四時に机につかなければならなかった。その時刻には、マンハッタンのビジネス街は真っ暗で、人気はなかった。摩天楼は、ところどころ一つの窓だけに明かりが点っていて、昼間のマンハッタンよりももっと神秘的で美しく、気分がよかった。」
▽1916年に米国陸軍に志願。1918年にルイジアナで帰化市民取得。1923年に名誉除隊。
▽1920年代、アダミックは南カリフォルニアに住んでいた。そこで素晴らしい 文学仲間に恵まれる。生涯の友人となったケアリー・マックウィリアムズ、アプトン・シンクレア、詩人ジョージ・スターリング、イーディス・サマーズ・ケリー、詩人ロビンソン・ジェファーズ、ジェイク・ジェートリン、ローレンス・クラーク・パウエル、メアリー・オースティンなど。
▽最初の雑誌への投稿は1921年に匿名Henryで「 」の作品を載せている。
▽アメリカ文学の黄金期といわれる1920年代から30年代にかけて、当時の若い作家たちを育てたのが、偉大な編集者M・パーキンズである。この編集者なくして『日はまた昇る』のヘミングウェイも『天使よ故郷を見よ』のトマス・ウルフも『グレート・ギャツビー』のスコット・フィッツジェラルドも、そしてアースキン・コードウェルその他多くの若い作家たちも存在しなかった。
▽作家活動は1925年頃から51年まで。
アダミックはメンケンの薦めでアメリカ作家の登竜門といわれた「アメリカン・マーキュリー」に早々と寄稿し、パーキンスの周辺をうろうろしていたが、なぜか彼には声がかからなかった。おそらくアダミックの経歴のせいではないかとクリスチャン教授。ヘミングウェイなどの作家は大学出のいわばエリートたちで、一方アダミックは14歳でギムナジウムを退学したユーゴスラヴィアからの「卑しい移民」の出である。しかも労働者上がりの放浪作家だ。しかしアダミックにとってはそのほうが彼の人生において良かったのかもしれない。というよりそういう運命にあったのだろう。アダミックの人生はスタートからして異形であった。そして友人マックウィリアムズが述べているようにアダミックは「自分自身のことをよく知って」いた。
▽『私のアメリカ』(1938年)の前書きで、アダミックはこう書いている。「基本的に私は思う。私は自分自身を教える立場にある生徒であり、物事の真実捉え、物事を理解しようと努力する探求者である。…私は何かをするために…何かのために自己を燃焼させる人間でありたい」と。感動と冒険求めてやって来た国アメリカの地で、アダミックは自らの力で、自分の能力を信じて、新しい人生を切り拓いていくことになる。
▽アダミックがHLメンケンの薦めで「アメリカン マーキュリー」誌に第一次大戦の物語を掲載したとき、名編集者の目には止まらなかったが、無名のアダミックを「絶賛」してくれたのは、あの『偉大なるギャツビー』の著者スコット・フィッツジェラルドだった。第一次世界大戦に志願した同じローストジェネレーションの世代としてアダミックのヒロイックな作品に自らの体験を重ねただろう。*そこにフィッツジェラルドの人柄も垣間見えた。またアダミックも忘れずに『ジャングルの中の笑い』の中でその喜びを語っている。*引用HChristian,
*カリフォルニアに住んでいた20代のアダミックは、スラブ作家の作品を英語に翻訳する一方で、スロヴェニア系の雑誌「」に物語を掲載し、その雑誌の呼び物的存在であった。そしてロサンゼルスを「巨大な村」と呼び、友人ケアリー・マックウィリアムズと共に、さまざまな政治的不正やカルト教団の宗教ビジネス・ペテン性などを痛烈に告発したりした。
▽エスニック・アメリカの象徴、「多様性による統一」の提唱者として、アダミックの視線は、人種・民族的差別や偏見を受ける者、弱者、アウトサイダー、異人、変人、異端者、外国人、境界人、移民、棄民、マイノリィティ、少数民族、労働者、女性...に非常にあたたかく、このような人たちの権利を守るためにペンを執り闘った。
1929年『ロビンソン・ジェフーズ-詩人の肖像』Robinson Jeffers : A Portrait
▽1928年の夏、友人のケアリー・マックウィリアムズとサンフランシスコをドライブ、そしてカーメルにある風変わりな詩人ロビンソン・ジェファーズの石の家を訊ねる。その時の印象が翌年『ロビンソン・ジェファーズのポートレイト』として出版されジェファーズの初期の重要な作品となった。*そして1983年、ロビンソン・ジェファーズ息子(双子)はアダミック作品が当時の父親を知覚鋭く繊細にポートレイトしたとしてその価値を理解し、「前書き」をつけて新しい豪華版として出版した。R. J. : Robinson Jeffers : A Portrait.
▽ジェファーズの初期の重要な作品。1982 年にジェファーズの息子の「前書き」を付けて復刻された豪華版。
「他にまさるものはない」と評価している。
"Robinson Jeffers: A Portrait" 1982 forword by one of Jeffers' twin sons Garth Jeffers "but I think Adamic's short book is unexcelled as a description of the man and the work he did up to the late twenties. Concise and unpretentious, it is perceptive and written with an eye for significant detailes. Rereading the book, I am reminded of qualities my father had that I took for granted and did not think of as distinctive in those days." Adamic, Robinson Jeffers: A Portrait (Seattle: University of Washington 1929)
一部、右からも左からも酷評されたが、当時、エール、ハーバートなど80校ほどの大学で教材として使用された。さらにリプリントされ、各国語に翻訳され、最近ではアメリカで文庫本にも収められ読み継がれている。アメリカで初めてのノーベル賞を獲得したばかりのシンクレア・ルイスによって「絶賛」された。
"In fine, the American working class will be violent until the workers become revolutionary in their minds and motives and organize their revolutionary spirit into force-into unions with revolutionary aims to power. Then they will be able to afford to dispense with such violence as has been described in this book."DYNAMITE-The Story of Class Violence in America 1830-1934. rev. ed. 1931,34
つづく
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